2016年2月28日日曜日

「永遠の命の言葉を持つ御方」

2016年2月28日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章60節~71節


実にひどい話だ!
 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。弟子たちの多くの者はイエス様の話を聞いてこう言いました。ただイエス様の教えが理解不能であるということではありません。それは受け容れ難かったのです。なぜでしょうか。

 そもそも事の発端はイエス様のなさった奇跡でした。この章の初めに書かれています。五つのパンと二匹の魚をもって男だけを数えても五千人という大群衆を満腹させたという話です。この出来事が弟子たちを熱狂させたことは間違いないでしょう。

 既に奇跡を行う力を持っているイエス様を王にしようとする動きさえありました。それはローマ人の支配からの解放を求めてのことでしょうし、安定した新しい生活を求めてのことでもあったでしょう。そこまで考えていなくても、イエス様と共にいるかぎりもはや貧しさや惨めさや病気と決別できると考えていた人も少なくなかったに違いありません。そのような人々がカファルナウムまで追いかけてきたのです。

 ところが興奮さめやらぬ人々にイエス様が語られた言葉はこうでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(26‐27節)。そして、そこから一連の話が始まるのです。まさに弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言わざるを得なかった話が始まるのです。

 その話の中心は「わたしは天から降って来たパンである」というイエス様の主張でした。しかも、それはかつてイスラエルの先祖が荒野で食べたマンナのような一時的な飢えをしのぐものではなく、永遠の命を与えるパンであると言い始めたのです。イエス様は言われました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。

 そして、その言葉はさらに過激さを増していきます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53‐54節)とまで言い始めるのです。

 このような言葉を聞かされたらつまずいても不思議ではありません。しかし、彼らがつまずいたのは、先にも申しましたように単に理解不能だったからではないのです。その言葉は受け容れがたかったのです。なぜなら、それは彼らが求め、期待してきたこととは異なっていたからです。

 もしイエス様が「わたしは天から降ってきたパンだ」などと言わずに、「わたしは奇跡によってパンを出してあげよう」と言ったなら彼らはつまずかなかったのです。もしイエス様が「わたしの肉を食べ、血を飲め」なんて言わずに、「わたしが肉と飲み物を与えるから食べて飲みなさい」と言ったなら、彼らはつまずくことはなかったのです。

 もしイエス様が「終わりの日に復活させる」なんて言わずに、「すぐにでもあなた方をローマ人の手から救ってあげよう」と言ったなら、誰もつまずくことはなかったのです。しかし、イエス様はあくまでも永遠の命について語られるのです。永遠なる神との交わりによって与えられるまことの命について語られるのです。だからつまずかざるを得ないのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。

肉は何の役にも立たない
 イエス様は弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」(61‐62節)。イエス様の言葉は途中で終わっています。なんと続けたかったのでしょうか。恐らくは「なおさらつまずくことになるだろう」と言いたかったのでしょう。なぜなら事実、その先にはもっと大きなつまずきが待っているからです。イエス様が十字架にかけられる姿です。「人の子がもといた所に上るのを見るならば」というのは天に帰るということです。しかし、この福音書においては十字架にかけられて死ぬことを指しているのです。もし、目の前の助けや必要の満たしだけを求めてついていくならば、そこで大きくつまずかざるを得ないでしょう。

 それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。主はあくまでも「命」すなわち「永遠の命」について語られるのです。「命を与えるのは“霊”である」と。その「命」は目に見えない永遠なる神の霊のお働きとして与えられるのです。

 それに対して、目に見えるこの世界に属するものをイエス様は「肉」と呼ばれるのです。朽ちていくこの地上のもの、イエス様が先に「朽ちるパン」と呼ばれたもの、人々がひたすら追い求めているもの、それが「肉」です。群衆は「肉」を求めてはるばるカファルナウムまでイエス様を追いかけてきたのです。しかし、人々は「肉」を求めるけれど、「肉」は本当の意味で命を与えることはないのです。いや、「肉は何の役にも立たない」とまでイエス様は言い切られるのです。

 どんな思いで主はこれを語られたのでしょうか。考えて見てください。イエス様の周りには常に飢えた人、病気の人、見捨てられた人、抑圧された人、様々な問題に押しつぶされそうになっている人たちがたくさんいたはずです。それらの人々の苦しみがイエス様には分からなかったはずはありません。どんなにお腹いっぱい食べたいか、どれほど健康になりたいか、どれほど安定した生活を欲しているか、イエス様には痛いほど分かっていたはずです。人間に肉なるものがどれほど必要であるか、この世が提供するものがどれほど必要であるか、そんなことは重々分かっておられるはずなのです。

 そのイエス様が敢えて「肉は何の役にも立たない」と言われたのです。それは「命を与えるのは“霊”である」ということをどうしても伝えたかったからでしょう。それほどまでに永遠なる神に思いを向けて欲しかった、それほどまでに永遠の命を与えたいと思っておられたからでしょう。人がたとえ代わりにすべてを失ったとしても、なおその人を生かす命。最終的には肉体の生命を失ったとしてもその人を生かす命。何ものによっても奪われることのない命――永遠の命を主はどれほど与えたいと願っておられたことでしょうか。

 そのために主は十字架への道を歩むことさえ厭わなかったのです。そのために主は御自分の全てを与えるつもりでいたのです。自分自身を天から降ってきたパンとして与えるつもりでいたのです。わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい、と言って、自分を差し出すつもりでいたのです。

あなたがたも離れて行きたいか
 しかし、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と聖書は伝えます。ここまでイエス様を信じて従ってきたはずの「弟子たちの多くが」離れて行ったのです。

 このことは深い痛みをもって書き記されたに違いありません。というのも、ヨハネによる福音書が書かれた頃もまた、多くの弟子たちが教会から離れて行った時代だったからです。特に、この福音書の主たる読者であったユダヤ人キリスト者にとってはそうでした。福音書が書かれた紀元1世紀も終わり頃、「イエスは主である」と告白する者は会堂から追い出されることになったのです。村八分になれば生活そのものが困難になります。そこで多くの弟子たちが教会から離れて行ったのです。

 迫害と困窮の中に置かれるならば、そこで何を求めているのか、何を求めてきたのかが必然的に問われることになるのでしょう。そのような中で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というような主の言葉はどのように聞こえたのでしょうか。その主の言葉に対して、「今は目の前の現実が大事なんだ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言う人は、もはやイエス様のもとに留まることはできなかったに違いない。イエス様から離れ去った多くの弟子たちの話は当時の教会にとっては他人事ではなかったのです。

 しかし、そのような時代であったからこそ、あの十二弟子に語られたイエス様の言葉もまた強く迫ってきたことでしょう。弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、イエス様は十二弟子にこう言われたのです。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。

 これは「あなたがたも離れて行きたいか。もしそうならば去ってもいいのだよ」という意味ではありません。そうではなく、「あなたがたも離れて行きたいか。いやあなたがたは決して去ることはないだろう」という意味合いの表現が用いられているのです。「あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼をもってイエス様は語っておられるのです。

 その言葉に対して、シモン・ペトロは、先のイエス様の言葉を全面的に受け入れて、こう答えるのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。どれだけ分かって言っていたのかは分かりません。しかし、彼はただ肉なるものを求めてイエス様のもとにいるのではなかったことは明らかです。

 私たちは何と応えるでしょうか。主はここにいる私たちにも「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して御言葉を語っていてくださいます。永遠の命の御言葉を語っていてくださるのです。私たちもまたペトロの言葉を私たち自身の言葉としたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。「肉は何の役にも立たない」と主は言われました。実際、私たちの人生においても、最終的にはその事実が明らかになります。肉が役に立たない、必要とされなくなる時が来るのです。すべての肉なるものが役に立たないものとして取り去られる時まで、命を与えるのは“霊”であると信じて、御言葉を聴き続ける者でありたいと思うのです。

2016年2月21日日曜日

「シロアムの池に行って洗いなさい」

2016年2月21日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 9章1節~12節


神の業が現れるため
 その人は生まれつき目の見えない人でした。両親は彼に物乞いをさせました。親が亡くなった後でも彼が生きていくためには恐らくそれが唯一の道だったからです。その日も彼は人通りの多い道の傍らに座っていました。すると声が聞こえてきました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。

 何も特別なことではありません。それまでに幾度となくこのような声は聞いていたでしょうから。子供たちの単純素朴な質問として、あるいは人生経験を積んだ老人たちの声として、そして、ラビの弟子たちの宗教的な問いとして。いや、恐らく彼自身も幾度となく同じ問いを繰り返していたことでしょう。「わたしがこのような不幸を背負っているのは、わたしの罪なのだろうか。両親の罪なのだろうか。いったい誰が悪いのか。」

 私たちにも覚えがあります。ある時は自分自身の苦しみについてであるかもしれません。あるいは他の誰かの不幸についてであるかもしれません。この世界に起きる災いについてであるかもしれません。その時、私たちも問わずにいられなくなります。いったい何が原因なのですか。だれが罪を犯したからですか。いったいだれが悪いのですか。私たちの心は誰かを悪者にしなくては収まりがつきません。

 その意味で、彼が耳にしたのはなんら特別な問いではありませんでした。しかし、続いて聞こえてきたのは今まで聞いたことのないような言葉でした。声の主はこう言ったのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 この人は自分の負っている苦しみについて「なぜ」と問うことはあっても、「何のために」と問うことは恐らく一度もなかったに違いありません。「だれが罪を犯したからか」と過去に思いを向けることはあっても、「自分の人生に何が現れるためなのか」と未来に希望の目を向けることは一度もなかったに違いないのです。目の見えない彼には声の主が見えません。しかし、そこには確かに彼の未来に目を向けている御方が立っておられました。「神の業がこの人に現れるためである」と。それは彼にとって天地がひっくり返るほどの驚きであったことでしょう。

 するとその方はにわかに唾で土をこねて泥を作り始めました。そして、その泥を彼の目に塗り始めたのです。もちろん彼には見えません。しかし、土をこねているらしいことは分かりました。その泥を塗られたこともわかりました。そこで声の主が言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。その人は言われるままに塗られた泥を洗い落としに行きました。そう、ただ洗うために行ったのです。ところが泥を洗い落とすと、その目に光が入ってきたのです。それはどんな感覚なのでしょう。わたしには想像することもできません。しかし、とにかく彼は生まれて初めて光を経験したのです。

シロアムの池に行って洗いなさい
 さて、これは昔ある所にいたある個人の特殊な体験の話ではありません。もしそうなら、話としては面白いとしても、ここにいる私たちにとってさほど重要な話ではありません。しかし、そうではないのです。だからこそ今日まで語り継がれてきたのです。ヨハネによる福音書に記されているイエス様の奇跡は特に「しるし」と呼ばれています。それはキリストによる救いを指し示す「しるし」であり、一つ一つ象徴的な意味を持っているのです。そこにはいつの時代の人にも向けられた神のメッセージがあるのです。では、ここにいる私たちにとって、この出来事は何を意味しているのでしょう。

 この物語に出てきたのは「生まれつき目の見えない人」でした。当時の人たちは目を「窓」のように考えていたようです。体の窓です。そこから光が入るのです。この窓が閉ざされてしまいますと、光が入ってきません。たとえ外に太陽の光が燦々と降り注いでいたとしましても、目が閉ざされているならば、その人自身は暗闇の中を生きることになります。この物語に出てきたのは「生まれつき暗闇の中を生きてきた人」と言うことができます。

 さて、同じことが神と人との間にも起こります。ヨハネの手紙にこんな言葉があります。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(1ヨハネ1:5)。神は私たちを照らし、私たちを生かすまことの光です。しかし、神の光が私たちを照らしていたとしても、私たちの目が神に対して閉じているなら、私たちは暗闇の中を生きることになるのです。人間にとって本当の不幸は、人生に数々の苦しみがあるということではありません。病気であることや、様々な問題を抱えていることではありません。神に対して閉ざして、神の光を締め出して、暗闇の中に生きていることなのです。

 その閉じた目が再び開くために、神の光が心の中に差し込んでくるためには、いったいどうしたらよいのでしょうか。イエス様はまず彼の目に泥を塗りました。目を洗わせるためです。そのようにして、人間には洗い落とさなくてはならないものがあることを示されたのです。それを、弟子たちが言っていたのとは違った意味で「罪」と呼ぶこともできるでしょう。人間の罪が神との断絶をもたらし、神の光を妨げ、暗闇をもたらすのです。その罪が洗い落とされねばならないのです。

 それゆえに、主は彼にこう言いました。「シロアムの池に行って洗いなさい」。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味であるとわざわざ説明が付いていました。この福音書において「遣わされた者」とはキリストのことです。「シロアムの池」はキリストを象徴的に表しているのです。洗い流されねばならない泥は、キリストを表す「シロアムの池」の水によって洗い流されねばならないのです。光を遮り私たち自身に闇をもたらしている罪の問題を、私たちは自分の力で拭い去ることはできないからです。私たちはただ洗い流していただくしかないのです。キリストによって洗い流していただくしかないのです。

 その意味において、「シロアム(遣わされた者)の池」はキリストの十字架を象徴しているとも言えるでしょう。キリストは十字架にかかるためにこそ、遣わされたのですから。キリストの十字架は、私たちのためでした。私たちの罪が洗い流されるために、罪のない方が私たちの罪を引き受けて、罪を贖う犠牲として血を流してくださったのです。ただこの罪のない方の流された血潮によってのみ、私たちの罪は洗い清められるのです。

 そこに十字架がある。そこにシロアムの池がある。それは、どんな人でも光の中へと歩み出すことが出来ることを意味します。どんな人でも、罪を赦された者として、洗われた者として、神の光の中を、神と共に生きていくことができるのです。そのために必要なことは、ただ信じることです。あの目の見えない人が光の中を歩み出すのに必要なことは、信じてシロアムの池に行って洗うことだけでした。そうです。人間に求められているのは、イエス・キリストを信じて罪の赦しと清めを願い求め、洗い流していただくことだけなのです。

 その出来事を目に見える形で表しているのは、そのような信仰によって受ける洗礼です。ですからこの「シロアムの池」は昔から洗礼を表すものとしても語られてきたのです。

わたしたちは行わねばならない
 そして、最後になお一つのことに目を向けたいと思います。この人に神の御業が現れました。神の光の中を生き始めるという神の御業が現れました。既に見てきましたように、それは全ての人に起こりえる神の御業でもあります。人が信仰をもって神と共に生き始めるという神の御業です。

 しかし、イエス様が「神の業がこの人に現れるためである」と言われた後に、一言このようなことを言っておられるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(4‐5節)。

 「神の業がこの人に現れるためである」。しかし、神の御業は自動的に現れるのではありません。ある人の上に神の御業が現れるためには、そのために働く人が必要であるようです。神と共に働く人が必要なのです。

 この話においては、働いたのはイエス様だけでした。イエス様が全部なさって「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。しかし、未来永劫ずっとイエス様が一人でなさるつもりではないようです。「わたしたちは」と主は言われるのです。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と。

 イエス様はあの弟子たちに「一緒にやろう」と言われたのです。ですから後の弟子たちは一緒にやってきたのです。もっとも弟子たちにできることは「シロアムの池に行って洗いなさい」と言うことぐらいです。しかし、あの弟子たちも、後の教会も、イエス様を指し示しながら、そして洗礼の水を指し示しながら、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言い続けてきたのです。それを言いに日本にまで来てくれた人たちさえいたのです。だからここに教会があるのです。

 それゆえに、私たちもまた一緒にやるのです。日のあるうちに。主は「だれも働くことのできない夜が来る」と言われました。もはやその言葉を語り得なくなる時が来るのです。そして、聞き得なくなる時が来るのです。ですから、私たちは定められた終わりの時まで、これからも語り続けるのです。「シロアムに行って洗いなさい」と。神の業が一人でも多くの人に現れるために。

2016年2月14日日曜日

「恵みの座に近づこう」

2016年2月14日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヘブライ人への手紙 4章12節~16節


神の言葉は両刃の剣
 私たちは今礼拝堂に身を置いています。礼拝堂は、外から見るならばまことに不思議な空間であると言えます。そこでは人々が宙に向かって言葉を発しています。何も無いところに向かって歌をうたっています。まことに不思議なことが行われている空間です。

 しかし、中にいる私たちにとっては、もちろんそれは不思議なことでも何でもないわけです。自分が神に向かって言葉を発していることを知っているからです。私たちは聞いてくださっている方に向かって賛美を歌っていることを知っています。目には見えないけれど、礼拝されるべき御方を礼拝しているのだということを知っています。

 私たちの人生に、目に見えない神を礼拝する時間が置かれているということは素晴らしいことです。それは、もはや《目に見えるものが全てだと思って生きてはいない》ことを意味するからです。

 悲しみに暮れる時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。苦悩の日々が続く時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。八方塞がりの時に、目に映っていることが全てではないと言えることは実に幸いなことです。目に見えない神を礼拝して生きるとは、そのような幸いな人として生きることです。目に見えることが全てではない。目に見えない神がおられる。その御方が目に見えないことを進めていてくださる。その先に、まだ見ていない全き救いがある。そのように、私たちは目に見えない神に思いを向け、目に見えない神を礼拝しているのです。

 しかし、もう一方において、目に見えない神を礼拝するということは、その目に見えない神の前に私たち自身が置かれているということでもあります。

 今日の聖書箇所に、このようなことが語られていました。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。

 ここに「神の言葉」について語られています。私たちが信じている神は「語りかける神」です。私たちの言葉を聞いていてくださるだけではありません。私たちの賛美を聞いていてくださるだけではありません。神は語られるのです。聖書が朗読され、聖書が解き明かされるとき、神が語りかけておられる。私たちは神の御前に置かれ、神によって語りかけられているのです。

 そして、神の言葉は生きていると書かれています。神の言葉は力を発揮するのだと書かれています。どのように力を発揮するのでしょう。神の言葉は両刃の剣に喩えられています。その剣はこの世のいかなる剣よりも鋭いのです。そのような剣として力を発揮するのです。

 神の言葉が両刃の剣のように力を発揮するということは、私たちが切られるということでもあります。刺し貫かれるということでもあります。どれほど深いところにまで及ぶのでしょう。それは私たちの「心の思いや考えを見分けることができる」ほどであると書かれています。

 心の思いや考えというのは、人の目から隠しておける部分でしょう。実際、私たちは心の思いや考えをある程度隠しながら生きているものでしょう。しかし、神の言葉はそこにまで切り込んでくるのです。そのような私たちの隠れた思いや考えを見分けるほどにです。私たちは深いところにある心の思いや考えまでも神によって判断され、裁かれるということです。

 それは私たちの日常にはないことです。私たちは通常はジャッジする側にいますから。私たちは物事を主体的に判断し、他の人々を裁きながら生きているものです。そのように裁く者として神にも向かいます。そのように裁く者として聖書にも向かいます。

 しかし、目に見えない神を礼拝する場において、立場は逆転します。神が語られる場において、立場は逆転します。神が判断し、神が裁く側に立つのです。人間は裁かれる側に置かれるのです。神が人間に語られるのです。その言葉は最も深いところにまで及びます。

 実際、神を礼拝する生活をスタートし、神の言葉に耳を傾けるようになると、そのことを経験し始めます。「神はわたしを知っている」と思わずにはいられない時があるのです。私が抱いているこの思いは誰にも話してはいないのに、誰にも知られてはいないはずなのに、確かに神は知っておられる。墓場に至るまで秘めておこうと思っていたその心の思いについてさえも神は知っておられる。聖書の朗読を聞きながら、また聖書の解き明かしを聞きながら、そう思わずにはいられない時があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができるからです」と書かれているとおりです。

 それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。

 神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのでしょう。神が語れるところにおいてでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。

 それはまことに恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、私たちもまた神の顔を避けて、隠れざるを得ないのでしょう。

大胆に御座に近づこう
 しかし、そのような私たちを神は憐れんでくださいました。神は恵みを現してくださいました。そのような私たちに、偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのです。それが14節以下に書かれていることです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(14節)。

 「大祭司」とは、もともとは罪のための供え物やいけにえを献げる務めのために任命された人のことです。彼は罪のための供え物やいけにえを献げて、神の御前に立って人々のために執り成しをするのです。そのように、イエス様もまた、罪のための犠牲を献げて、私たちのために執り成しをしてくださる御方だということです。イエス様が罪のために献げてくださった犠牲とは御自身の命です。イエス様はただ一度、十字架において完全な罪の贖いの犠牲を献げて、永遠に私たちのために執り成してくださる大祭司なのです。

 その大祭司である神の子イエスについては、次のように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。

 あの御方は、私たちと同じこの体をもって、地面の上を歩いてくださいました。この世においてこの体をもって生きるということがどれほど過酷なことであるかを自ら味わってくださいました。どれほどの試練があり誘惑があるのか。どれほど激しい罪との戦いがあるのか。その全てを自ら知ってくださいました。

 だからこの大祭司は私たちの弱さを分かってくださる。私たちが自らの弱さと罪に深い悲しみを抱くとき、同じように悲しんでくださる御方です。時として自分で自分を罰したくなるほど、打ち叩きたくなるほど悲しい思いをする時に、その悲しみを分かってくださる御方です。その方が大祭司として私たちのために執り成していてくださるのです。「彼らの罪を赦したまえ」と。

 そして、先にも述べましたとおり、そのような大祭司を与えてくださったのは、他ならぬ父なる神御自身なのです。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」と書かれていました。そのように、私たちの全てを知っておられる方が、私たちの罪も過ちも全てご存じの方が、それでもなお私たちが神に近づくようにと、大祭司であり罪の贖いの犠牲でもある御方を与えてくださったのです。ですから、その大祭司の存在そのものが神の呼び声に他ならないのです。「わたしに近づきなさい。わたしに近づきなさい」と。

 そこには既に神の憐れみがあります。そこには既に神の恵みがあります。だからこう書かれているのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16節)。

 実際、私たちはそのようにして、恵みの座に近づいているのです。私たちは大胆に恵みの座に近づき、目に見えない御方に祈りを捧げ、目に見えない御方に向かって賛美を歌い、その御方からの語りかけに耳を傾けているのです。

 私たちは、その御方が大祭司をお与えくださった神であると知っています。憐れみの神であり恵みの神であることを知っています。目に映ることが全てではありません。悲しみに暮れる時があろうと、苦悩の日々が続こうと、目に見えることが全てではありません。目に見えない憐れみの神、恵みの神が、目に見えないことを進めていてくださるのです。その先に、まだ見ていない全き救いがある。これからも目に見えない御方に目を注ぎ、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

2016年2月7日日曜日

「わたしを強めてくださる方のお陰で、すべてが可能です」

2016年2月7日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 4章10節~20節


主において非常に喜びました
 フィリピの教会は、パウロの宣教の働きを積極的に物心両面から支援してきた教会でした。今日お読みした15節にもこう書かれています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 そのようなフィリピの教会ではありましたが、その後パウロへの援助においてしばらくの空白期間が生じたようです。フィリピの教会の事情によるのか、あるいはパウロとの関係が一時期悪くなったのか、その理由については定かではありません。しかし、そのようなフィリピの教会からエパフロディトという人物が獄中のパウロのもとにやってきました。彼が携えてきたのは、フィリピの教会からの贈り物でした。パウロは喜びました。その喜びこそが、この手紙を書いた一つの理由でした。

 パウロはフィリピの教会にこう書き送ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう」(10節)。なんとも不器用な表現だと言えなくもありません。聞きようによっては随分な嫌味とも受け取られかねません。しかし、パウロにとっては彼らに精神的な負担をかけないための精一杯の配慮であると共に、最大限の喜びの表現だったのでしょう。彼はただただ嬉しかったに違いないのです。

 しかし、ここで重要なのは彼がただ「非常に喜びました」とだけ言っているのではないということです。「《主において》非常に喜びました」と彼は言います。パウロの意識の中には、与えるフィリピの教会と受け取る自分だけがいるのではないのです。これは単なる人間の善意と感謝の話ではないのです。そこに主がおられる。これは主との関わりにおける出来事であり、パウロが現しているのは主にある信仰による喜びなのです。このことを心に留めて、その先を読んでいきましょう。

わたしを強めてくださる方のお陰で
 パウロは次のように続けます。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11‐12節)。

 「習い覚えた」と訳されている言葉は、経験によって知ることを意味する言葉です。実際、パウロ自身、実に極貧の状態を経験してきた人でした。他の手紙において、彼はそれまでの生活を振り返って次のように述べています。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:27)。そのようなパウロが「貧しく暮らすすべを知っている」と言う時、その言葉にはまことに重みがあります。

 しかし、彼は「貧しく暮らすすべを知っている」だけではありません。「豊かに暮らすすべも知っている」と彼は言うのです。それはさらに難しいことなのかも知れません。イエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)について語られました。多くを託された時、その多くを正しく用いることは難しいものです。人はしばしば豊かさの中で豊かさのゆえに罪を犯し、豊かさの中で豊かさによって神から引き離されるのです。「豊かに暮らすすべも知っている」とはまことに重い言葉です。

 それだけでなく、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と彼は言います。いったい、パウロの言うところの「秘訣」とは何だったのでしょうか。その詳細についてパウロは何も語りません。ただ一言、彼はこう言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)。この言葉にすべてが言い尽くされていると言って良いでしょう。

 パウロの生まれ故郷はタルソという町でした。このタルソという町は、当時のストア派哲学の中心となっていた場所のひとつであると言われます。ですから、当然パウロもまたこのストア派の哲学に馴染んでいたのです。11節の「満足する」という言葉はストア派哲学からの借用です。それは、誰の世話にもならず、何も欲しがらず、何にも関心を持たず、何にも心を動かされない、彼らの理想を表わす言葉でした。

 しかし、パウロが「満足することを習い覚えた」と言い、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かった」というのは、言葉はストア主義と同じ言葉を用いているかも知れませんが、内容は全く違うのです。彼にとって決定的に重要なことは、どのような心の状態を会得したかということではなくて、誰と共にあるかということだったからです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。そのような御方と共に生きることこそが、彼の人生における「秘訣」だったのです。そのように神と共に生き、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言い得る生活こそ、彼が習い覚えてきた生活だったのです。

あなたがたの益となる豊かな実
 パウロはそのように主と共に生きる人として、同じように主と共に生きるフィリピの教会を見ています。それゆえに、フィリピの教会からの支援再開についても、パウロは「主において」喜んでいるのです。それはただ与える人々と受ける人との間のことではないのです。

 最初に見ましたように、パウロは15節以下でかつてフィリピの教会が行ってきた援助について言及しています。フィリピの教会は実際、パウロの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた教会なのです。もちろん、パウロがそのことについてどれほど感謝していたか知れません。しかし、その感謝以上にパウロが伝えたかったことがあるのです。かつての支援にしても、今回エパフロディトが携えてきた贈り物にしても、これからの援助にしても、それが神の御前においてどのような出来事なのか、ということです。

 彼はこう続けるのです。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。前半は文字通りには「贈り物を求めているのではない」という言葉です。

 人間と人間との関係でしか見なければ、ここで起こっているのは、パウロの必要をフィリピの教会が満たしているという出来事です。およそ援助とか支援とはそういうものです。教会でしばしば行われる支援募金など、まさにそのようなものでしょう。あるいは見方を広げて、会堂建築献金についても同じことが言い得るかもしれません。これだけの必要があります。だから私たちはその必要を満たしましょう、と。あるいは教会において私たちが通常献げている献金についても同じことは言い得るかもしれません。これが一年間の予算です。これだけの必要があります。だからそれを満たすために私たちの財を差し出しましょう、と。確かに教会で起こっていることは、そのような出来事として見ることができます。

 しかし、パウロはそうは見ていないのです。彼は「贈り物を求めているのではない」と言うのです。「必要」という観点からだけで話をするならば、「必要はない」と言い切ってしまうのです。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」(18節)と。

 もちろん、パウロは獄中にいるのですから、様々な必要はあったに違いないのです。しかし、パウロは満ち足りていると言うことができる。なぜなら、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっているからです。だから「必要」という観点から言うならば必要ない。では何を求めているのか。それは「あなたがたの益となる豊かな実」だと彼は言うのです。

 フィリピの教会の人々は、確かにパウロの必要を満たすために贈り物をエパフロディトに託したのかもしれません。しかし、それを受け取ったのは、実はパウロではありませんでした。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と彼は言うのです。そうです、彼らは神様に献げたのであり、神様が受け取ってくださったのです。

 そして、神様が受け取ってくださったのなら、本当の意味で豊かになるのは献げた彼ら自身であることをパウロは良く知っているのです。それはとてつもなく豊かな神様との関わりにおけることだからです。それは「あなたがたの益となる豊かな実」となるということをパウロは知っているのです。なぜなら、パウロは経験からこう断言することができるからです。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。献げる彼らは欠けるのではなく、主によって満たされるのです。

 だからこそ、パウロはこう言っていたのでした。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」と。そこには必要としている人間と必要を満たす人間だけがいるのではありません。そこには主が共におられる。強めてくださる御方がおられ、満たしてくださる御方がおられる。教会における出来事はすべて主との関わりにおける出来事です。与えることも、仕えることも、全てそれは主との関わりにおける出来事です。それゆえに、そこには人間が人間に与える喜びだけがあるのではなく、天からの喜び、主における喜びがあるのです。

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