2016年1月17日日曜日

「メシアに出会った人々」

2016年1月17日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章35節~42節


何を求めているのか
 「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った」(35‐36節)。今日の福音書朗読はこのような言葉から始まります。

 「見よ、神の小羊だ」という言葉を二人の弟子がどのように理解していたかはわかりません。しかし、明らかに彼らは従うべき方を指し示す言葉としてこれを聞いたようです。話はこのように続きます。「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」(37節)。

 もともと彼らはヨハネの弟子であったわけですが、なぜヨハネの弟子となったのかその理由を私たちは知りません。彼らがヨハネの弟子となった経緯も知りません。ただ知っているのは洗礼者ヨハネが当時の社会において大きな影響力を持っていたということです。

 他の福音書は次のように伝えています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:4‐5)。

 エルサレムの当局者たちもこの運動を無視することはできなかったのでしょう。いや、脅威すら感じていたのかもしれません。彼らがエルサレムから調査団を派遣せざるを得なかった様子がヨハネによる福音書にも記されています。

 そのような影響力ある人物に、ある時からこの二人は従い始め、ヨハネの弟子となりました。その直接的な理由は分かりませんが、少なくともそこには何らかの求めがあったでしょうし、何らかの期待があったはずです。

 しかし、彼らが期待をかけて従っていた当のヨハネは自分ではなく他の人物を指し示していたのです。先週読まれた箇所にもこう書かれていました。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(29‐30節)。

 今日読まれたのは、そのまた翌日の出来事です。そこで二人は再びイエスを指し示す洗礼者ヨハネの言葉を聞くことになりました。「見よ、神の小羊だ」と。彼らは意を決してその方に従い始めます。洗礼者ヨハネの弟子からイエスの弟子へ。それは大きな決断であったに違いありません。

 しかし、彼らが洗礼者ヨハネではなくイエスに従い始めるとするならば、そこで改めて問われることになるでしょう。――それは何を求めてのことなのか。何を期待してのことなのか。実際、彼らはイエス御自身から問われることになりました。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた」(38節)。これがヨハネによる福音書に記されているイエス様の第一声です。

 私たちもまた、他の誰かではなく、他の何かでもなく、イエス様について行こうとしています。私たちが今、教会にいるということはそういうことでしょう。主の日にイエスの御名によって集まって礼拝を捧げているとはそういうことでしょう。その私たちにイエス様が振り返って「何を求めているのか」と問われたら、あなたなら何と答えるでしょうか。

 この福音書が書かれた頃の人々にとっても、この問いは大きな意味をもっていたはずです。というのも、その頃、キリスト教会はある一つの危機を迎えていたからです。それまでキリスト教会はユダヤ教の一派として認識されていました。「ナザレ派」などと呼ばれていました。しかし、紀元一世紀も終わり近くにさしかかった頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。イエスがメシアであると公に言い表す者は、会堂から追放されることになりました。ユダヤ人から迫害の対象となることが確実になっただけではありません。ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象にもなり得ることを意味していました。

 そのような試練の中で、この福音書は書かれ、読まれたのです。その時、そこで最初に聞くイエス様の言葉は、「何を求めているのか」でした。他の誰かではなく、他の何かでもなく、イエス様に従っていくとするならば、困難に直面しても、それでもなおこの御方に従うとするならば、改めて問われことになるでしょう。「何を求めているのか」。そこで求めているものが命よりも大事ならば、命の危機にさらされてもイエス様に従っていくことになるのでしょう。そうでなければ、イエスのもとから去ることになるでしょう。「何を求めているのか」――私たちは何と答えるでしょうか。

来なさい。そして、見なさい
 さて、「何を求めているのか」というイエス様の問いから始まるやり取りを、福音書は次のように伝えています。「彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(38‐39節)。

 表面的に見るならば、たいした会話でもたいした出来事でもありません。イエス様がどこに宿泊しているのかを聞いた。イエス様は、「来たら分かるよ」と言った。彼らはついていって宿泊している場所を見た。そして自分たちも泊まることになった。それだけの話です。「何を求めているのか」という問いに対しては、答えたとも言えるし、それこそ表面的にしか答えていないと言えます。

 しかし、もう一方において、この他愛の無いやり取りから始まる弟子たちとイエス様との物語そのものが、「何を求めているのか」という主の問いに対する答えであったとも言えるのです。事実、今日の箇所には、この物語全体にわたって現れるキーワードが繰り返されています。それは「泊まる」という言葉です。他のところでは「留まる」あるいは「つながる」と訳されている言葉です。例えば15章のぶどうの木のたとえで、「わたしにつながっていなさい」と主は言われるところに繰り返されているのがこの言葉です。そのように「留まる」という言葉は後々まで大きな意味をもって繰り返し現れます。その意味で今日お読みしたやり取りは事の発端に過ぎないのです。

 彼らは尋ねました。「どこに泊まっておられるのですか。あなたはどこに留まっておられるのですか」。さて、イエス様はどこに留まっておられるのでしょう。イエス様は言われました。「来なさい。そうすれば分かる」と。原文では「来なさい。そうすれば見るだろう」となります。「来なさい、そして、見なさい」とする写本もあります。意味としては同じです。

 「来なさい」。だから彼らはついて行きました。その日だけではありません。この福音書を読みますと、彼らはついて行って、ついには約三年半もの間、イエス様と生活を共にすることになるのです。そして、さらについて行って、ついにイエス様は捕らえられて十字架にかけられて殺されることになる。さらにその三日後、復活されたイエス様が彼らの中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われるのを見ることになる。「来なさい。見なさい」と主は言われました。これらすべてを通して、彼らはいったい何を見たのでしょう。

 彼らは、イエス様がどこに留まっているのかを確かに見たのです。彼らはついて行って、見たのです。イエス様はどこに留まっているのか。どこに?――父の愛の中に。父なる神との愛に満ちた交わりの中にです。彼らはいつでも父なる神の愛の中あり、決して失われることのない交わりの中にあるイエス様を見たのでした。父の名を呼び、父を愛し、父に信頼し、父の御心ならば十字架にさえ向かうその姿。そこに親子の揺るぎない交わりを見たのです。さらに復活したキリストの姿の中に、もはや何ものも奪うことのできない、死さえも奪うことのできない父との交わりを見たのです。彼らは永遠の命を見たのです。

 そして、イエス様についていった彼ら自身はどうなったのでしょうか。イエス様がおられるところに、父なる神との交わりに、父なる神の愛の中に、彼らもまた留まる者となりました。あの日、あの最初の日に、イエス様と一緒に泊まったように。それが本当の意味で現実となったのです。 あの最後の晩餐において、イエス様は彼らにこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:2‐3)。そうです、イエス様がいるところに、彼らもまたいることになりました。永遠に!

 そして、そのことが実現するために、イエス様はヨハネが言ったとおり、「神の小羊」すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」ともなられたのです。アンデレはあの翌日、言いました。「わたしたちはメシアに出会った!」そのメシアは、洗礼者ヨハネが最初に言ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」に他なりませんでした。それは彼らもまた父の愛の中に留まるためでした。

 罪のないイエス様が父なる神との愛の交わりの中に留まれることは、ある意味で当然のことです。しかし、罪人である私たちが、なおも神を父と呼び、父の愛の内に留まることができるとするならば、それは決して当たり前のことではありません。特別な恵みによるのです。私たちの罪が赦され、罪の負い目が取り除かれてこそ、私たちはイエス様のいるところにイエス様と共に留まることができるのです。だからこそ、イエス様は父なる神との交わりを見せてくださっただけでなく、自ら「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちの罪を贖う犠牲となってくださったのです。私たちに見せてくださったものを私たちに与えるためです。
神との永遠の交わり、永遠の命です。

 主は問われます、「何を求めているのか」。

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