2016年3月6日日曜日

「葬りのためのナルドの香油」

2016年3月6日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 12章1節~8節


なぜ、こんな無駄遣いをするのか!
 エルサレムから三キロほど離れたベタニアの村。イエス様が久しぶりに来てくださいました。ラザロを生き返らせていただいた時以来です。その時何が起こったかは11章に書かれています。マリアとマルタはどれほど嬉しかったことでしょう。また、あの時、その場に居合わせた人たちも、イエス様が再びおいでくださったということで、どれほど喜んだことでしょう。

 実際イエス様はしばらく来ることができなかったのです。イエス様の命が狙われていたからです。祭司長とファリサイ派の人々は「イエスの居どころが分かれば届け出よ」という命令まで出していました。逮捕するためでした。そのためイエス様とその一行は、荒れ野に近い地方のエフライムという町にしばらく滞在していたのです。

 しかし、そのような危険にさらされていたイエス様が、それにもかかわらずエルサレムに近いベタニアに再び来てくださいました。人々はラザロを生き返らせていただいた感謝を込めて、最高のおもてなしをしたいと思っていたことでしょう。2節には「《イエスのために》そこで夕食が用意され」(2節)と書かれています。そして、いつものようにいそいそと食事の用意をし、給仕をしていたのはマルタでした。

 確かに緊迫した状況下での食事ではあります。しかし、それでもなおそこには生き返ったラザロがそこにいて、マリアもマルタもそこにいて、あの時一緒に神を誉め讃えた弟子たちもそこにいて、何よりもイエス様がそこにいてくださって、喜びと感謝に溢れた晩餐会になるはずでした。そう、そのはずだったのです。

 ところがそこで事件が起こりました。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(3節)。突然マリアがそんなことを始めたのです。彼女の行動は明らかに常軌を逸していました。

 その場面を想像してみてください。彼女はナルドの香油をイエス様の足に塗って、自分の髪で拭っているのです。当時は寝そべって食事をしますから、足元に近づくのは難しいことではありません。しかし、それにしても髪を人前でほどいて、その髪で足を拭うなどということは、娼婦でもないかぎりしないことです。その姿だけでも晩餐会をぶちこわしにするのに十分でした。

 しかも、マリアが持ってきたのは一リトラ入りの壺でした。約330グラムに当たります。それを少しだけ塗ったのではないのです。ユダが「なぜ…貧しい人々に施さなかったのか」と言っているところを見ると、恐らく全部注いでしまったのです。他の福音書を見ると、足ではなく「イエスの頭に香油を注ぎかけた」(マタイ26:7)と書かれています。頭にも、足にも。全身に注ぎかけてしまったのでしょうか。いずれにせよ、どのような事態を引き起こすかを想像することは難しくありません。

 ちなみにナルドの香油は今日でも手に入ります。イエス様の時代のものと同じものかどうかは分かりませんが、かなり小さな瓶入りのものをだいぶ前に手に入れました。ちょっと手についただけでもかなり強い香りがします。これを300グラム以上部屋の中で注いだらどうなるか。想像するだけでもゾッとします。「家は香油の香りでいっぱいになった」とありますが無理もありません。むせかえるような匂いは、当分消えることはないでしょう。

 どう考えても、もはや食事どころではありません。せっかくの感謝の晩餐会が台無しです。マルタの真心込めた奉仕も台無しです。そこには何も書かれていませんが、マルタは腹が立ったことでしょう。こういうことってあると思いませんか。一生懸命に心を込めて準備してきたことが、他の人の後先考えない行為によって台無しにされてしまうこと。皆さんだったらどうしますか。

 しかも、そのナルドの香油は「純粋で非常に高価なナルドの香油」だったというのです。ユダに言わせれば、それだけで三百デナリオンもするものです。三百デナリオンと言えば、大の男がまる一年間働いて得られる収入に当たります。それほど高価な香油の入った壺でした。

 わたしは時々思うのです。あれはマリアの私物だったのだろうか。結婚のための備えという説もあるらしいのですが、実際、そんな高価なものをマリアが一つ、マルタが一つ、別々に持っているということはあり得るのだろうか。それとも家の財産だったのだろうか。もし家の財産だったら、マルタにとっては一大事です。そこに喚き立てているマルタがいて大騒ぎになっていたとしても不思議ではありません。

 いや、こんなことが起こったら、他人の持ち物でも大騒ぎになるものです。事実、喚き立てている人の声が記されています。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)。ユダの声です。しかし、ユダだけが騒いでいて他の弟子たちは静観していたなどということはあり得ません。マタイによる福音書によれば、他の弟子たちも同じことを口にしていたようです。「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』」(マタイ26:8‐9)。皆が皆、似たようなことを口々に喚き立てていたのでしょう。喜びに溢れた晩餐会はどこへやら。もはやカオスです。何もかも滅茶苦茶です。

御自分の葬りをしておられたキリスト
 しかし、そこでイエス様が口を開かれます。主は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7‐8節)。

 「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」「貧しい人々に施すことができたのに」。人々が思い思いのことを口にしていた時に、イエス様の口から最初に出てきたのは「葬り」の話でした。人々が怒ったり、批判したり、嘆いたりしていたその時に、様々な思いが渦巻いていたであろうその場所で、イエス様は御自分の「葬り」のことを考えておられたのです。

 実際にマリアがイエス様の葬りの日のために香油を取って置いたのかは分かりません。しかし、確かなことは、マリアの意図が何であれ、彼女が注いだ香油を葬りのための香油としてイエス様は受け取られたということです。いわばその場所において、イエス様はマリアと一緒に御自分の葬りをしておられたのです。そのために取っておかれた香油だったのだ、と言いながら。

 主がどうしてそう言われたのか、今日の聖書箇所からわかります。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」という言葉で始まっていたのです。それは過越祭へと向かう途上の出来事であったことが殊更に記されているのです。そして、それこそイエス様が考えておられたことに違いないのです。

 ちょうど次の章の初めにも「過越祭」について言及されています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)その年の「過越祭」はイエス様にとって特別な「過越祭」だったのです。イエス様はある意味ではその「過越祭」に向かって生きてきたとさえ言えるのです。

 それは過越祭の六日前でした。翌日には過越祭の五日前になり、その翌日は四日前になるのです。そして、過越祭の前日、準備の日には、毎年過越の羊が屠られます。人々はその時に、かつて先祖がエジプトを脱出した時のことを思い起こすのです。イエス様はそのような過越祭とそこで屠られる羊のことを考えておられたのです。

 過越祭のために屠られる過越の羊。それは、もともとは救いのために屠られた羊でした。イスラエルの先祖がエジプトから救われたあの夜、彼らはそれぞれ主が命じる通り、羊を屠ってその血を家の入口の鴨居と柱に塗りました。そして、その家の中に信じて留まりました。その夜、神の裁きがエジプト全土に臨みました。神の裁きはエジプトの中にあるイスラエルの家々にも及びました。しかし、神の裁きは彼らを過ぎ越して行きました。彼らがイスラエルの民だからではありません。「血を御覧になって」(出エジプト12:23)と書かれているのです。それは彼らが赦され救われるために屠られた羊の血だからです。彼らが救われるとするならば、それはひとえに彼らのために屠られた羊、あがないの羊の血によるのです。

 そのことを思い起こす過越祭が近づいてきました。過越祭の六日前、イエス様は屠られる羊のことを考えておられたのです。イエス様はご存じでした。その年の過越祭において、救いのためのまことの犠牲が屠られることになることを。全世界に救いをもたらす過越の羊が屠られることになることを。それはかつて洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだイエス様御自身です。

 イエス様はベタニアを訪れたその翌日、エルサレムに入城されるつもりでおられました。そこで何が待ち受けているか知った上で、十字架への道を進んで行くつもりだったのです。だからこそ、その前日に起こったこの予期せぬ出来事を、イエス様は御自分の葬りとして受け取られたのです。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」。

 そのような主の思いをいったい誰が知っていたことでしょう。もしかしたら、マリアはその主の思いに最も近いところにいたのかもしれません。しかし、その周りを見るならば、十字架へと向かわれるイエス様の思いから遠く離れたところで、人々は怒り、嘆き、批判し、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」ともっともらしいことを口にして他人を責め立てているのです。その側でイエス様が御自分の葬りをしておられるというのに!

 しかし、そこに見るのは私たちの姿ではありませんか。実際、私たちは十字架へと向かわれた主の思いをどれだけ知っているのでしょう。イエス様が何のために来られて、十字架の上でいったい何をしてくださったのか、イエス様が世の罪を取り除く神の小羊であるということがいかなることなのか、どれだけ知っているのでしょう。もしかしたらその片鱗すらも理解していないのかもしれません。だからこそ、私たちは毎年このレントの期間を過ごすのです。今年もこの時を過ごしているのです。世の罪を取り除く神の小羊として過越祭へと向かわれたイエス様の思いを少しでも知ることができるようにと。

以前の記事