2016年5月29日日曜日

「信仰はキリストの言葉を聞くところから始まります」

2016年5月29日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 10章10節~17節

主の名を呼び求める者はだれでも救われる
 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)と書かれていました。旧約聖書のヨエル書3章5節の引用です。これをイエス・キリストについての預言として引用しているのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。

 「だれでも」です。実際、その直前には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と書かれています。私たちにはピンときませんが、当時の人にとっては驚くべき言葉です。ユダヤ人とギリシア人は、いわば異なる者の代表だったからです。幼い時から聖書を学び、宗教的な戒律を守って生きてきたユダヤ人にとって、神の律法を知らないギリシア人と一緒にされるのは耐え難いことだったでしょう。それはギリシア人にとっても同じです。自分たちを選民と見なし、他の民族をすべて汚れた民として見なす不愉快極まりないユダヤ人たちと一緒にされたいとは思わないでしょう。

 しかし、パウロは「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と言ってしまうのです。なぜか。神の目には変わらないからです。神の御前においては同じだということです。それは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、同じ人間ではないか」ということでありません。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、神の前においては同じ罪人である、ということです。既に最初の1章と2章において論じられ、まとめが次のように書かれていました。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(3:9)。言い換えるならば、どちらも救われるにふさわしくないということです。

 私たちはそれぞれ違います。その違いのゆえにしばしば対立し、裁き合います。異なるお互いが上下を争います。しかし、聖書は言うのです。すべての人間は神の御前に平等だと。それは人間だから平等なのではありません。神の前に正しいとされる人間はいないという意味において平等なのです。救われるにふさわしくないという点において、すべての人間は平等なのです。

 しかし、そのような私たちだからこそ、「すべての人に同じ主がおられ」と書かれているのです。その「主」とは、イエス・キリストです。すべての人の罪を代わりに負って、すべての人のために十字架におかかりくださったイエス・キリストです。そのようにすべての人のために苦しみを受けてくださった御方です。それゆえに「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と書かれているのです。

 その方の前ではユダヤ人もギリシア人もありません。私たちのお互いの違いも関係ありません。その人が何者であるかは関係ありません。どこに生まれ、どのように育ってきたかは関係ありません。過去に何をしてきた人であるか、関係ありません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

宣べ伝える人がなければ
 しかし、そこでパウロはこのように続けます。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(14‐15節)。

 ここで語られていることは、至極もっともなことでしょう。人がイエス・キリストを呼び求めるとするならば、それはイエス・キリストを信じるからこそ呼び求めるのでしょう。ならば、その信仰はどのようにして生じるのか。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」とパウロは言います。信仰は聞くことから始まるのです。17節にも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書かれています。今日の説教題はここから取りました。

 「信仰は聞くことによって始まる」。これも至って当然のことのように思えます。キリストについて全く聞いたことがなかったら、キリストを信じることは不可能です。キリストを信じるためには、少なくともキリストについての情報を与えられなくてはなりません。

 しかし、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」と書かれているのは、そのようなキリストについての情報を与えることを言っているのでしょうか。するとその後に書かれていることはどういうことでしょう。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。キリストについての情報を与えることならば、別に遣わされなくてもできるでしょう。知っていれば、教えることはできるのですから。そうしますと、どうもここで「宣べ伝える」というのは、単に“キリストについて”語るということでなく、「聞く」というのも、単に“キリストについて”聞くことではなさそうです。

 ならば「宣べ伝える」とはどういうことなのか。「宣べ伝える」とは遣わされた者として語ることなのです。その背後に遣わしてくださった方がおられるのです。遣わすのは救うためです。救いたいからです。救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。自らが十字架にかかってでも、なんとしてでも救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。それほどに愛してくださっている方が背後におられるのです。その御方の思いを伝えるのです。その方に代わって語るのです。「宣べ伝える」とはそういうことです。それが教会のしてきたことであり、教会が今もしていることなのです。だから宣教の言葉は「キリストの言葉」と呼ばれているのです。教会が語っている、人間が語っている。確かにそうです。しかし、本当はキリストが語っておられるのです。

 ここにいる私たちも人間の宣教を通してキリストを知ったのでしょう。誰かが語ってくれたからキリストを知ったのでしょう。しかし、本当は語っておられたのはキリストなのです。救おうとしていてくださったのはキリストなのです。愛してくださっていたのはキリストなのです。

 ならば、「聞く」ということも、そのようなキリストの語りかけに耳を傾けることに他なりません。「キリストの言葉」を聞くのです。実際に語っているのは、例えば礼拝においては「牧師」なのかもしれません。しかし、牧師の言葉を聞くのではないのです。牧師の話が良かった、良くなかった、で終わらせてはならないのです。背後には遣わしてくださった方がおられるのです。救おうとしておられるのはキリストなのです。愛してくださっているのはキリストなのです。その「キリストの言葉」を聞くのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

信仰は聞くことによる
 「信仰は聞くことによる」。これは実に奥深い言葉です。信仰の本質に関わる言葉です。私たちが真に信仰に生きようと思うなら、主の御名を呼ぶ者として生きようと思うならば、聞くことを大切にしなくてはなりません。

 聞くことを大切にしないとどうなるのか。信仰とは言いながら、いくらでも人間が中心の営みになっていきます。信じるも信じないも私次第。捨てるも捨てないも私次第。先に自分の考えていることがあって、それに適合するならば受け容れましょうと言う。先に望んでいることがあって、それに役立つことであるならば信じましょうと言う。あくまでもこちらは自分の持っている基準に従って正しいか正しくないかを語る側、良いか良くないかを語る側。しかし、それは信仰と呼べるのでしょうか。

 少なくとも、それはパウロがここで言っている信仰とは別物です。それは人間が持つこともできるし捨てることもできる一宗教としてのキリスト教でしかありません。仮にそうやってキリストを信じたとしても、受け容れたとしても、他の何かが自分の判断基準に適合しさえすれば「なにも特にキリストでなくてもいいのです」ということにもなるのでしょう。

 キリスト教という宗教の話なら、別にそれでも良いと思います。しかし、ここで語られているのは全く異なることなのです。復活して天に挙げられたキリストが人を遣わされるのです。キリストが人を遣わして宣べ伝えさせ、キリストが語られるのです。人がそのキリストの言葉に耳を傾けるときに、人はキリストの言葉によって光のもとに引き出されるのです。キリストの言葉によって揺り動かされるのです。キリストの言葉によって打ち砕かれのです。へりくだらされるのです。滅びるしかない自分であることを見いだすのです。そこにおいて、救いに値しない自分自身をただキリストの恵みにゆだねるということもまた起こるのです。そのようにして、人はキリストを呼び求めて生きる者となるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

 ここに私たちが御言葉を聞くことを大切にする理由があります。御言葉を聞き続ける理由があります。主は福音を語り続けていてくださる。私たちのために十字架にまでおかかりくださった方が、私たちの救いのために語り続けていてくださる喜ばしい知らせがそこにあります。

 そして、そこにはまた聞き続ける理由だけでなく、語り続ける理由もあるのです。教会は遣わされた者として宣べ伝え続ける。なぜか。キリストが今なお救いのために語り続けておられるからです。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。パウロはこの言葉を、ある痛みをもって書いています。というのも、彼の同胞であるユダヤ人たちの多くがいまだイエスをキリストとして受け入れてはいなかったからです。彼らの多くはまだイエス・キリストを呼び求めていないのです。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。そうです、「だれでも」です。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そうです、宣べ伝える人がなければ、宣べ伝える教会がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そのために自分が遣わされていることをパウロはよく知っていました。私たちもまた知っています。キリストは私たちをこの世に遣わしてくださっています。キリストの言葉がまだ聞かれていない多くの人々のただ中に、私たちは遣わされているのです。

2016年5月15日日曜日

「復活されたキリストと共に」

2016年5月15日 ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章15節~21節

キリスト昇天後の信仰生活
 弟子たちは約三年半の間、イエス様と旅をし、寝食を共にしました。時々思います。目に見える姿でイエス様が近くにいて、一緒に食事をしたり、一緒に旅をしたりするというのは、どんな生活だろうかと。イエス様の語られる言葉を直接耳にし、イエス様のなさることを目の当たりにするって、どんなだろう。ペトロのように、目に見えるイエス様に叱られて、目に見えるイエス様に愛されて、そして、目に見えるイエス様を愛する生活ってどんなだろう。そんなことを思います。そのように目に見えるイエス様と共に生活していた弟子たちがうらやましいとある人が言っていました。私もそう思います。

 しかし、その弟子たちにせよ、目に見えるイエス様とずっと共にいたわけではありません。先にも言いましたように、それはたった三年半ほどのことなのです。今日お読みしたのは、その三年半の生活が終わりにさしかかった時の話です。いわゆる「最後の晩餐」におけるイエス様の言葉です。

 ヨハネによる福音書において、その場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。そのように、イエス様はこの世から父のもとに帰られるのです。天に帰られるのです。目に見える姿で弟子たちと一緒にいる生活はやがて終わりとなるのです。

 もちろん、イエス様が十字架にかかられた後、復活されて度々弟子たちに現れたことを私たちは知っています。七週間前に私たちは復活祭を祝いました。しかし、ヨハネによる福音書を読みますと、最後の晩餐においてイエス様は復活についてはほとんど語られません。そうではなく、イエス様が父のもとに帰った後の話をされるのです。目に見える姿では共にいなくなった後の弟子たちの信仰生活について語られるのです。そして、実際弟子たちにとってはそちらの方がずっと長かったのです。

 もちろん、イエス様が父のもとに帰られた後の信仰生活という話なら、ここにいる私たちも同じです。私たちは初めからそうなのです。その意味では、ここで語られていることはあの弟子たちだけでなく、ここにいる私たちにも直接的に関わっています。ここで語られているのは、まさに私たちの話でもあるのです。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 イエス様は言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。それまではイエス様が目に見える姿で、弁護者として共にいてくださいました。「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。弟子たちにとってイエス様はそのようなパラクレートスでした。

 しかし、そのパラクレートスであるイエス様は世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。ゆえにイエス様は父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われました。その別のパラクレートスとは誰のことか。聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださるという話です。

 そして、聖霊は来てくださいました。今日は聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、別のパラクレートスがずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この霊が共に、そして内に
 そのように「別のパラクレートス」が遣わされてくることをイエス様は語られました。しかし、「別のだれか」では代わりにならないことが世の中にはいくらでもあることを知っています。たとえば皆さんの親友が去っていく時に、そこで「別の友だちが来てくれるよ」と言われても慰めにはならないでしょう。

 では聖霊が来られるということについてはどうでしょう。イエス様は続けてこう言われました。「この方は、真理の霊である」。その御方は真理を悟らせてくださる霊です。そこで重要なのは、その「真理」とは何かということです。この同じ章でイエス様はこう言っておられるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方です。

 聖霊は「真理の霊」です。聖霊はキリストという真理を悟らせてくださる。「見せてくださる」と言ってもよいでしょう。聖霊は「わたしはここにいるよ」と自分自身を指し示すのではなく、真理なるキリストを指し示すのです。聖霊は自分を現すのではなく、キリストを現すのです。ですからその御方は別の聖書箇所では「キリストの霊」とも呼ばれているのです。聖霊が行われるのは、天におられるキリストの地上におけるお働きなのです。

 そして、イエス様は言われました。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(17節)。その主の言葉は、確かにイエス様が天に帰られた後に実現しました。弟子たちはその霊を知ることになりました。その霊が共にいることを知ることになりました。

 それはここにいる私たちにおいても同じです。最初に申しましたように、イエス様が語っておられるのは、私たちの話でもあるのです。聖霊のお働きによって教会生活は成り立っているのです。真理の霊のお働きによって、私たちの信仰生活は成り立っているのです。

 実際、天におられるキリストの地上におけるお働きがないならば、ここで行われていること以上に無意味なことはないでしょう。聖霊のお働きがないならば、説教は単なる人間のスピーチに過ぎません。この後行われる洗礼式も聖霊のお働きがないならば子どもの水遊びと変わりません。聖餐式は腹を満たすこともないままごとのようなものでしょう。

 しかし、そうではないのです。そこにはキリストの御業があるのです。そこで人はキリストに触れているのです。そこでは永遠の救いに関わることが起こっているのです。「この霊があなたがたと共におり」と主が言われたとおりです。だからこそ、時として教会は命がけでこれらを行ってきたのです。

 そして、さらには「この霊は・・・あなたがたの内にいる」と主は言われました。聖霊は私たちの内に宿ってくださる。パウロも手紙の中で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。キリストの霊が私たちの内に宿ってくださる。キリストが私たちを通して働かれるのです。この世における私たちの人生は、天におられるキリストが地上で働かれる舞台となるのです。

みなしごにはしておかない
 ならばイエス様が父のもとに帰ることは、遠くに行ってしまうことを意味するのではありません。聖霊が来てくださるということは、父のもとに帰られたイエス様が目に見えない姿で戻って来てくださるに等しいと言えるでしょう。それゆえに最後の晩餐における一連の説話においては、イエス様が「父のもとに行く」という話だけでなく、「戻って来る」という話もされるのです。それは復活のことではなく再臨のことでもなく、聖霊降臨の話なのです。

 今日の箇所でも主はこう言っておられました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)。イエス様は「わたしが世を去った後はあなたたちだけでやりなさい」とは言われませんでした。聖霊降臨後の弟子たちはみなしごのような姿ではありませんでした。いやそれどころか、かつてよりずっとイエス様と親しく、イエス様と一つになって生きている弟子たちの姿を聖書の中に見いだすのです。そうです。確かに、目に見える姿でイエス様はおられません。しかし、イエス様が戻って来ておられるのです。

 イエス様は言われました。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(19‐20節)。

 私たちは、過去の人イエスの倫理的な教えをよく学んで共に実践して生きていきましょうという団体ではありません。私たちはイエス様の内に、イエス様は私の内に。復活されたイエス様との生きた交わりの中にある。そのような霊的な生活です。それが私たちの信仰生活です。それゆえに私たちはこうして毎年聖霊降臨祭を祝うのです。

2016年5月8日日曜日

「渇いている人は来て飲みなさい」

2016年5月8日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 7章37節~39節

来て飲みなさい
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)と主は大声で叫んでおられました。それは「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」のことでした。

 この「祭り」とはユダヤ三大祭りの一つ、「仮庵の祭り」です。その祭りは一週間続きます。おびただしい数の巡礼者がエルサレムに集まります。その巡礼者の群れは七日間毎朝、祭司を先頭にして行列をつくり、エルサレムの南東にあるギホンの泉に赴きます。そこで祭司は黄金の水差しに水を満たし、神殿へと向かいます。巡礼者の群れも祭司を囲んで進み、神殿へと上ります。そして、祭壇に着くと祭壇を一巡して祭司が祭壇に水を注ぎます。

 それは「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)というイザヤの預言に基づく儀式でした。それゆえに、彼らは祭司が水を汲む時に、その聖書の言葉を皆で大合唱するのです。そして、神殿に上る途上においても、皆で「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ」(詩編113:1)といった詩編を歌いながら進みます。そこには喜びが溢れていたことでしょう。

 そして、そのような儀式が繰り返されて最終日。最も盛大に祝われるその日、彼らは祭壇の周りを歌いながら七周するのです。まさに彼らの熱気と興奮はピークに達します。しかし、そのような群衆のただ中で、イエス様は立ち上がり大声で叫びます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい!」

 彼らは「救いの泉から水を汲む」という儀式を毎朝やってきたのです。「救いの泉から水を汲む」と大声で歌ってもいたのです。しかし、その宗教的な儀式をある意味でイエス様はバッサリと切り捨ててしまうわけです。あなたたちは救いの泉から水を汲んでなどいない。行列つくってギホンの泉で水を汲んでも、救いの泉とは何の関係もない。そして、もう一方で、彼らがその儀式が表現しているものの実体はここにあると言うのです。その儀式において彼らが求めてきたものは、まさにここにあると言っているのです。そう、救いの泉はここにあると。主は言われるのです。「渇いている人はだれでも、《わたし》のところに来て飲みなさい!」

 過激です。実に過激です。しかし、イエス様という御方は、このようなことを大まじめに言われる方なのです。イエス様は誰からも当然のように尊敬される立派な教師などではありません。イエス様の前に立つならば、その言葉を受け容れるのか否か、その方を信じるのか否かが問われるのです。ですから、その後には、これを聞いた群衆が二つに分かれたという話が続くのです。さて、私たちはこの言葉をどう聞き、どう受け止めるのでしょう。

渇いている人は
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と主は言われました。そもそも主が言われる「渇き」とは何でしょう。

 それが肉体的な渇きでないことは明らかです。肉体的な渇きなら誰でも癒すことができるからです。それならイエス様でなくてもよいのです。水さえ持っていれば私でも「わたしのところに来て飲みなさい」と言うことができます。

 そのように、イエス様が言っておられるのは明らかに肉体的な渇きではない。ならば精神的な渇きでしょう、と人は考えます。しかし、精神的な渇きなら、それもまたイエス様でなくても癒せるのです。宗教的な儀式は何であれ、それなりに心理的な効果を持っているものです。ギホンの泉で水を汲む儀式によって精神的な渇きをいやされる人、心を満たされて帰っていく人はいくらでもいたに違いありません。さらに言うならば、そこで多くの人々と心を一つにして同じことを行うところから生まれる連帯感、一体感によって心を満たされて帰って行く人は少なからずいたのでしょう。それはここにいる私たちでも同じだろうと思います。精神的な渇きの話であるならば、イエス様がなにも「わたしのところに来て飲みなさい」と言う必要はないのです。

 では、イエス様が言っておられる「渇き」とは何でしょう。その問いは次のように言い換えることができます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われるイエス様は何を飲ませようとしておられたのでしょう。そして、その答えは今日の聖書箇所にはっきりと書かれているのです。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(39節)。

 「“霊”」とは神の霊、聖霊です。「わたしのところに来て飲みなさい」と言ってイエス様が与えようとしているのは神の霊です。それは何を意味しますか。聖霊が与えられることによってしか癒され得ない「渇き」というものがあるということです。それは他の何によっても癒されない「渇き」です。他の何かで癒され得る精神的な「渇き」の話ではないのです。

 神の霊、聖霊だけが癒すことのできる「渇き」。それは神への渇きです。神を求める渇きです。神との交わりを求める渇きです。永遠に神と共にあることを求める渇きです。そのような渇きについては、既に詩編42編に次のように歌われています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42:2)。それは単に渇いた心の癒やしや満たしを求めることとは異なります。神御自身を求める渇きです。

 それこそが人間の内にある根源的な渇きなのです。ブレーズ・パスカルが「人間の心には、神にしか埋められない空洞がある」と言っているようにです。しかし、人はその渇きを、その空洞を、代わりの何かで満たそうとするのです。神御自身ではなく、精神的な満たしをその代わりにするのです。時として宗教的な儀式、宗教的な熱狂や興奮、宗教的な連帯感や一体感さえも、そのような代替物にされるのです。しかし、イエス様が見ていたように、それで根源的な渇きが癒されることはありません。人間には神の霊しか癒すことのできない渇きがあるのです。

わたしのところに来なさい
 その渇きを癒すためにイエス様は来られました。渇いている人に飲ませるためにイエス様は来られました。御自分を信じる者に聖霊を与えるために来られました。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」。

 しかし、そのためにはまだ成し遂げなくてはならないことがありました。それゆえに、39節はこう続くのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」。

 「イエスが栄光を受ける」という表現はヨハネ福音書独特の表現です。これはイエス様が十字架にかかられ、復活し、天に帰られることを意味するのです。聖霊が与えられる前に、まずそのことが必要でした。すなわち、まずイエス様によって罪の贖いが成し遂げられなくてはならなかったということです。

 私たちに聖霊が与えられるには、妨げが取り除かれなくてはなりません。私たちと神とをもともと隔てていたものを取り除かなくてはならないのです。水が与えられるためには、まず水のパイプが整えられなくてはなりません。パイプがつながらないままでは、あるいは詰まったままでは水は来ないのです。

 人と神とを本質的に隔てているのは人間の罪です。ですから、神の霊に与るためには、まずその罪が赦され、罪過が取り除かれなくてはならなかったのです。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とはそういうことです。キリストがまず栄光を受けなくてはなりませんでした。キリストは十字架の上で罪の贖いを成し遂げて、死者の中からよみがえり、天に帰られなくてはならなかったのです。

 「渇いている人はだれでも、《わたし》のところに来て飲みなさい」と主は言われました。なぜ他の何かではなくキリストなのか。キリストこそが私たちの罪のために御自身を献げてくださった御方だからです。キリストこそが罪の赦しを与えてくださる御方だからです。キリストは十字架にかけられ、復活された救い主として、信じる者に聖霊を与えて下さるのです。

 それゆえに「だれでも」と主は言われるのです。それは主の成し遂げてくださったことによるからです。だから「だれでも」キリストのもとに行くならば、罪を赦された者として、聖霊を受けることができる。神との交わりの中に生きることができるのです。
 
 そして、それは単に私たち自身のためではありません。主は言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38節)。

 あの時、イエス様の言葉を間近で聞いていた弟子たちは、やがてイエス様の言われたとおり、聖霊を与えられました。来週は聖霊降臨祭ですが、弟子たちの群れに聖霊が降り、教会が誕生したことを祝います。そうです、弟子たちに聖霊が与えられただけでなく、教会が誕生したのです。

 つまり彼らの内に与えられた聖霊はただ彼らの渇きを癒し、彼らを生かしただけでなく、そこから生きた水が川となって流れ出たということです。溢れ流れて次々と教会が生まれ、歴史を流れ降って今日に至るのです。

 そして、私たちが聖霊を与えられたとするならば、今度は私たちから生きた水が川となって流れ出るのです。聖霊は私たちの渇きを癒すだけでなく、私たちを通して誰かの救いのために生きて働かれるのです。

2016年5月1日日曜日

「勇気を出しなさい」

2016年5月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章33節

あなたがたには世で苦難がある
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。

 これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。ヨハネによる福音書には、最後の晩餐におけるイエス様の長い説話が記されていまして、この言葉はその全体の締めくくりに当たります。この後、17章において主は祈りを捧げ、18章においてゲッセマネの園へと向かわれるのです。

 そこで何が起こるのか、主は既にご存じでした。ユダが兵士たちを引き連れてやってくるのです。イエス様を捕らえるためです。そして、イエス様は不当な裁きにかけられます。つばきをかけられ、あざけられ、鞭打たれ、十字架にかけられて殺されることになるのです。主は度々御自身の受難について予告してこられました。主は何が起こるか、なにもかもご存じでした。しかし、イエス様は最後の晩餐における話の最後において、もはや御自分の受ける苦難については語られません。そうではなく、弟子たちの受ける苦難を思って語られるのです。「あなたがたには世で苦難がある」と。

 弟子たちの受ける苦難についても、主は既に弟子たちに語っておられました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(15:20)と。しかし、主はその手前において起こるであろうことをもご存じでした。苦難は迫害から始まるのではないのです。その手前から既に始まることになるのです。

 主がこの数時間後に捕らえられる時、弟子たちは主を見捨て逃げ去ることになります。ペトロについては、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)と予告されていました。その通りになります。今日の聖書箇所においても、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言う弟子たちに対して主はこう言っておられました。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31‐32節)。そして、その通りになります。

 既に彼らの苦難は始まっているのです。その中で彼らは自分の弱さと向き合うことになります。自分の罪深さ、惨めさとも向き合うことになります。自分自身に絶望することにもなります。彼らはそのようなところを通らなくてはならない。そう、そのようなことがこの世では起こります。この世では苦難がある。そこで自分自身と向き合うことになる。私たちもまた、そのことを知っています。

 しかし、主はそこで言われるのです。「勇気を出しなさい」と。それは「弱くてはだめだ、強くなれ」という意味ではありません。彼らが自分自身を知る前に、主は既にご存じなのです。その弱さも罪深さもすべてご存じなのです。だから彼らの内にあるものを指して「勇気を出しなさい」とは言いません。そうではなくて、主は御自分を指し示して、こう言われるのです。「勇気を出しなさい。《わたしは》既に世に勝っている」と。

わたしは既に世に勝っている
 「わたしは既に世に勝っている」と主は言われる。しかし、これを読んでいる私たちは知っています。主はこれから惨めな敗北の姿を公衆の面前にさらすことになるのです。裸にされ、鞭打たれ、十字架につるされて死んでいく姿は、最も惨めな敗北者の姿ではありませんか。そのような姿になることをイエス様も知っているのです。にもかかわらず、イエス様は十字架につけられる前から、早々と勝利宣言をなさるのです。「わたしは既に世に勝っている」と。ならば私たちはその意味を考えねばなりません。本当の意味で「勝つ」とはどういうことなのか。私たちはよく考えねばなりません。

 「わたしは既に世に勝っている」。主が「勝っている」と言われるこの「世」とは、神に背を向けたこの世界です。神がどんなに愛しても背を向け続けるこの世界です。神がどんなに愛をもって呼びかけても応えようとしないこの世界です。否、むしろ呼びかける神に敵対する世界です。神に敵対する悪魔が支配しているこの世界です。それゆえに、神がその愛のゆえにキリストを遣わされても、よってたかってキリストを血祭りに上げ、殺してしまうようなこの世界です。

 そのようなこの「世」に勝つとはどういうことですか。キリストはどのようにして、この「世」に打ち勝つつもりでおられたのでしょう。裁きを下すことによってでしょうか。神に敵対する人々を滅ぼすことによってでしょうか。キリストはそうすることもできたのでしょう。それまでに数々の奇跡を起こし、神の力を現してこられたのですから。

 実際、他の福音書には、イエス様が捕らえられた時に次のように言われたことが伝えられています。弟子の一人がイエス様を守ろうとして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかった時に言われた主の言葉です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:52‐53)

 そのようにして、主は世に勝つことはできたはずです。しかし、主はそうなさいませんでした。自分の身を守ろうともしなかった。ならばどのようにして「世」に勝つのでしょう。

 敗北して殺されていくように見えるイエス様の姿そのものが、実は雄弁に語っています。どのようにして勝つのか。それは力を現すことによってではなく、愛することによってです。報復することによってではなく、赦すことによってです。罪の世を裁いて滅ぼすことによってではなく、世の罪を負うことによってです。十字架の上で罪の贖いを成し遂げることによってです。そのようにして神の愛をこの世界に現すことによってです。そのようにして、この世に神の御心を行うことによってです。

 そうです、神はこの世を愛しておられるのです。御自分に背を向ける世界を、それでもなお愛し続けておられるのです。そして、その愛が勝つことを主は知っておられるのです。神の愛の御心は必ずこの世界に実現する、と。何ものもそれを妨げることはできない、と。主が宣言しておられるのは神の愛の勝利なのです。主はこの世の罪よりも、この世の敵意や憎しみよりも、神の愛の方が大きいことを、はるかに強いことを知っているからこそ、主は勝利を宣言するのです。「わたしは既に世に勝っている」と。

勇気を出しなさい
 そのように勝利宣言をされる方が言われるのです。「勇気を出しなさい」と。ならばそれは単に強くなれ、と言っているのではありません。これは「安心しなさい」とも訳され得る言葉なのです。実際、そのように訳された同じ言葉がとても印象的な場面に出てきます。

 それはイエス様を陸に残し、弟子たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出した時のことでした。彼らは逆風のため漕ぎ悩んでいました。彼らの苦闘は夜明けまで続いたようです。そのように風と波に翻弄され、自らの無力さに打ちひしがれ、疲れ果てていた彼らのところに、イエス様が近づいてこられました。そして、恐怖におののく彼らに主はこう言われたのでした。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)。この「安心しなさい」というのが同じ言葉です。

 「勇気を出しなさい」とはそういうことです。どんなに漕ぎ悩んでいても、そこに無力な自分がいても、どんなに惨めな自分がいても、「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がそこにいてくださるのです。その方が「勇気を出しなさい」と言ってくださる。それはまさに「安心しなさい」ということでもあるのでしょう。

 実は、これまでイエス様が語ってこられたこともすべて、ここに向かっていたのです。イエス様はこう言っていましたでしょう。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」(33節)と。彼らが得るべき「平和」あるいは「平安」とは、逆風や荒波がないところでの穏やかな湖のことではありません。そうではなくて、荒れ狂う湖に翻弄される小舟の中にあってなお持ち得る「平和」であり「平安」なのです。そして、それは「わたしによって」だと主は言われます。「あなたがたが《わたしによって》平和を得るためである」と。

 これは「わたしの中にあって」という言葉でもあります。あるいは「わたしにつながって」とも訳せる言葉です。そこで思い出さなくてはならないのは、この前の章に書かれていることです。そこでイエス様は「ぶどうの木」のたとえを語っておられるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)。イエス様はこのたとえ話を迫害の予告の前に語られたのです。苦難を受けることになる彼らだからこそ、語ったとも言えます。「わたしにつながっていなさい」と。それはわたしの中に留まっていなさい、ということでもあるのです。

 そのようにイエス様の中に留まっていてこそ、また出て行くこともできるのです。イエス様につながっていてこそ、またこの世に勇気をもって出て行くこともできるのです。「あなたがたには世で苦難がある」と主が言われる「世」のただ中に恐れないで出て行くことができるのです。苦しみの多くは他の人間から来るのでしょう。しかし、この人間の世界、他者との関わりの世界に恐れないで出て行くことができるのです。

 たとえ敵意と憎しみの嵐に翻弄されることがあったとしても、そこで自分の弱さを突きつけられるようなことがあったとしても、惨めさを味わい知るようなことがあったとしても、最終的に私たちは負けない。イエス様の内に留まっている限り絶対に負けません。なぜなら、この勝負は私たちにかかっているのではないからです。

 神の愛が必ず勝つことをはっきりと見せてくださった御方が共にいてくださいます。その方が見せてくださった勝利に、私たちもまた与らせていただけるのです。その御方は今日も私たちにも言ってくださいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」安心して、ここから歩み出しましょう。

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