2016年5月8日日曜日

「渇いている人は来て飲みなさい」

2016年5月8日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 7章37節~39節

来て飲みなさい
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)と主は大声で叫んでおられました。それは「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」のことでした。

 この「祭り」とはユダヤ三大祭りの一つ、「仮庵の祭り」です。その祭りは一週間続きます。おびただしい数の巡礼者がエルサレムに集まります。その巡礼者の群れは七日間毎朝、祭司を先頭にして行列をつくり、エルサレムの南東にあるギホンの泉に赴きます。そこで祭司は黄金の水差しに水を満たし、神殿へと向かいます。巡礼者の群れも祭司を囲んで進み、神殿へと上ります。そして、祭壇に着くと祭壇を一巡して祭司が祭壇に水を注ぎます。

 それは「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)というイザヤの預言に基づく儀式でした。それゆえに、彼らは祭司が水を汲む時に、その聖書の言葉を皆で大合唱するのです。そして、神殿に上る途上においても、皆で「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ」(詩編113:1)といった詩編を歌いながら進みます。そこには喜びが溢れていたことでしょう。

 そして、そのような儀式が繰り返されて最終日。最も盛大に祝われるその日、彼らは祭壇の周りを歌いながら七周するのです。まさに彼らの熱気と興奮はピークに達します。しかし、そのような群衆のただ中で、イエス様は立ち上がり大声で叫びます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい!」

 彼らは「救いの泉から水を汲む」という儀式を毎朝やってきたのです。「救いの泉から水を汲む」と大声で歌ってもいたのです。しかし、その宗教的な儀式をある意味でイエス様はバッサリと切り捨ててしまうわけです。あなたたちは救いの泉から水を汲んでなどいない。行列つくってギホンの泉で水を汲んでも、救いの泉とは何の関係もない。そして、もう一方で、彼らがその儀式が表現しているものの実体はここにあると言うのです。その儀式において彼らが求めてきたものは、まさにここにあると言っているのです。そう、救いの泉はここにあると。主は言われるのです。「渇いている人はだれでも、《わたし》のところに来て飲みなさい!」

 過激です。実に過激です。しかし、イエス様という御方は、このようなことを大まじめに言われる方なのです。イエス様は誰からも当然のように尊敬される立派な教師などではありません。イエス様の前に立つならば、その言葉を受け容れるのか否か、その方を信じるのか否かが問われるのです。ですから、その後には、これを聞いた群衆が二つに分かれたという話が続くのです。さて、私たちはこの言葉をどう聞き、どう受け止めるのでしょう。

渇いている人は
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と主は言われました。そもそも主が言われる「渇き」とは何でしょう。

 それが肉体的な渇きでないことは明らかです。肉体的な渇きなら誰でも癒すことができるからです。それならイエス様でなくてもよいのです。水さえ持っていれば私でも「わたしのところに来て飲みなさい」と言うことができます。

 そのように、イエス様が言っておられるのは明らかに肉体的な渇きではない。ならば精神的な渇きでしょう、と人は考えます。しかし、精神的な渇きなら、それもまたイエス様でなくても癒せるのです。宗教的な儀式は何であれ、それなりに心理的な効果を持っているものです。ギホンの泉で水を汲む儀式によって精神的な渇きをいやされる人、心を満たされて帰っていく人はいくらでもいたに違いありません。さらに言うならば、そこで多くの人々と心を一つにして同じことを行うところから生まれる連帯感、一体感によって心を満たされて帰って行く人は少なからずいたのでしょう。それはここにいる私たちでも同じだろうと思います。精神的な渇きの話であるならば、イエス様がなにも「わたしのところに来て飲みなさい」と言う必要はないのです。

 では、イエス様が言っておられる「渇き」とは何でしょう。その問いは次のように言い換えることができます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われるイエス様は何を飲ませようとしておられたのでしょう。そして、その答えは今日の聖書箇所にはっきりと書かれているのです。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(39節)。

 「“霊”」とは神の霊、聖霊です。「わたしのところに来て飲みなさい」と言ってイエス様が与えようとしているのは神の霊です。それは何を意味しますか。聖霊が与えられることによってしか癒され得ない「渇き」というものがあるということです。それは他の何によっても癒されない「渇き」です。他の何かで癒され得る精神的な「渇き」の話ではないのです。

 神の霊、聖霊だけが癒すことのできる「渇き」。それは神への渇きです。神を求める渇きです。神との交わりを求める渇きです。永遠に神と共にあることを求める渇きです。そのような渇きについては、既に詩編42編に次のように歌われています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42:2)。それは単に渇いた心の癒やしや満たしを求めることとは異なります。神御自身を求める渇きです。

 それこそが人間の内にある根源的な渇きなのです。ブレーズ・パスカルが「人間の心には、神にしか埋められない空洞がある」と言っているようにです。しかし、人はその渇きを、その空洞を、代わりの何かで満たそうとするのです。神御自身ではなく、精神的な満たしをその代わりにするのです。時として宗教的な儀式、宗教的な熱狂や興奮、宗教的な連帯感や一体感さえも、そのような代替物にされるのです。しかし、イエス様が見ていたように、それで根源的な渇きが癒されることはありません。人間には神の霊しか癒すことのできない渇きがあるのです。

わたしのところに来なさい
 その渇きを癒すためにイエス様は来られました。渇いている人に飲ませるためにイエス様は来られました。御自分を信じる者に聖霊を与えるために来られました。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」。

 しかし、そのためにはまだ成し遂げなくてはならないことがありました。それゆえに、39節はこう続くのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。

 「イエスが栄光を受ける」という表現はヨハネ福音書独特の表現です。これはイエス様が十字架にかかられ、復活し、天に帰られることを意味するのです。聖霊が与えられる前に、まずそのことが必要でした。すなわち、まずイエス様によって罪の贖いが成し遂げられなくてはならなかったということです。

 私たちに聖霊が与えられるには、妨げが取り除かれなくてはなりません。私たちと神とをもともと隔てていたものを取り除かなくてはならないのです。水が与えられるためには、まず水のパイプが整えられなくてはなりません。パイプがつながらないままでは、あるいは詰まったままでは水は来ないのです。

 人と神とを本質的に隔てているのは人間の罪です。ですから、神の霊に与るためには、まずその罪が赦され、罪過が取り除かれなくてはならなかったのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とはそういうことです。キリストがまず栄光を受けなくてはなりませんでした。キリストは十字架の上で罪の贖いを成し遂げて、死者の中からよみがえり、天に帰られなくてはならなかったのです。

 「渇いている人はだれでも、《わたし》のところに来て飲みなさい」と主は言われました。なぜ他の何かではなくキリストなのか。キリストこそが私たちの罪のために御自身を献げてくださった御方だからです。キリストこそが罪の赦しを与えてくださる御方だからです。キリストは十字架にかけられ、復活された救い主として、信じる者に聖霊を与えて下さるのです。

 それゆえに「だれでも」と主は言われるのです。それは主の成し遂げてくださったことによるからです。だから「だれでも」キリストのもとに行くならば、罪を赦された者として、聖霊を受けることができる。神との交わりの中に生きることができるのです。
 
 そして、それは単に私たち自身のためではありません。主は言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)。

 あの時、イエス様の言葉を間近で聞いていた弟子たちは、やがてイエス様の言われたとおり、聖霊を与えられました。来週は聖霊降臨祭ですが、弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生したことを祝います。そうです、弟子たちに聖霊が与えられただけでなく、教会が誕生したのです。

 つまり彼らの内に与えられた聖霊はただ彼らの渇きを癒し、彼らを生かしただけでなく、そこから生きた水が川となって流れ出たということです。溢れ流れて次々と教会が生まれ、歴史を流れ降って今日に至るのです。

 そして、私たちが聖霊を与えられたとするならば、今度は私たちから生きた水が川となって流れ出るのです。聖霊は私たちの渇きを癒すだけでなく、私たちを通して誰かの救いのために生きて働かれるのです。

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