2016年1月10日日曜日

「世の罪を取り除く神の小羊」

2016年1月10日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節


聖霊によって洗礼を授ける方
 今日は教会の暦によりますとイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日です。その出来事は、マルコによる福音書においては次のように記されています。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:9‐11)。

 ヨハネによる福音書には、イエス様が洗礼を受けられた場面そのものは出てきません。その代わりに、「わたしは見た」という洗礼者ヨハネの証言が記されています。「そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た』」(32節)。これによると、イエス様に見えただけでなく、一番近くにいたヨハネにも見えたようです。

 しかし、重要なのは不思議な出来事を目撃したということではありません。ヨハネはそれを見たことによって、イエスという御方がどのような方かをはっきりと知ったのです。ヨハネはこう言っています。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(33‐34節)。

 「この方こそ聖霊によって洗礼を授ける人である!」それがヨハネの確信でした。イエス様は「あなたはわたしの愛する子」という言葉と共に聖霊を受けました。そして、イエス様は神の愛する子として、今度は私たちに聖霊を与えてくださるのです。「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を与えてくださるのです。聖霊によって新しく生まれさせ、神の子としてくださるのです。

 私たちは水を用いて洗礼を授けますが、人を新しく生まれさせるのは水そのものではありません。それは聖霊によるのです。「この方こそ聖霊によって洗礼を授ける人である」。それがヨハネの確信であり、それゆえに彼は「この方こそ神の子である」と証ししたのです。

 さて、そのようにイエス様について証ししていたヨハネが、ある時、自分の方へイエス様が来られるのを目にします。そのとき、ヨハネはイエス様を指してこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)。今日の説教題はここから取りました。ヨハネは何を思ってそう言ったのか。それを知るためには、千二百年ほど時代を遡らなくてはなりません。

過越の小羊
 紀元前13世紀のエジプト。イスラエルの民はエジプト人に追い使われていた奴隷でした。その奴隷の民がモーセに率いられてエジプトを脱出する物語が旧約聖書の「出エジプト記」に記されています。神がエジプトに災いを下し、イスラエルを解放するという話です。

 イスラエルとエジプト。弱い者と強い者。支配される側と支配する側。さて、このような構造の物語を読みますと、私たちはともすると単純にこれを善と悪の対立に置き換えてしまうものです。イスラエルは善、エジプトは悪。イスラエルは神に従う者、エジプトは神に逆らう者。するとこの物語は、悪なるエジプトを神が撃って善なるイスラエルを救われたという話になります。

 しかし、聖書にはイスラエルが善であるから救われた、イスラエルはエジプト人に支配されていたけれども正しい人々だったから救われたなどということは一言も書かれておりません。、エジプトの偶像ではなく主に従う人々だったから主によって救われたのでもありません。聖書はエジプト人に抑圧されていたイスラエルの民についてなんと言っているか。神は後に預言者エゼキエルを通してこう語っています。

 「その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかった」(エゼキエル20:5‐8)。

 つまり抑圧する側のエジプト人が神に逆らう者たちだったとするならば、抑圧される側のイスラエルの民もまた神に逆らう者たちだったということです。つまり出エジプトの話は、イスラエルの民が救われるにふさわしいから救われたという話ではないのです。救われるにふさわしくないにもかかわらず救われたという物語なのです。

 それゆえに、彼らがエジプトから脱出する時が来たとき、神はただ単純にエジプトを裁いてイスラエルの民を導き出すということはなさらなかったのです。神はモーセを通してとても不思議なことを求められました。モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せて彼らにこう命じたのです。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」(出エジプト記12:21‐23)。

 確かに主はエジプトの罪を裁かれます。エジプト人を撃つために巡られるというのです。それはエジプト人にとっての危機でしょう。しかし、それはまたイスラエルの民にとっての危機でもあるのです。神がエジプト全土を正しく裁かれるなら、そこでイスラエルの民だけが裁きを免れる根拠は、もともとどこにもないからです。先にも言いましたように、イスラエルの民はエジプト人に比べてなんら正しい人々ではなかったのです。

 ならば、救いを求める彼らが救われるとするならば、それは神の特別な憐れみと赦しによるのです。そうです、救いを求める者には、神の赦しが必要なのです。その人が救いを当然の報いとして主張できる正しい人でない限り、神の赦しが必要なのです。それゆえ、神はモーセを通して、神の憐れみと赦しの内に留まる道を示されたのです。

 先ほど読みましたように、主が求められたのは、極めて単純なことでした。過越の犠牲である小羊を屠り、その血を鴨居と入口の二本の柱に塗ることでした。そして、その家に信じて留まることです。その時に、神の裁きは「イスラエルの民を見て」過ぎ越すのではありません。血を見て過ぎ越すのです。「血を御覧になって」と書かれているのです。それは彼らが赦され救われるために、彼らのために屠られた小羊の血だからです。彼らが救われるとするならば、それはひとえに彼らのために屠られた小羊、あがないの小羊の血によるのです。

屠られた小羊なるキリスト
 過越の羊が屠られたこの出来事を記念して、毎年過越祭が行われてきました。そう、あの時もまた、過越祭が近づいていた頃でした(2:13)。ヨハネは自分の方に来られるイエス様を指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。ヨハネは屠られるためにこの世に来られた小羊を見たのです。あの時、イスラエルの人たちが神の憐れみと赦しとを受けて救われるために、彼らのために小羊が屠られて血を流したように、この世において私たちの救いのために屠られ血を流して死んでいく小羊をヨハネは見たのです。

 そして、やがてイエス様は屠られて血を流して死んでいく小羊のように、十字架の上で血を流して死ぬことになります。そして、それはちょうど過越の小羊が屠られる過越祭の準備の日(19:14)であったとヨハネによる福音書は伝えているのです。

 イエス様は私たちの救いのために屠られた小羊です。私たちの救いはこの御方の血によるのです。そして、最初に触れたことに戻りますが、ヨハネはこの「世の罪を取り除く神の小羊」こそがまた、聖霊によって洗礼を授ける御方だと証ししているのです。

 イエス様が「あなたはわたしの愛する子」という言葉と共に聖霊を受けたように、今度は私たちが聖霊を受けるとするならば、それは私たちが正しいからではありません。私たちが、新しく生まれて神の子どもたちとして生きることができるとするならば、それは私たちが神の子どもとなるにふさわしいからではありません。私たちが御子の霊を受けて「アッバ、父よ」と祈ることができるとするならば、私たちにその資格があるからではありません。すべてはその御方が「世の罪を取り除く神の小羊」であるからです。その流された血によるのです。

 イエス様が十字架にかかって血を流してくださったのは、ただ私たちの罪が赦されるためではありません。私たちが最終的な裁きを免れるためではありません。それは私たちが聖霊によってバプテスマを授けられるためです。聖霊によって新しく生まれ、神の子どもたちとして生き、神の国を受け継ぐためです。私たちが神の子どもたちとしての生活を既に与えられているのは、イエス・キリストの流された血によるのです。

 私たちが十字架ではなく、自分自身を根拠としてこれを受けたのなら、いつまでもふさわしくな自分自身を見つめて「わたしなどふさわしくない」と言い続けなくてはならないでしょう。しかし、そうではないのです。すべてはイエス・キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」であるゆえなのです。その流された血によるのです。

 それゆえに私たちは安心して天の父を呼び、神の子どもたちとして生きたらよいのです。私たちが聖霊を与えられ、聖霊によって新たに生まれさせていただいたということがどういうことなのか、また神の子どもたちとしてこの世界に遣わされ、生かされているということがどういうことなのか、私たちはまだまだ十分に知っているとは言えないでしょう。共に天の父を呼び、共に祈りつつ、既に与えられているとてつもなく豊かな恵みを味わい知る者となることを求めていきたいと思います。

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