2016年5月15日日曜日

「復活されたキリストと共に」

2016年5月15日 ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章15節~21節

キリスト昇天後の信仰生活
 弟子たちは約三年半の間、イエス様と旅をし、寝食を共にしました。時々思います。目に見える姿でイエス様が近くにいて、一緒に食事をしたり、一緒に旅をしたりするというのは、どんな生活だろうかと。イエス様の語られる言葉を直接耳にし、イエス様のなさることを目の当たりにするって、どんなだろう。ペトロのように、目に見えるイエス様に叱られて、目に見えるイエス様に愛されて、そして、目に見えるイエス様を愛する生活ってどんなだろう。そんなことを思います。そのように目に見えるイエス様と共に生活していた弟子たちがうらやましいとある人が言っていました。私もそう思います。

 しかし、その弟子たちにせよ、目に見えるイエス様とずっと共にいたわけではありません。先にも言いましたように、それはたった三年半ほどのことなのです。今日お読みしたのは、その三年半の生活が終わりにさしかかった時の話です。いわゆる「最後の晩餐」におけるイエス様の言葉です。

 ヨハネによる福音書において、その場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。そのように、イエス様はこの世から父のもとに帰られるのです。天に帰られるのです。目に見える姿で弟子たちと一緒にいる生活はやがて終わりとなるのです。

 もちろん、イエス様が十字架にかかられた後、復活されて度々弟子たちに現れたことを私たちは知っています。七週間前に私たちは復活祭を祝いました。しかし、ヨハネによる福音書を読みますと、最後の晩餐においてイエス様は復活についてはほとんど語られません。そうではなく、イエス様が父のもとに帰った後の話をされるのです。目に見える姿では共にいなくなった後の弟子たちの信仰生活について語られるのです。そして、実際弟子たちにとってはそちらの方がずっと長かったのです。

 もちろん、イエス様が父のもとに帰られた後の信仰生活という話なら、ここにいる私たちも同じです。私たちは初めからそうなのです。その意味では、ここで語られていることはあの弟子たちだけでなく、ここにいる私たちにも直接的に関わっています。ここで語られているのは、まさに私たちの話でもあるのです。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 イエス様は言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。それまではイエス様が目に見える姿で、弁護者として共にいてくださいました。「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。弟子たちにとってイエス様はそのようなパラクレートスでした。

 しかし、そのパラクレートスであるイエス様は世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。ゆえにイエス様は父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われました。その別のパラクレートスとは誰のことか。聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださるという話です。

 そして、聖霊は来てくださいました。今日は聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、別のパラクレートスがずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この霊が共に、そして内に
 そのように「別のパラクレートス」が遣わされてくることをイエス様は語られました。しかし、「別のだれか」では代わりにならないことが世の中にはいくらでもあることを知っています。たとえば皆さんの親友が去っていく時に、そこで「別の友だちが来てくれるよ」と言われても慰めにはならないでしょう。

 では聖霊が来られるということについてはどうでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「この方は、真理の霊である」。その御方は真理を悟らせてくださる霊です。そこで重要なのは、その「真理」とは何かということです。この同じ章でイエス様はこう言っておられるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方です。

 聖霊は「真理の霊」です。聖霊はキリストという真理を悟らせてくださる。「見せてくださる」と言ってもよいでしょう。聖霊は「わたしはここにいるよ」と自分自身を指し示すのではなく、真理なるキリストを指し示すのです。聖霊は自分を現すのではなく、キリストを現すのです。ですからその御方は別の聖書箇所では「キリストの霊」とも呼ばれているのです。聖霊が行われるのは、天におられるキリストの地上におけるお働きなのです。

 そして、イエス様は言われました。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(17節)。その主の言葉は、確かにイエス様が天に帰られた後に実現しました。弟子たちはその霊を知ることになりました。その霊が共にいることを知ることになりました。

 それはここにいる私たちにおいても同じです。最初に申しましたように、イエス様が語っておられるのは、私たちの話でもあるのです。聖霊のお働きによって教会生活は成り立っているのです。真理の霊のお働きによって、私たちの信仰生活は成り立っているのです。

 実際、天におられるキリストの地上におけるお働きがないならば、ここで行われていること以上に無意味なことはないでしょう。聖霊のお働きがないならば、説教は単なる人間のスピーチに過ぎません。この後行われる洗礼式も聖霊のお働きがないならば子どもの水遊びと変わりません。聖餐式は腹を満たすこともないままごとのようなものでしょう。

 しかし、そうではないのです。そこにはキリストの御業があるのです。そこで人はキリストに触れているのです。そこでは永遠の救いに関わることが起こっているのです。「この霊があなたがたと共におり」と主が言われたとおりです。だからこそ、時として教会は命がけでこれらを行ってきたのです。

 そして、さらには「この霊は・・・あなたがたの内にいる」と主は言われました。聖霊は私たちの内に宿ってくださる。パウロも手紙の中で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。キリストの霊が私たちの内に宿ってくださる。キリストが私たちを通して働かれるのです。この世における私たちの人生は、天におられるキリストが地上で働かれる舞台となるのです。

みなしごにはしておかない
 ならばイエス様が父のもとに帰ることは、遠くに行ってしまうことを意味するのではありません。聖霊が来てくださるということは、父のもとに帰られたイエス様が目に見えない姿で戻って来てくださるに等しいと言えるでしょう。それゆえに最後の晩餐における一連の説話においては、イエス様が「父のもとに行く」という話だけでなく、「戻って来る」という話もされるのです。それは復活のことではなく再臨のことでもなく、聖霊降臨の話なのです。

 今日の箇所でも主はこう言っておられました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)。イエス様は「わたしが世を去った後はあなたたちだけでやりなさい」とは言われませんでした。聖霊降臨後の弟子たちはみなしごのような姿ではありませんでした。いやそれどころか、かつてよりずっとイエス様と親しく、イエス様と一つになって生きている弟子たちの姿を聖書の中に見いだすのです。そうです。確かに、目に見える姿でイエス様はおられません。しかし、イエス様が戻って来ておられるのです。

 イエス様は言われました。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(19‐20節)。

 私たちは、過去の人イエスの倫理的な教えをよく学んで共に実践して生きていきましょうという団体ではありません。私たちはイエス様の内に、イエス様は私の内に。復活されたイエス様との生きた交わりの中にある。そのような霊的な生活です。それが私たちの信仰生活です。それゆえに私たちはこうして毎年聖霊降臨祭を祝うのです。

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