2016年2月14日日曜日

「恵みの座に近づこう」

2016年2月14日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 4章12節~16節


神の言葉は両刃の剣
 私たちは今礼拝堂に身を置いています。礼拝堂は、外から見るならばまことに不思議な空間であると言えます。そこでは人々が宙に向かって言葉を発しています。何も無いところに向かって歌をうたっています。まことに不思議なことが行われている空間です。

 しかし、中にいる私たちにとっては、もちろんそれは不思議なことでも何でもないわけです。自分が神に向かって言葉を発していることを知っているからです。私たちは聞いてくださっている方に向かって賛美を歌っていることを知っています。目には見えないけれど、礼拝されるべき御方を礼拝しているのだということを知っています。

 私たちの人生に、目に見えない神を礼拝する時間が置かれているということは素晴らしいことです。それは、もはや《目に見えるものが全てだと思って生きてはいない》ことを意味するからです。

 悲しみに暮れる時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。苦悩の日々が続く時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。八方塞がりの時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。目に見えない神を礼拝して生きるとは、そのような幸いな人として生きることです。目に見えることが全てではない。目に見えない神がおられる。その御方が目に見えないことを進めていてくださる。その先に、まだ見ていない全き救いがある。そのように、私たちは目に見えない神に思いを向け、目に見えない神を礼拝しているのです。

 しかし、もう一方において、目に見えない神を礼拝するということは、その目に見えない神の前に私たち自身が置かれているということでもあります。

 今日の聖書箇所に、このようなことが語られていました。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。

 ここに「神の言葉」について語られています。私たちが信じている神は「語りかける神」です。私たちの言葉を聞いていてくださるだけではありません。私たちの賛美を聞いていてくださるだけではありません。神は語られるのです。聖書が朗読され、聖書が解き明かされるとき、神が語りかけておられる。私たちは神の御前に置かれ、神によって語りかけられているのです。

 そして、神の言葉は生きていると書かれています。神の言葉は力を発揮するのだと書かれています。どのように力を発揮するのでしょう。神の言葉は両刃の剣に喩えられています。その剣はこの世のいかなる剣よりも鋭いのです。そのような剣として力を発揮するのです。

 神の言葉が両刃の剣のように力を発揮するということは、私たちが切られるということでもあります。刺し貫かれるということでもあります。どれほど深いところにまで及ぶのでしょう。それは私たちの「心の思いや考えを見分けることができる」ほどであると書かれています。

 心の思いや考えというのは、人の目から隠しておける部分でしょう。実際、私たちは心の思いや考えをある程度隠しながら生きているものでしょう。しかし、神の言葉はそこにまで切り込んでくるのです。そのような私たちの隠れた思いや考えを見分けるほどにです。私たちは深いところにある心の思いや考えまでも神によって判断され、裁かれるということです。

 それは私たちの日常にはないことです。私たちは通常はジャッジする側にいますから。私たちは物事を主体的に判断し、他の人々を裁きながら生きているものです。そのように裁く者として神にも向かいます。そのように裁く者として聖書にも向かいます。

 しかし、目に見えない神を礼拝する場において、立場は逆転します。神が語られる場において、立場は逆転します。神が判断し、神が裁く側に立つのです。人間は裁かれる側に置かれるのです。神が人間に語られるのです。その言葉は最も深いところにまで及びます。

 実際、神を礼拝する生活をスタートし、神の言葉に耳を傾けるようになると、そのことを経験し始めます。「神はわたしを知っている」と思わずにはいられない時があるのです。私が抱いているこの思いは誰にも話してはいないのに、誰にも知られてはいないはずなのに、確かに神は知っておられる。墓場に至るまで秘めておこうと思っていたその心の思いについてさえも神は知っておられる。聖書の朗読を聞きながら、また聖書の解き明かしを聞きながら、そう思わずにはいられない時があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができるからです」と書かれているとおりです。

 それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。

 神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのでしょう。神が語れるところにおいてでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。

 それはまことに恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、私たちもまた神の顔を避けて、隠れざるを得ないのでしょう。

大胆に御座に近づこう
 しかし、そのような私たちを神は憐れんでくださいました。神は恵みを現してくださいました。そのような私たちに、偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのです。それが14節以下に書かれていることです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(14節)。

 「大祭司」とは、もともとは罪のための供え物やいけにえを献げる務めのために任命された人のことです。彼は罪のための供え物やいけにえを献げて、神の御前に立って人々のために執り成しをするのです。そのように、イエス様もまた、罪のための犠牲を献げて、私たちのために執り成しをしてくださる御方だということです。イエス様が罪のために献げてくださった犠牲とは御自身の命です。イエス様はただ一度、十字架において完全な罪の贖いの犠牲を献げて、永遠に私たちのために執り成してくださる大祭司なのです。

 その大祭司である神の子イエスについては、次のように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。

 あの御方は、私たちと同じこの体をもって、地面の上を歩いてくださいました。この世においてこの体をもって生きるということがどれほど過酷なことであるかを自ら味わってくださいました。どれほどの試練があり誘惑があるのか。どれほど激しい罪との戦いがあるのか。その全てを自ら知ってくださいました。

 だからこの大祭司は私たちの弱さを分かってくださる。私たちが自らの弱さと罪に深い悲しみを抱くとき、同じように悲しんでくださる御方です。時として自分で自分を罰したくなるほど、打ち叩きたくなるほど悲しい思いをする時に、その悲しみを分かってくださる御方です。その方が大祭司として私たちのために執り成していてくださるのです。「彼らの罪を赦したまえ」と。

 そして、先にも述べましたとおり、そのような大祭司を与えてくださったのは、他ならぬ父なる神御自身なのです。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」と書かれていました。そのように、私たちの全てを知っておられる方が、私たちの罪も過ちも全てご存じの方が、それでもなお私たちが神に近づくようにと、大祭司であり罪の贖いの犠牲でもある御方を与えてくださったのです。ですから、その大祭司の存在そのものが神の呼び声に他ならないのです。「わたしに近づきなさい。わたしに近づきなさい」と。

 そこには既に神の憐れみがあります。そこには既に神の恵みがあります。だからこう書かれているのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16節)。

 実際、私たちはそのようにして、恵みの座に近づいているのです。私たちは大胆に恵みの座に近づき、目に見えない御方に祈りを捧げ、目に見えない御方に向かって賛美を歌い、その御方からの語りかけに耳を傾けているのです。

 私たちは、その御方が大祭司をお与えくださった神であると知っています。憐れみの神であり恵みの神であることを知っています。目に映ることが全てではありません。悲しみに暮れる時があろうと、苦悩の日々が続こうと、目に見えることが全てではありません。目に見えない憐れみの神、恵みの神が、目に見えないことを進めていてくださるのです。その先に、まだ見ていない全き救いがある。これからも目に見えない御方に目を注ぎ、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

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