2016年4月24日日曜日

「霊の導きに従って歩みなさい」

2016年4月24日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~25節

肉である「わたし」
 「他人を変えようとせず、まず自分が変わりなさい」。「相手を変えようと思ったら、まず自分が変わることです」。問題が持ち上がった時に、よく耳にする勧めです。そう言われると、なるほどもっともだと思います。しかし問題は、変わるべき「自分」がそうやすやすと変わってはくれないということなのでしょう。それは時として他人を変える以上に難しい。かえって「変わらない自分」という問題を一つ余計に抱えて悩みを深くするということも起こってまいります。

 あるいはそのような時、「良き教師」、「良き模範」、「良き教え」が必要なのだ、と考えるかもしれません。そう単純な話ではなさそうです。「良き教師」「良き模範」と言うならば、イエス様以上に良き教師、良き模範はいないとも言えます。そして、そこには良き教えもありました。しかし、弟子たちはどうだったでしょう。イエス様と寝食を共にした弟子たちが、本質的にはさほど変わってはいなかったことを聖書は正直に伝えています。

 彼らは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられていたのでしょう。また「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられていたのでしょう。「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられていたのでしょう。またイエス様御自身がその模範でもあったのでしょう。ところが、なんと最後の晩餐において、イエス様が間もなく捕らえられようとしている緊迫した場面において、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかと彼らは議論していたと言うのです(ルカ22:24)。三年半イエス様と寝食を共にした弟子たちの姿です。そして、彼らは皆、イエス様を見捨てて散り散りに逃げてしまいます。なるほど人間が変わるのは、良い教師がいても難しい。

 あるいは、具体的に自分を律する生活が必要なのだと人は考えるかもしれません。そして、あえて厳しい規律のある生活に身を置くことを考える人もいるのでしょう。そのような人を私たちも知っています。規律ある生活の中で自らを律して生きていた人として、恐らくこの人の右に出る人はいないと言えるような人。パウロです。

 彼は厳格なユダヤ人の家庭に生まれました。後にガマリエルという有名なラビのもとで律法を学びました。その律法に従って生きようとしました。徹底的に神の前に正しく生きようとしたのです。そして彼は「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と言ってのけます。非のうちどころのないほどに律法を遵守して生きたのです。

 しかし、そのように徹底的に自らを律して生きた結果はどうだったでしょう。彼はこう言っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」(ローマ7:18‐20、24)。

 確かに彼は自分を律し、律法の規定は守ってきたかも知れません。しかし、そのようにすればするほど、自分の内にある変わらざるものが見えてくるのです。いかんともしがたい惨めな自分自身を知ることになるのです。外側を繕うことは出来るのでしょう。彼は誰にもまして正しい人間として評価されていたに違いない。しかし、内側が変わらないのです。本質的に変わらないのです。

 人間にとって最大の問題は、この「わたし」という存在です。罪が宿ったこの「わたし」です。変わりたいとは思います。新しくなりたいとも思います。しかし、私たちの内には自身の手に負えない古い「わたし」が居座っているのです。聖書はその古い生まれながらの「わたし」を「肉」と呼びます。今日お読みした聖書箇所に繰り返し出てきた言葉です。

 この「肉」という表現は、確かに分かりにくいかもしれません。ですから、「罪深い性質(Sinful Nature)」などと意訳している聖書もあります。しかし、もう一方において自分自身の事として捉えるとき、「肉」という強烈な表現はある意味ではピンときます。そう、問題は「肉」なのです。この「肉」は外側から圧力をかけたぐらいでは変わらない。私たちの頑張りでは対処できないこの「肉」をどうしたらよいのでしょう。

神の霊が共に
 そこで今日の聖書箇所を読んでみますと、そこには「肉」について語られていると共に、「霊」について語られているのを見ることになります。この「霊」とは人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊を意味しています。ここで神の霊の話が出て来るのはある意味では当然です。これは教会に宛てた手紙であり、内容は信仰生活に関することだからです。「肉」についてだけではなく「霊」について語ることができる。「肉」についてだけでなく「神」について語ることができる。それが信仰生活です。そして、「霊」について語ることができるところに、私たちの希望もあるのです。

 次のように書かれていました。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(16‐17節)。

 「肉と霊とが対立し合っている」と聖書は言います。肉だけが支配するのではないのです。肉だけが好きなように引っ張っていくのではないのです。肉が野放しにされた猛獣のように好き勝手に振る舞うならば、そこに何が起こってくるのか。「肉の業は明らかです」と言って、パウロは次々に「肉の業」を挙げていきます。「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。それらが人間の幸いと結び着くとは思えないでしょう。さらに言えば、その先に神の国があるとも思えない。しかし、ありがたいことに、肉だけが支配するのではないのです。信仰生活においては、神の霊が入ってきてくださって、肉に対立してくださるのです。

 「肉と霊とが対立し合っている」ということは、そこで葛藤が起こるということでもあります。肉が望むことを行おうとする時に、肉が「肉の業」を行おうとする時に、私たちの内に葛藤が起こるのです。なぜなら「肉に反する」ことを望んでいる「霊」が対立しているからです。そこで私たちの内に葛藤が起こります。かつては苦しみでも悲しみでもなかった「肉の業」が、苦しみとなり悲しみとなります。「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」ということも起こってきます。

 信仰生活がスタートした後に、自分の罪深さに悩んだり、涙を流すようになったとしても、そのことに驚いてはなりません。まさに問題は肉なる自分自身だということと向き合うこととなったとしても、それは起こるべくして起こることなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは通らざるを得ないプロセスなのです。

 葛藤を避けて、葛藤から逃げて、そこで信仰生活を放棄してはなりません。既に義とされているのです。既にキリストにあって神の子どもとされているのです。聖霊を与えられているのです。だからこそ、あくまでも「霊の導きに従って歩みなさい」と聖書は言うのです。そのような時こそ、自分の内に働いておられる聖霊を意識して生きるべきなのでしょう。

 そうしてこそ、聖霊が望むところが実現していくのです。それを聖書は「霊の結ぶ実」と表現しています。それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、実るものです。実りは神から来るのです。

 「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは努力して獲得すべき徳目ではなくて、聖霊が支配するところに永遠の命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。

 リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るのです。ですからリンゴの木を大切に育てることが大事なのでしょう。同じように、私たちにとって大事なことは、私たちの決意や努力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。そうではなくて与えられている信仰を大切にし、いわば信仰生活という木を丁寧に育てていくことなのです。私たちは「肉」について語るだけでなく「霊」について語ることができるのですから。罪を赦され、神の子どもとされたことを喜び、聖霊に導かれて生活していくことです。

2016年4月17日日曜日

「あなたは、わたしに従いなさい」

2016年4月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章15節~25節

「食事が終わると」と書かれていました。この前に書かれているのは、復活されたイエス様との食事の場面です。夜通し働いていた弟子たちをイエス様が迎えてくださいました。炭火を起こし、魚を焼いて、パンを用意して迎えてくださいました。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは喜びをもって主と食を共にしました。

 その姿によって指し示されているのは私たちも行っている聖餐です。そして、聖餐卓の周りに集められ、迎えられてささげる主の日の礼拝です。夜通し働いて何も捕れなかったとしても必ず朝は来ます。そのような日が続いた一週間であっても、日曜日は必ずおとずれます。そして、復活の主が私たちを迎えてくださいます。そこには復活の主が既に豊かな命の糧を備えていてくださいます。そして、迎えられた私たちは命の糧に養われます。今日お読みしているのは、そのような復活の主との食事に続く場面です。

わたしに従いなさい
 その食事が終わると、主はペトロに問いかけました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。そこからペトロとイエス様との間の非常に印象的な対話がはじまります。そのやりとりはどこに行き着くかを先に見ておきましょう。イエス様はペトロに言われるのです。「わたしに従いなさい」(19節)。

 命の糧にあずかったペトロはイエス様から「わたしに従いなさい」と言われます。「わたしについて来なさい」と言われるのです。しかし、イエス様から「ついて来なさい」と言われているこのペトロは、かつてイエス様から「あなたは今ついて来ることはできない」と言われたペトロであることを思い起こさねばなりません。

 それはイエス様が十字架にかかられる前夜、最後の晩餐でのことでした。イエス様は御自分が間もなく捕らえられ、十字架にかけられることをご存じの上で、弟子たちにこう言われたのです。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。するとペトロは驚いて尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」。するとイエス様はペトロにこう答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」これを聞いたペトロは言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。

 ペトロは本気だったと思います。どこまでもついていくつもりだった。命を捨てるようなことになっても、ついていくつもりだったのです。他の福音書ではこうも言っています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)。他の人がつまずいて、ついていかなかったとしても、わたしはつまずきません。わたしはどこまでも従ってまいります。そう語るペトロは本気だったと思います。

 しかし、その時イエス様はペトロに言われました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言いうだろう」(13:38)。そして、そのとおりになりました。イエス様には分かっていたのです。「あなたは今ついて来ることはできない」。しかし、それでよかったのです。なぜならそこにはイエス様がひとりで成し遂げなくてはならないことがあったからです。

 世の罪を取り除く神の小羊として、この世の罪を代わりに自らの身に負うこと。罪の赦しをもたらすために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げること。それはペトロがついて行っても一緒にはできないことでした。人間がいかなる形においても手を貸すことができないことでした。救いはただイエス様の成し遂げられることにかかっているのであって、人間はただその恵みにあずかるだけなのです。そして、イエス様はひとりで成し遂げられました。主は「成し遂げられた」と言って、息を引き取られた。そのようにヨハネによる福音書は伝えています。

 ただひとりで罪の贖いを成し遂げられたイエス様は、復活されて再び弟子たちに出会います。ペトロにも出会ってくださいました。イエス様はペトロをも迎えてくださいました。イエス様はペトロにも命のパンを差し出してくださいました。そして、ペトロは聞いたのです。「わたしに従いなさい」と言われる主の御声を。

 もうイエス様は「あなたはついて来ることはできない」とは言われません。ペトロはイエス様についていくのです。だからこそ、今日お読みしたイエス様とペトロとのやりとりもまた必要だったのです。三度イエス様を否んだペトロが、ついて行くことができなかったペトロが、そこから再びイエス様についていくためでした。

わたしを愛しているか
 食事が終わると主はペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」つまり「他の弟子たち以上に」と主は問われます。もうペトロは、「この人たち以上に」とはいいません。「あなたのためなら命を捨てます」とも言いません。ペトロはあの時のことを思い起こしたことでしょう。胸を痛めながら、それでも精一杯の思いを込めて彼は答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」。

 そして、二度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。もうイエス様も「この人たち以上に」とは言われません。主が聞きたいのはそんなことではないからです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの羊の世話をしなさい」。

 そして、三度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。イエス様が三度も尋ねたのでペトロは悲しくなって言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。

 しかし、本当は、ペトロは悲しむ必要などありませんでした。主が三度尋ねられたのは、ペトロの言葉を信用していないからではないからです。主が三度尋ねられたのは、三回主を否んだペトロが三回「愛しています」と口にすることができるようにするためでした。そして、それで十分なのだとペトロ自身が知るためでした。

 イエス様は「わたしを愛しているか」としか問わなかったのです。ペトロの過去がどうであったかを問いませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」というあの言葉はどうなったかと問いませんでした。自分の言葉に誠実であったかを問いませんでした。そうです、主はこれまでペトロがどうであったかを問いませんでした。過去の失敗を一つ一つ打ち消すかのように、「わたしを愛しているか」とだけ問うたのです。そして、ペトロに答えるチャンスを与えてくださいました。主によって重要なことは、過去がどうであったかではなく、今、主を愛しているか、ついて行こうとしているか、ということだからです。

それは私の話であり、あなたの話です
 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるペトロに、主は言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、さらに主はこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。

 「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔にされる」ことを意味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということです。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後には悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのように続けるのです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。

 与えられた使命を立派に果たして、大きな働きの実りを後世に残して神の栄光を現すというならば話は分かりやすいでしょう。しかし、イエス様はそのような話をされませんでした。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ようなことになると言われたのです。それでもなおペトロは神の栄光を現すことになるとイエス様は思っておられたのです。それでもなお、単に「連れて行かれる」のではなくて、ペトロはキリストに従う者であり得る。イエス様はそう思っておられたのです。だから主はそのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのです。

 この言葉をイエス様の命の糧をいただいた私たちもまた聞くのです。繰り返し、「わたしを愛するか」という問いと共に聞くのです。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。確かにそのようなことはあります。迫害の時代に生き、殉教の死を遂げることになるペトロだけの話ではありません。決して私たちの手の内には収まらない、私たちの人生があります。どのように生きるかだけでなく、どのように死ぬかということも、私たちの思い通りにはなりません。しかし、それでもよいのです。それでもなお私たちが生き、そして死ぬことは、神の栄光となり得るからです。単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、どこまでもイエス様についていくことはできるからです。死の向こうまでイエス様についていくことはできるのです。

 私たちの人生において本当に重要なことは何が起こるかではありません。願った通りになるか否かでもありません。イエス様の「わたしを愛するか」という問いにどう答えるのか、そして、「わたしに従いなさい」という招きにどう答えるのかということだけなのです。誰か他の人の話ではありません。それは私の話であり、あなたの話です。

 ところがペトロは自分自身が問われ、自分が招かれているのに、こんなことを口走っています。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)。まことに愛すべき人物です。そこに見るのも私たち自身の姿でしょう。それに対するイエス様の答えは極めて明快でした。「わたしの来るときまで(つまりキリストの再臨まで)彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」そうです、主はあくまでも言われるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」と。他の人の話にしてはなりません。これは私の話であり、あなたの話です。

2016年4月10日日曜日

「キリストの食卓に招かれて」

2016年4月10日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章1節~14節

その夜は何もとれなかった
 20章には、弟子たちがまだエルサレムにいた時、イエス様が彼らに二度にわたって姿を現されたことが記されていました。一回目はキリストが復活された週の初めの日の夕方。二回目はそれから八日目の日曜日のこととして書かれていました。今日お読みした箇所は、「その後」という言葉で始まっています。先の二回の顕現に続き、三回目にイエス様が弟子たちに御自身を現された次第がここに記されているのです。

 場所はエルサレムからティベリアス湖畔、すなわちガリラヤ湖畔に移っています。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、およそ三年半前まで、つまりイエス様に従い始める前まで、日々繰り返していたことと基本的には同じです。漁師である彼らが漁をしているのです。

 ペトロが言いました。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もあります。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことに違いありません。彼らがしていることは三年半前と何も変わっていないように見えるのです。

 しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがあります。キリストは既によみがえられたということです。そして、彼らはその復活のキリストの弟子たちであるということです。

 そうです、ここに描かれているのは、復活したキリストの弟子たちの話なのです。その意味において、これは復活したキリストに従う教会の話であり、今日ここにいる私たちの話でもあるのです。

 「しかし、その夜は何もとれなかった」。そう書かれていました。確かにこれはあの時のペトロたちの経験だけでなく、後の教会もまた幾たびも繰り返し味わってきたことなのでしょう。

 かつてイエス様はシモン・ペトロに言われました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)。そのように後のペトロやパウロ、後の教会がしてきたことは、神のもとに人間をすなどる漁師の働きであったと言えるでしょう。そのようにして、私たちもまた漁られて神のもとにいるのです。しかし、教会の働きは常に大漁であったわけではありません。「しかし、その夜は何もとれなかった」と書かれていることを、世々の教会もまた繰り返し味わってきたのです。

 私が以前使えていた教会が立っているその土地は、かつてある宣教師が住んでいた場所でした。しかし、その宣教師は働きの実りを見ることなく、他の地に移らなくてはなりませんでした。「しかし、その夜は何もとれなかった」。その宣教師もまたその悲哀を味わったのだと思います。どんなにか残念な思いを抱いて移っていったことでしょう。しかし、そのようなことは確かにこの世で起こります。

 あるいはもっと広く、私たちの日常の営みを考えてみても良いかも知れません。無駄に潰えたと思える労苦があります。無駄に過ごしたとしか思えない時間があります。ただ残ったのは空しい思いと疲れだけ。そんな時が確かにあるものです。ここに見るペトロたちの姿は、時に私たちの姿でもあるのでしょう。

主だ!
 しかし、そのような彼らに目を留めていた方がおられたと、この聖書箇所は伝えているのです。復活されたキリストです。復活の主が彼らの労苦に確かに目を留めておられた。主は言われました。「子たちよ、何か食べる物があるか」。これは「何か捕れたか」ということです。実は、この言葉は否定の答えを想定した問いなのです。新改訳聖書は「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と訳していました。「何にもとれなかったんだろう?」と主は聞いておられるのです。そう、主は分かっておられる。そして、彼らの落胆をも心にかけておられるのです。

 しかし、弟子たちはそれがキリストだとは気づきませんでした。彼らは「ありません」、「捕れませんでした」と答えます。すると、主は彼らにこう言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。その時ひとりの弟子が叫びます。「主だ!」

 その弟子は思い出したのでしょう。かつても同じことがあったことを。弟子として従い始めたあの日、やはり夜通し働いて何もとれませんでした。あの時、疲労困憊していた彼らにその方は言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。その時、ペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろしました。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(ルカ5:6)のです。

 確かに今回も網を降ろしたのは彼らです。しかし、そこに見たのは彼らの努力や労苦の実りではありませんでした。それはまさに主が彼らを用いて成し遂げられたことでした。

 そのようなことが確かに起こるのです。主は復活され、生きておられるから。一方において空しく潰えていくかに見える労苦があります。しかし、気に病む必要はありません。主は目を留めておられますから。そして、主は人の業を用いて神にしか為し得ないことをしてくださるのです。 人はその時気づくのです、「主だ!」と。

 それは、私たちが知る前から、気づく前から、疲れ果てていたその時から、実は既にそこに主がおられたという気づきでもあります。それは大きな喜びです。それは大漁を得たことにまさる喜びです。だから、「主だ」と聞くと、たくさん捕れた魚のことなどそっちのけで、ペトロは海に飛び込んだのです。主のもとに行くためです。彼の内にあったのは主が共におられる喜びでしょう。いや、既に共におられたのだ、ということを知った喜びと言ってよいでしょう。

 ところで、先ほど申し上げたその宣教師の話ですが、時を経てその土地に教会が建っていることを彼は知りました。空しく労していたと思っていたその土地にいつの間にか教会が建っていることを知った喜び、それがどれほど大きな喜びであったことか!去年初めてお会いした時に、私にその喜びを語ってくれました。それは単に労苦が報われたということではありませんでした。その喜びはまさに「主だ!」と叫んだあの弟子の喜びであり、「主だ!」と聞いたペトロの喜びだったのです。主は目を留めておられた。そして、主が御業を現してくださった。主は確かに共におられた。そして、共におられる。そのことを知る喜びです。

 そして、もちろんその「主だ!」と語る喜び、そして「主だ!」と聞く喜びは、今日の私たちにも与えられているのです。主は復活されましたから。主は生きておられますから。この教会にも、私たちの人生にも、主が生きて働いておられるのです。私たちは現実の生活の中でそのことに気づかされるのです。「主だ!」と。それが私たちの信仰生活です。

さあ、来て、朝の食事をしなさい
 さて、ペトロは泳いで陸に向かい、他の弟子たちは網を引いて、舟で戻って来ました。すると次のように書かれています。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」(9節)。既にそこには魚もパンも用意されていたのです。なんと彼らが夜通し何も捕れないまま疲れ果てていた時に、既に復活の主は炭火を起こし、魚もパンも用意してくださっていたのです。そして、主はこう言われるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。

 そして、さらにこう書かれています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)。パンを取って与えられる姿、魚を与えられる姿を見て、彼らはかつてこの同じティベリアス湖畔で見た出来事を思い出したに違いありません。あの時、五つのパンと二匹の魚をもって男だけでも五千人に及ぶ人たちを養われたことを。その時にイエス様はこう言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る物は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。

 あのときと同じことが、今、この小さな弟子たちの集まりにおいて起こっているのです。彼らはまさに命のパンを受け、命の養いをそこで得ているのです。そして、それこそ世々の教会が味わってきたことでもあるのです。

 わたしはここを読んで思います。彼らは確かに大漁を得て、多くの魚と共に帰ってきました。しかし、彼らが何も捕れないまま疲れ果てたまま帰ってきたらどうだったろうか。そうだとしても、そこには炭火が起こしてあり、パンも魚も用意されていたことでしょう。そして、主は同じように言われたに違いありません。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。

 そして、それが復活の主であることを知っていたならば、「主だ!」という喜びがそこにあったなら、仮に多くの魚と共になくても、やはりその食卓には大きな喜びが溢れたのではないでしょうか。復活の主に迎えられたのですから。そして、復活の主に養われているのですから。

 それこそ世々の教会が味わってきた恵み、聖餐の恵みに他ならないのでしょう。主が用意してくださる。主が迎えてくださる。主が養ってくださるのです。実際、イエス様が十字架におかかりになり、その命をもって用意してくださり、その罪の贖いをもって迎えてくださり、その体と血とをもって養ってくださることが、復活の主によって招かれたその食事に象徴的に表されているとも言えるのです。

 「しかし、その夜は何もとれなかった」。確かに時としてそのような夜を通らざるを得ない私たちの生活であり、教会の歩みなのでしょう。しかし、それでも朝が来るのです。「しかし、その夜は何もとれなかった」。そのような毎日であっても、必ず日曜日は来るのです。そして、そこには既に主が炭火を起こしてパンも魚も用意してくださっている。それが日曜日に起こっている出来事なのです。たとえ仮に全てが徒労に終わったように思える夜を過ごしたとしても、朝日の中で主が迎えてくださり、主はこう言ってくださるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。それが私たちの信仰生活です。

2016年4月3日日曜日

「あなたがたに平和があるように」

2016年4月3日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 20章19節~31節

第八日
 今日の聖書箇所は「その日、すなわち週の初めの日の夕方」という言葉から始まりました。「週の初めの日」とは、私たちが「日曜日」と呼んでいる日のことです。そして、26節に「さて八日の後」という言葉が出てきます。これは「八日目」と訳した方がよいかも知れません。要するに「一週間後」のことです。次の日曜日の話です。

 ここに「八日の後(八日目)」という表現が出てくることには大きな意味があります。ユダヤ人の安息日は土曜日です。週の七日目です。これは天地創造物語で創造の業を終えられた神が七日目に安息された、という話に由来します。ところがキリスト者は、極めて早い時期から、七日目の安息日ではなくて週の一日目を「主の日」と呼んで、その日に集まるようになりました。現在でもそうしています。今日がその日です。

 そして、その週の一日目である主の日を、古代のキリスト者たちは、わざわざ「第一日」ではなくて「第八日」と呼ぶようになりました。なぜ「第八日」なのでしょうか。神様の最初の創造が第一日から第七日によって表現されているとするならば、第八日はそれに属さない日だということです。新しい創造、新しい世界に属する日だということです。つまりこの世にありながら、来るべき世を経験する日、新しい世界を経験する日だということです。そういう意味で「第八日」なのです。

 今日の朗読箇所は特にそれが「週の初めの日」と「八日の後(八日目)」であったことを強調して語っているのです。つまり第一の日であり第八の日である「主の日」の集まりが念頭に置かれているのです。今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは、単に「あの日集まっていたらこのようなことが起こりました」ということではないのです。「第一の日であり第八の日である主の日の集まりにおいて何が起こるのか」ということを伝えようとしているのですその意味で、今日のこの箇所は、ここにいる私たちの話でもあるのです。

安全な交わりを求めて
 19節前半にはこう書かれていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。

 弟子たちが集まっていました。彼らは後の教会の礎となる人たちです。彼らが集まっているところに既に教会があったと言えなくはありません。既に主の日の集まりがそこにあります。しかし、それは恐れる者たちの集まりでした。逃げ場所を求める者たちの集まりでした。安全を求める者たちの集まりでした。だから彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたのです。

 自分たちが安心して身を置ける安全な場所を求めて集まる。それは分からないことではありません。教会にそのような必要の満たしを求めることは私たちにもあるでしょう。この世の様々な葛藤や敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うということは、私たちにもあるのでしょう。

 そして、確かに彼らは互いに安全な人たちの集まりだったと言えるでしょう。それは全員がイエスの弟子であったからではありません。イエス様がいた時には、彼らは互いに争い合っていたのですから。決して心底安心して身を置ける関係ではありませんでした。彼らが互いに安全な存在であったのは、既に皆が弱さをさらけ出してしまっていたからです。弟子たちは皆、イエス様が捕らえられた時、逃げ出した人たちです。ある意味ではお互いの弱さを認め合っている人たちです。イエス様を見捨てた人たちがそれでも集まっているとはそういうことでしょう。

 弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わりは、確かに安全です。彼らはユダヤ人たちを恐れながらも、互いに共にいることについてはある種の安心感を抱いていたであろうことは想像することができます。

 だからこそ、そのような互いに安全な交わりが外からの敵意から守られ、気心の知れた人々の交わりが安全に保たれるために、戸を閉じて鍵をかけたくなります。安心していられる場所であることを保つためです。

 それは今日にも起こりえることでしょう。戸を閉じて鍵をかけたくなる。つまり教会に様々な人がやたらに入ってくることを望まなくなるのです。自分たちを責めたり、批判したりする人には入ってきて欲しくない。あくまでも互いに安全である人だけの集まりにしたいからです。

 そのように、この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えます。週の第一の日に集まっている姿は、日曜日に集まっている私たちが取り得る一つの形を示していると言えるのです。

主によって赦される
 しかし、ここで大事なことは19節が前半だけで終わっていないということです。それは後半に続くのです。このように書かれています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節後半)。

 彼らの集まりは、ただ安心を求めての集まりに終わりませんでした。互いに安全な人たちの集まりに留まりませんでした。そこにイエス様が来てくださいました。そして、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。主の日の集まりにおいて何が起こるのか。このことが起こるのだと今日の聖書箇所は語っているのです。

 復活の主が「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。このことは何を意味するのでしょう。主はこの言葉と共に、二つのことをなさいました。この主の行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると言えるのです。

 第一に、主は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになりました。なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょう。それはそこに大きな傷跡があるからです。手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。わき腹には槍で刺された時の大きな傷跡があるのです。

 その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げたのです。愛する主を見捨てたのです。そして主は十字架の上で死んだのです。彼らは、もともとはこの世界に正義が実現することを求めていた人たちでした。神に逆らうローマ人の支配が正義の神によって打ち砕かれ滅ぼされることを願っていた人たちでした。しかし、そのような彼ら自身が最も近いところにいる愛する方を見捨て、その愛を裏切ったのです。神が正義をもって裁きを行うならば、真っ先に裁かれるのは自分自身であることを思い知らされることになりました。

 イエス様はそのような彼らの罪を突きつける手の釘跡、わき腹の傷跡を隠しませんでした。まさにそこに立っていたのは《彼らが見捨てたキリスト御自身》に他なりませんでした。しかし、主が手とわき腹をお見せになった時、彼らがそこに見たのは、彼らのしたことを責め立てるキリストではなかったのです。彼らの罪を断罪するキリストではなかったのです。本当は責められて当然なのに、断罪されて当然なのに、滅ばされて当然なのに、イエス様はそうなさらなかった。主は言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。

 その言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのです。手の釘跡とわき腹の傷跡を示してキリストが現れたら、本来は喜べないはずなのです。しかし、彼らは喜んだ。「あなたがたに平和があるように」とその御方が言ってくださったから。彼らの喜びは赦された者として再び主と共に生きることができる喜びでした。

 そのことが主の日の集まりにおいて起こるのだと聖書は伝えているのです。私たちは単に人間同士で罪深い者であることを認め合って生きるのではありません。私たちは主の御前において罪を示され、主の御前において自らの罪を認めることになるのです。そして、その主から赦しを受け取るのです。復活のキリストが私たちにも言ってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。

主によって遣わされる
 そして、第二に主がなさったこと、それは次のように書かれています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21‐22節)。

 息を吹きかける主の動作。それはやがて彼らに起こることを指し示すものでした。それから五十日目の五旬祭の日に、彼らに聖霊が降るのです。そして、彼らは世界に遣わされていくことになるのです。「聖霊を受けなさい」と主が言っておられることが実現するのです。

 しかし、この主の動作はまた、主の日の集まりにおいて繰り返し起こる出来事をも示しているのです。それゆえにヨハネによる福音書では、あえて日曜日に主がこう言われたことが伝えられているのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。

 私たちは単にこの世の様々な敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うのではありません。単に安心して身を置くことのできる逃げ場を求めて教会に集まるのではありません。私たちはキリストによって聖霊に満たされ、この世界に遣わされるために集まるのです。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。確かに主はそう言われました。父なる神が御子キリストを遣わしてくださって、「あなたがたに平和があるようにと言ってくださいました」。私たちに罪の赦しを与えてくださいました。そのキリストが私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを手渡すために遣わされるのです。私たちもまた「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。ですから、主は彼らにこう言われたのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。

 「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦してくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現です。罪を最終的に赦すことができるのは、神様であって、弟子たちではありません。しかし、弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたのです。私たちに託されているのです。主はそのような私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世界へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日彼らに起こり、ここにいる私たちに起こります。そのことが主の日の集まりにおいて起こるのです。

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