日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章60節~71節
実にひどい話だ!
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。弟子たちの多くの者はイエス様の話を聞いてこう言いました。ただイエス様の教えが理解不能であるということではありません。それは受け容れ難かったのです。なぜでしょうか。
そもそも事の発端はイエス様のなさった奇跡でした。この章の初めに書かれています。五つのパンと二匹の魚をもって男だけを数えても五千人という大群衆を満腹させたという話です。この出来事が弟子たちを熱狂させたことは間違いないでしょう。
既に奇跡を行う力を持っているイエス様を王にしようとする動きさえありました。それはローマ人の支配からの解放を求めてのことでしょうし、安定した新しい生活を求めてのことでもあったでしょう。そこまで考えていなくても、イエス様と共にいるかぎりもはや貧しさや惨めさや病気と決別できると考えていた人も少なくなかったに違いありません。そのような人々がカファルナウムまで追いかけてきたのです。
ところが興奮さめやらぬ人々にイエス様が語られた言葉はこうでした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(26‐27節)。そして、そこから一連の話が始まるのです。まさに弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言わざるを得なかった話が始まるのです。
その話の中心は「わたしは天から降って来たパンである」というイエス様の主張でした。しかも、それはかつてイスラエルの先祖が荒野で食べたマンナのような一時的な飢えをしのぐものではなく、永遠の命を与えるパンであると言い始めたのです。イエス様は言われました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。
そして、その言葉はさらに過激さを増していきます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53‐54節)とまで言い始めるのです。
このような言葉を聞かされたらつまずいても不思議ではありません。しかし、彼らがつまずいたのは、先にも申しましたように単に理解不能だったからではないのです。その言葉は受け容れがたかったのです。なぜなら、それは彼らが求め、期待してきたこととは異なっていたからです。
もしイエス様が「わたしは天から降ってきたパンだ」などと言わずに、「わたしは奇跡によってパンを出してあげよう」と言ったなら彼らはつまずかなかったのです。もしイエス様が「わたしの肉を食べ、血を飲め」なんて言わずに、「わたしが肉と飲み物を与えるから食べて飲みなさい」と言ったなら、彼らはつまずくことはなかったのです。
もしイエス様が「終わりの日に復活させる」なんて言わずに、「すぐにでもあなた方をローマ人の手から救ってあげよう」と言ったなら、誰もつまずくことはなかったのです。しかし、イエス様はあくまでも永遠の命について語られるのです。永遠なる神との交わりによって与えられるまことの命について語られるのです。だからつまずかざるを得ないのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。
肉は何の役にも立たない
イエス様は弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」(61‐62節)。イエス様の言葉は途中で終わっています。なんと続けたかったのでしょうか。恐らくは「なおさらつまずくことになるだろう」と言いたかったのでしょう。なぜなら事実、その先にはもっと大きなつまずきが待っているからです。イエス様が十字架にかけられる姿です。「人の子がもといた所に上るのを見るならば」というのは天に帰るということです。しかし、この福音書においては十字架にかけられて死ぬことを指しているのです。もし、目の前の助けや必要の満たしだけを求めてついていくならば、そこで大きくつまずかざるを得ないでしょう。
それゆえに、主はさらにこう続けられたのでした。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。主はあくまでも「命」すなわち「永遠の命」について語られるのです。「命を与えるのは“霊”である」と。その「命」は目に見えない永遠なる神の霊のお働きとして与えられるのです。
それに対して、目に見えるこの世界に属するものをイエス様は「肉」と呼ばれるのです。朽ちていくこの地上のもの、イエス様が先に「朽ちるパン」と呼ばれたもの、人々がひたすら追い求めているもの、それが「肉」です。群衆は「肉」を求めてはるばるカファルナウムまでイエス様を追いかけてきたのです。しかし、人々は「肉」を求めるけれど、「肉」は本当の意味で命を与えることはないのです。いや、「肉は何の役にも立たない」とまでイエス様は言い切られるのです。
どんな思いで主はこれを語られたのでしょうか。考えて見てください。イエス様の周りには常に飢えた人、病気の人、見捨てられた人、抑圧された人、様々な問題に押しつぶされそうになっている人たちがたくさんいたはずです。それらの人々の苦しみがイエス様には分からなかったはずはありません。どんなにお腹いっぱい食べたいか、どれほど健康になりたいか、どれほど安定した生活を欲しているか、イエス様には痛いほど分かっていたはずです。人間に肉なるものがどれほど必要であるか、この世が提供するものがどれほど必要であるか、そんなことは重々分かっておられるはずなのです。
そのイエス様が敢えて「肉は何の役にも立たない」と言われたのです。それは「命を与えるのは“霊”である」ということをどうしても伝えたかったからでしょう。それほどまでに永遠なる神に思いを向けて欲しかった、それほどまでに永遠の命を与えたいと思っておられたからでしょう。人がたとえ代わりにすべてを失ったとしても、なおその人を生かす命。最終的には肉体の生命を失ったとしてもその人を生かす命。何ものによっても奪われることのない命――永遠の命を主はどれほど与えたいと願っておられたことでしょうか。
そのために主は十字架への道を歩むことさえ厭わなかったのです。そのために主は御自分の全てを与えるつもりでいたのです。自分自身を天から降ってきたパンとして与えるつもりでいたのです。わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい、と言って、自分を差し出すつもりでいたのです。
あなたがたも離れて行きたいか
しかし、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と聖書は伝えます。ここまでイエス様を信じて従ってきたはずの「弟子たちの多くが」離れて行ったのです。
このことは深い痛みをもって書き記されたに違いありません。というのも、ヨハネによる福音書が書かれた頃もまた、多くの弟子たちが教会から離れて行った時代だったからです。特に、この福音書の主たる読者であったユダヤ人キリスト者にとってはそうでした。福音書が書かれた紀元1世紀も終わり頃、「イエスは主である」と告白する者は会堂から追い出されることになったのです。村八分になれば生活そのものが困難になります。そこで多くの弟子たちが教会から離れて行ったのです。
迫害と困窮の中に置かれるならば、そこで何を求めているのか、何を求めてきたのかが必然的に問われることになるのでしょう。そのような中で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」というような主の言葉はどのように聞こえたのでしょうか。その主の言葉に対して、「今は目の前の現実が大事なんだ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言う人は、もはやイエス様のもとに留まることはできなかったに違いない。イエス様から離れ去った多くの弟子たちの話は当時の教会にとっては他人事ではなかったのです。
しかし、そのような時代であったからこそ、あの十二弟子に語られたイエス様の言葉もまた強く迫ってきたことでしょう。弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、イエス様は十二弟子にこう言われたのです。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。
これは「あなたがたも離れて行きたいか。もしそうならば去ってもいいのだよ」という意味ではありません。そうではなく、「あなたがたも離れて行きたいか。いやあなたがたは決して去ることはないだろう」という意味合いの表現が用いられているのです。「あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼をもってイエス様は語っておられるのです。
その言葉に対して、シモン・ペトロは、先のイエス様の言葉を全面的に受け入れて、こう答えるのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。どれだけ分かって言っていたのかは分かりません。しかし、彼はただ肉なるものを求めてイエス様のもとにいるのではなかったことは明らかです。
私たちは何と応えるでしょうか。主はここにいる私たちにも「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して御言葉を語っていてくださいます。永遠の命の御言葉を語っていてくださるのです。私たちもまたペトロの言葉を私たち自身の言葉としたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と。「肉は何の役にも立たない」と主は言われました。実際、私たちの人生においても、最終的にはその事実が明らかになります。肉が役に立たない、必要とされなくなる時が来るのです。すべての肉なるものが役に立たないものとして取り去られる時まで、命を与えるのは“霊”であると信じて、御言葉を聴き続ける者でありたいと思うのです。