2016年5月22日日曜日

「完成を目指して」

2016年5月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅰ 6章11節~16節

追い求めなさい
 今日はパウロの書いたテモテへの手紙が読まれました。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(11節)と書かれていました。

 まずは「避けるべきこと」について語られています。それは何でしょう。直前の10節には「金銭の欲は、すべての悪の根です」と書かれています。避けるべきこと、それは直接的には「金銭の欲」を指しているようにも見えます。しかし、わざわざ「これらのこと」と書いてありますから、避けるべきことはそれだけではないのでしょう。

 実際、今日の箇所の直前に書かれているのは、単に「金銭の欲」の話ではないのです。3節には「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者」という言葉が出てきます。そのように、テモテの牧会している教会に「異なる教え」を説く教師たちが入ってきていたのです。どんな教えを説いていたのでしょう。詳しくはわかりませんが、5節には「信心を利得の道と考える者」と表現されています。少なくとも彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということはわかります。

 具体的には「お金」の話でしょう。だから「金銭の欲」という言葉が出て来るのです。実際に彼らは信心を金持ちになる手段と考え、そして教えていたのかもしれません。あるいはもっと広い意味での「利得の道」として教えていたのかもしれません。いずれにせよ、「利得の道」は多くの人々の心を惹きつけたと思います。特に教会には奴隷の身分の人たちが少なくなかった時代です。「利得の道」は魅力的であったに違いありません。

 しかし、「利得の道」によって、皆が自分の利得にしか関心がなくなってくるとしたら、そこに何が起こってくるのでしょう。こんなことが書かれています。「そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。確かに、自分が何を得るかということにしか関心がなければ、そして、その欲望が果てしなく増大していくだけの「利得の道」であるならば、そうなるのも無理はないと言えます。実際、そのような異なる教えを説く教師たちがはびこっている教会において、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じていたのでしょう。

 そのような現実の中でテモテはどうしたらよいのでしょう。そこでパウロはこう言っているのです。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」。原文においては、「あなたは」という言葉が冒頭に置かれて強調されています。そうです、そのような現実の中で「他の誰か」を問題にするのではなく、重要なのは「あなた」がどうするかだ、というのです。「《あなたは》これらのことを避けなさい」と。

 いや、本当は避けることが重要なのではありません。大事なのは何を求めるかということなのでしょう。利得の道に従って、目の前の利得を求めている人々がいるとするならば、《あなたは》本当に追い求めるべきものを追い求めなさい、ということでしょう。パウロは続けてこう言うのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」(11節)。

 「正義、信心、信仰」と並べられています。「信心」は「敬虔」とも訳されます。それは神を畏れ敬う生活です。真に神と共にある生活です。神と共に生きていることです。そして「信仰」。ただ信仰箇条を承認することではありません。救いの神への揺るぎない信頼を持つことです。その二つと並べられている「正義」なら、それは単に人間の目から見て正しいと見えることではありません。神の目に正しいとされることでしょう。それは単に人間の正義感によって追い求めるべきものではなく、「信心」と「信仰」をもって追い求めるべきものなのです。

 そして、先の三つが神に対するものならば、後の三つは人に対するものと見てよいでしょう。愛すること、忍耐すること、柔和であること。私たちは他の人にそれらを求めたくなります。他の人を問題にしたくなります。他の人に愛がないこと、忍耐がないこと、柔和でないことを問題にしたくなります。しかし、パウロは言うのです。《あなたは》追い求めなさい、と。それは他の誰かの問題ではありません。

 そしてまた、ここで言われているのは「追い求めなさい」ということであり、それらを既に得ているかどうかが問われているのではないのです。実際、これは私たちにも関わっていることでしょう。誰かを問題にしている時は良いのです。自分の問題として受け止めるとき、私たちはしばしばこれらが決定的に欠けていることを思わざるを得ないのです。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和。どれをとっても欠けていると思わざるを得ないのです。しかし、欠けているからこそ追い求めるのです。ひたすら追い求めるのです。

 テモテもまた既に得ているわけではありません。追い求めなさいと言われている。しかし、既にそのようなテモテが「神の人よ」と呼びかけられているのです。既に得ているか否かよりも追い求めているか否かが重要なのです。

戦い抜きなさい
 そして、追い求めるということを言うならば、私たちはある意味では一生追い求めることになるのでしょう。ここに語られていることは私たちの一生にわたることなのです。 だからこそ、さらにパウロはこう続けるのです。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(12節)。

 ここで語られている、多くの証人の前での信仰の表明は、テモテの任職の時の話ではなく、洗礼を受けた時のことを指しているものと思われます。「命を得るために」と書かれていますから。ここで語られていることは、教師としてのテモテに語られている言葉ではなく、一信仰者としてのテモテに語られている言葉なのです。

 「信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい」と語られています。そのように信仰はある意味では「戦い」です。しかし、それは「誰か」と戦うことを意味しません。ここで用いられている言葉は戦闘よりもむしろ競技を意味する言葉なのです。最後まで走り抜くという戦いです。

 ここで語られていることに最も近いのはヘブライ人への手紙12章に書かれている次の言葉でしょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:1‐2)。

 そのように走り抜いて「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。しかし、間違ってならないのは、ここで自分の行為や努力と引き替えに永遠の命を手に入れよ、と言われているのではないということです。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かって、私たちは走り出したのです。

 しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。途中で脱落させようとする力が働くのです。それは丁度、競技をする者の完走を妨げる諸々の力が働くのと同様です。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜くとするならば、そこには戦いがあるのです。最終的には誰の責任にもできない、自らが走り抜くか否かという戦いがあるのです。

 そこで重要なことは、どこに目を向けるのかということです。ヘブライ人への手紙では、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」と語られていました。パウロもまた、ここでキリストに目を向けさせます。「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます」(13節)と。

 ピラトの前において自らをメシアとして現されたイエス・キリスト。その御方が復活に至る道を先に走り抜いてくださいました。そして、その御方とやがて顔を合わせる時が来るのです。「神は、定められた時にキリストを現してくださいます」と書かれているとおりです。

 「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」をひたすら追い求めながら走り、救いの完成を目指して走るレースの中に私たちはいるのです。ただ最高の走りをすることだけを考えて走る私たちのレースです。実際、それを妨げようとするものはいくらでもあるのでしょう。それは教会の外にあり、教会の内にもあります。しかし、問題は妨げるものの存在ではありません。どこを見ているか、ということなのです。最終的には他の誰かや他の何かではなく、私たち自身の問題なのです。私たち自身がイエスを見つめて走り抜くか否かということなのです。

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