2016年4月3日日曜日

「あなたがたに平和があるように」

2016年4月3日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 20章19節~31節

第八日
 今日の聖書箇所は「その日、すなわち週の初めの日の夕方」という言葉から始まりました。「週の初めの日」とは、私たちが「日曜日」と呼んでいる日のことです。そして、26節に「さて八日の後」という言葉が出てきます。これは「八日目」と訳した方がよいかも知れません。要するに「一週間後」のことです。次の日曜日の話です。

 ここに「八日の後(八日目)」という表現が出てくることには大きな意味があります。ユダヤ人の安息日は土曜日です。週の七日目です。これは天地創造物語で創造の業を終えられた神が七日目に安息された、という話に由来します。ところがキリスト者は、極めて早い時期から、七日目の安息日ではなくて週の一日目を「主の日」と呼んで、その日に集まるようになりました。現在でもそうしています。今日がその日です。

 そして、その週の一日目である主の日を、古代のキリスト者たちは、わざわざ「第一日」ではなくて「第八日」と呼ぶようになりました。なぜ「第八日」なのでしょうか。神様の最初の創造が第一日から第七日によって表現されているとするならば、第八日はそれに属さない日だということです。新しい創造、新しい世界に属する日だということです。つまりこの世にありながら、来るべき世を経験する日、新しい世界を経験する日だということです。そういう意味で「第八日」なのです。

 今日の朗読箇所は特にそれが「週の初めの日」と「八日の後(八日目)」であったことを強調して語っているのです。つまり第一の日であり第八の日である「主の日」の集まりが念頭に置かれているのです。今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは、単に「あの日集まっていたらこのようなことが起こりました」ということではないのです。「第一の日であり第八の日である主の日の集まりにおいて何が起こるのか」ということを伝えようとしているのですその意味で、今日のこの箇所は、ここにいる私たちの話でもあるのです。

安全な交わりを求めて
 19節前半にはこう書かれていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。

 弟子たちが集まっていました。彼らは後の教会の礎となる人たちです。彼らが集まっているところに既に教会があったと言えなくはありません。既に主の日の集まりがそこにあります。しかし、それは恐れる者たちの集まりでした。逃げ場所を求める者たちの集まりでした。安全を求める者たちの集まりでした。だから彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたのです。

 自分たちが安心して身を置ける安全な場所を求めて集まる。それは分からないことではありません。教会にそのような必要の満たしを求めることは私たちにもあるでしょう。この世の様々な葛藤や敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うということは、私たちにもあるのでしょう。

 そして、確かに彼らは互いに安全な人たちの集まりだったと言えるでしょう。それは全員がイエスの弟子であったからではありません。イエス様がいた時には、彼らは互いに争い合っていたのですから。決して心底安心して身を置ける関係ではありませんでした。彼らが互いに安全な存在であったのは、既に皆が弱さをさらけ出してしまっていたからです。弟子たちは皆、イエス様が捕らえられた時、逃げ出した人たちです。ある意味ではお互いの弱さを認め合っている人たちです。イエス様を見捨てた人たちがそれでも集まっているとはそういうことでしょう。

 弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わりは、確かに安全です。彼らはユダヤ人たちを恐れながらも、互いに共にいることについてはある種の安心感を抱いていたであろうことは想像することができます。

 だからこそ、そのような互いに安全な交わりが外からの敵意から守られ、気心の知れた人々の交わりが安全に保たれるために、戸を閉じて鍵をかけたくなります。安心していられる場所であることを保つためです。

 それは今日にも起こりえることでしょう。戸を閉じて鍵をかけたくなる。つまり教会に様々な人がやたらに入ってくることを望まなくなるのです。自分たちを責めたり、批判したりする人には入ってきて欲しくない。あくまでも互いに安全である人だけの集まりにしたいからです。

 そのように、この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えます。週の第一の日に集まっている姿は、日曜日に集まっている私たちが取り得る一つの形を示していると言えるのです。

主によって赦される
 しかし、ここで大事なことは19節が前半だけで終わっていないということです。それは後半に続くのです。このように書かれています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節後半)。

 彼らの集まりは、ただ安心を求めての集まりに終わりませんでした。互いに安全な人たちの集まりに留まりませんでした。そこにイエス様が来てくださいました。そして、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。主の日の集まりにおいて何が起こるのか。このことが起こるのだと今日の聖書箇所は語っているのです。

 復活の主が「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。このことは何を意味するのでしょう。主はこの言葉と共に、二つのことをなさいました。この主の行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると言えるのです。

 第一に、主は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになりました。なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょう。それはそこに大きな傷跡があるからです。手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。わき腹には槍で刺された時の大きな傷跡があるのです。

 その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げたのです。愛する主を見捨てたのです。そして主は十字架の上で死んだのです。彼らは、もともとはこの世界に正義が実現することを求めていた人たちでした。神に逆らうローマ人の支配が正義の神によって打ち砕かれ滅ぼされることを願っていた人たちでした。しかし、そのような彼ら自身が最も近いところにいる愛する方を見捨て、その愛を裏切ったのです。神が正義をもって裁きを行うならば、真っ先に裁かれるのは自分自身であることを思い知らされることになりました。

 イエス様はそのような彼らの罪を突きつける手の釘跡、わき腹の傷跡を隠しませんでした。まさにそこに立っていたのは《彼らが見捨てたキリスト御自身》に他なりませんでした。しかし、主が手とわき腹をお見せになった時、彼らがそこに見たのは、彼らのしたことを責め立てるキリストではなかったのです。彼らの罪を断罪するキリストではなかったのです。本当は責められて当然なのに、断罪されて当然なのに、滅ばされて当然なのに、イエス様はそうなさらなかった。主は言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。

 その言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのです。手の釘跡とわき腹の傷跡を示してキリストが現れたら、本来は喜べないはずなのです。しかし、彼らは喜んだ。「あなたがたに平和があるように」とその御方が言ってくださったから。彼らの喜びは赦された者として再び主と共に生きることができる喜びでした。

 そのことが主の日の集まりにおいて起こるのだと聖書は伝えているのです。私たちは単に人間同士で罪深い者であることを認め合って生きるのではありません。私たちは主の御前において罪を示され、主の御前において自らの罪を認めることになるのです。そして、その主から赦しを受け取るのです。復活のキリストが私たちにも言ってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。

主によって遣わされる
 そして、第二に主がなさったこと、それは次のように書かれています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21‐22節)。

 息を吹きかける主の動作。それはやがて彼らに起こることを指し示すものでした。それから五十日目の五旬祭の日に、彼らに聖霊が降るのです。そして、彼らは世界に遣わされていくことになるのです。「聖霊を受けなさい」と主が言っておられることが実現するのです。

 しかし、この主の動作はまた、主の日の集まりにおいて繰り返し起こる出来事をも示しているのです。それゆえにヨハネによる福音書では、あえて日曜日に主がこう言われたことが伝えられているのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。

 私たちは単にこの世の様々な敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うのではありません。単に安心して身を置くことのできる逃げ場を求めて教会に集まるのではありません。私たちはキリストによって聖霊に満たされ、この世界に遣わされるために集まるのです。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。確かに主はそう言われました。父なる神が御子キリストを遣わしてくださって、「あなたがたに平和があるようにと言ってくださいました」。私たちに罪の赦しを与えてくださいました。そのキリストが私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを手渡すために遣わされるのです。私たちもまた「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。ですから、主は彼らにこう言われたのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。

 「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦してくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現です。罪を最終的に赦すことができるのは、神様であって、弟子たちではありません。しかし、弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたのです。私たちに託されているのです。主はそのような私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世界へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日彼らに起こり、ここにいる私たちに起こります。そのことが主の日の集まりにおいて起こるのです。

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