2016年12月25日日曜日

「闇の中に輝く光」

2016年12月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章1節~14節

光は輝いている
 「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

 すべての人を照らす光が世に来たというのです。その光が既に輝いている。ならばもう真っ暗闇ではありません。そこに光が来て、光が既に輝いている。ならば、もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。

 イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。さらに昨夜のクリスマス・イヴ礼拝においては、キリスト誕生の物語を伝える聖書の言葉が朗読されました。

 ところがこのヨハネによる福音書には、クリスマスの物語がありません。天使ガブリエルもヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。

 たったこれだけ。そうとも言えます。しかし、この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが含まれているとも言えます。なぜこの御方が暗闇を照らす光なのか。なぜこの御方が今も輝いている光なのか。なぜ2016年の今日においてもなおクリスマスが祝われ、光が輝いていることが祝われているのか。今日はこの短い言葉を味わいながら、そのことについて思い巡らしたいと思います。

初めに言があった
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはこの世に来られる前のキリストです。この世に来られる前のキリストについては冒頭に次のように語られていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1‐2節)。

 そのように、この世に来られる前のキリストが「言」と呼ばれています。このことについては、多くの事が語られ得ますが、ここでは一つのことだけに触れたいと思います。それはヘブライ語において、「言葉」という単語は同時に「行為」や「出来事」をも意味する、ということです。

 それはある意味では、極めて現実的な物の見方であると言えるかもしれません。というのも、私たちは現実に口から発せられた言葉が良きにせよ悪しきにせよ、何かを行うということを体験的に知っているからです。一度口から出してしまったらもう手遅れで、その言葉が次々と事を引き起こしてしまうということがあるでしょう。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあるのです。

 そのような意味合いにおいて、キリストは「言」であると語られているのです。すなわち、イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上に生きられたということは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり、神による出来事なのだ、ということです。

言は肉となって
 その神による出来事を、聖書はさらに「言は肉となって」と表現しています。「肉となった」とは「人間となった」ということです。確かにキリストは私たちと全く変わらぬ人間として産まれました。私たちと同じ人間として生きられました。その意味で言は肉となりました。

 しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と語るのです。「肉となった」とは実に強烈な表現です。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。しかし、そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。

 私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を正直に見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることができなくなります。

 私たちは繰り返し、人間であることは悲しいことだと思い知らされます。人間として生きていることは醜いことだと思い知らされます。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。

 それはあたかも深い穴の底でもがいているようなものです。穴から這い上がれば良いことは分かります。泥水の中に沈んでいてはならないことも分かります。壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、手をかけても、足をかけても、すぐにまた泥水の中に落ちてしまう。穴の外までよじ登ることができない。私たちが「肉」であるとはそういうことです。

 しかし、そこで聖書は言うのです。「言は肉となった」と。「言」である方は、いわばその深い穴の中に自ら降りてきてくださったのです。穴の外から「上がってきなさい」と叫んでいるのではなく、自ら穴の中に飛び込んできてくださったのです。そして、穴の底で泥だらけになっている私たちと一緒に、泥だらけになってくださったのです。そのように「言は肉となった」のです。

 さらに言うならば、それはただ単に「肉」であることの悲しみや苦しみを私たちと共有してくださったというだけではありません。それだけならば、イエス様は人間としてこの地上を生きるだけで良かったのです。しかし、福音書はイエス・キリストの御生涯のほとんどの部分に関して沈黙しています。むしろその大きな部分を、最後の一週間を伝えるために割いているのです。キリストは十字架にかけられて死なれたのです。言が「肉」となったのは十字架の上で死ぬためだったのです。

 それは私たち「肉」である者すべての罪を代わりにその身に負うためでした。「肉」である私たちの罪が赦され、神と共に生きる者となるためでした。そうです、私たちが神と共に生きるようになるためでした。

 私たちがそのことを望んだからではありません。神がそのことを望んでくださった。第二朗読において語られていたように、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。そして、自ら語り、行動してくださったのです。神が私たちを愛して、神が肉なる私たちの方に手を差し伸べてくださったのです。「言は肉となった」。それこそがまさに暗闇の中にいる私たちにとって、光の到来なのです。まことの光は人間からは来ない。それは神から来て、既に暗闇の中で輝いているのです。

わたしたちの間に宿られた
 しかし、言は肉となって「わたしたちの間に宿られた」と語られていることに私たちは耳を傾けなくてはなりません。

 「宿られた」というのは「テントを張って住む」という意味の言葉です。「言」は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。「テントを張って住む」のは寄留者の姿です。それは実につつましやかな宿りです。

 そのように人々が見た最初の姿は、汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ん坊でした。人々が見た最後の姿は、むち打たれ、嘲られ、ぼろぼろにされて十字架にかけられて死んでいく惨めな男の姿でした。それはまことに寄留者の姿でした。

 ですからそのように宿られた「言」を人間は受け入れることもできれば、拒否することもできるのです。「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)と書かれている通りです。

 「言は肉となった」。神が私たちを愛して、語られ、行動されました。しかし、それがたとえ神の全き愛から出た行為であり出来事であっても、神は人間に無理強いしようとはなさいません。受け入れるか拒否するかを人間に委ねられるのです。そうです、神は強制なさらない。神との交わりは、命の交わりは力ずくの強制によっては生み出されないからです。交わりとはそういうものでしょう。


 「光は暗闇の中に輝いている」(5節)。「輝いていた」――ではありません。闇が今もってなお闇であるように、その中に輝く光も変わることなく輝いているのです。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれ、今もなお洗礼が授けられ、聖餐が行われているとはそういうことです。そして、神は今もなお全ての人が「言」である方を受け入れ、神と共に生きることを、光の中を生きることを望んでいてくださるのです。「光は暗闇の中に輝いている」とはそういうことです。

2016年12月18日日曜日

「神は私たちと共におられる」

2016年12月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章18節~23節

 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と書かれていました。ルカによる福音書では、天使がマリアに現れて、身ごもっていることを伝えたという話が出て来ます。いわゆる「処女降誕」と呼ばれる出来事です。そこには人間の詮索の及ばない、神の領域があります。しかし、私たちがこの物語を読みますとき、マタイによる福音書はこの出来事の不思議さを殊更に強調してはいないことに気づきます。事の重大さを考えますと、語り口は驚くほど控えめです。

 むしろ、不釣り合いなぐらいに強調されていることがあります。それは生まれてくる子供の「名前」についてです。この物語において重要なのは、不思議な誕生の仕方ではなくて名前であり呼び名なのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

その名はインマヌエルと呼ばれる
 来週、私たちはクリスマスを迎えます。クリスマスにおいて祝うのは、今日の聖書箇所によるならば、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生です。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。

 さて、皆さんはこの言葉をどのように聞かれますでしょうか。今日の説教題は「神は私たちと共におられる」です。一週間外に貼り出されていたこの説教題を見て不愉快になった人は恐らくいないだろうと思います。多くの人は、神が共にいてくださることを喜ばしいこと、嬉しいこととして受け止めてくださるからです。

 しかし、まず私たちはここで改めて考えたいと思うのです。神が共におられるということは、本当に喜ばしいことなのでしょうか。嬉しいことなのでしょうか。この問いは次のように言い換えることができかも知れません。「神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。」

 新共同訳聖書では、23節には鍵かっこがついています。これは旧約聖書の引用です。預言者イザヤがユダ王国のアハズ王に語った言葉です。時代はイエス・キリストの誕生からさらに730年ほど前に遡ります。

 その時、ユダ王国は国家的危機に直面していました。アラムと北王国イスラエルが連合して攻めてきたのです。その時の様子を聖書はこう伝えています。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:1‐2)。

 不安と恐れに襲われて、森の木々が風に揺れ動くように動揺するということは、私たちもしばしば経験することでしょう。そのとき、私たちは何を考えるでしょうか。「さあ、どうしたらよいだろうか」と考えるに違いありません。しかし、神は預言者イザヤを通してアハズ王にこう語られたのでした。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)。

 そして、さらにこう言われます。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(7:9)つまり、神を真実なる確かなお方として信頼しなければ、あなたがたは決してしっかりと立つことはできない、と言われたのです。問題は敵の襲来ではなくて、確かになっていない足下であることを示されたのです。それゆえに、神は「何をすべきか」を考える前に、まず神に信頼することを求められたのです。

 そして、さらに神はアハズに言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」神がまことに信頼すべき神であるという「しるし」を求めて良いと言われたのです。しかし、アハズはこう答えたのでした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(7:12)。

 大変敬虔な答えに聞こえます。しかし、実のところはそうではありません。アハズ王は、しるしを見せられても神に信頼して従う気などないのです。彼は、アッシリアという大国の力によって、この国難を乗り切ろうと考えていたのです。要するに、彼の心の内にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だなどと言ってられるか!」ということなのです。

 神様は敬虔な装いの下にあるものをご覧になっておられます。その目をごまかすことはできません。そこで語られたのが、マタイに引用されていた預言の言葉なのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。

 このように「神は我々と共におられる」という意味の「インマヌエル」という言葉は、もともとの預言においては、それほど喜ばしい響きを持っていないのです。それは先を読むと分かります。17節にはこう書かれています。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(7:17)。

 つまり、「男の子が生まれる。その名をインマヌエルと呼ぶ」というのは、もともとはアハズにとっては裁きの預言に他ならなかったのです。その不信仰も不従順もすべてお見通しの神が共におられるということですから。神は確かに共におられる。だから不信仰を貫くなら、当面の危機は逃れるかもしれないけれど、最終的に不信仰の実を刈り取ることになる。あなたが頼りにしているアッシリアによって恐るべき日が臨むことになる、とイザヤは語っているのです。

 先ほどの問いに戻ります。神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。私たちの正しさ、とってつけたような敬虔さ、見てくればかりの善良さ――そんなものは神の真実と正しさの前にあってはみんな吹き飛んでしまうようなものに過ぎません。何も神の目から隠れることはありません。私たちに罪がなければ、神が共におられることは救いとなるでしょう。しかし、罪があるならば、神が共におられることは単純に救いとはならないでしょう。むしろそれは災いに他ならないのです。

その子の名はイエス
 しかし、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれる方の誕生を語っているのではありません。この幼子の誕生において、神は幼子の名前を既に定めておられたのです。ヨセフに対してはこう語られています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。

 イエスという名前は、ヘブライ語名のヨシュアに当たります。ヨシュアは「主は救い」という意味の名前です。ですから、イエスと名付けなさいと命じられた後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と説明しているのです。

 「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。「火事から救う」も分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的ではありません。

 しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の神髄に当たるのです。人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。さらに言えば、神が共におられるということが裁きにしかならないという現実、すなわち人間に罪があるという現実こそ、人間の最大の悲惨なのだ、と言っているのです。

 人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは罪の赦しなのです。私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。

 「その子をイエスと名付けなさい。」イエスと名付けられることは、罪からの救い主となることを意味しました。それはすべての人の罪を代わりに背負って自ら裁きを受けることを意味したのです。イエスと名付けられることは、それゆえに、十字架への道を歩み出すことに他なりませんでした。

 そのお方が、「インマヌエルと呼ばれる」と言われているからこそ意味があるのです。罪が赦されて、罪から救われて、初めて神が共におられることは裁きではなくなるのです。罪が赦されて、初めて神が共におられることが、新しい命となり喜びとなり力となり希望となるのです。

 このイエスと名付けられた方の到来によって、かつては裁きの言葉に他ならなかった「インマヌエル」が、救いの言葉となりました。私たちは喜びと感謝とをもって、「神は我々と共におられる」と告白し、罪からの救い主であられるイエス・キリストの誕生を、心から共に祝いたいと思うのです。クリスマスの祝いが近づいてきました。

2016年12月11日日曜日

「喜びと平和がここに」

2016年12月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 4章4節~7節

 アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される四本のキャンドルの内、第三番目のものは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。今日は御一緒に「喜び」について語っている聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

喜びなさい
 先ほど、フィリピの信徒への手紙4章4節以下が読まれました。この手紙には「喜び」という言葉が多く見られますので、しばしば「喜びの手紙」などと呼ばれます。ここにも「喜び」という言葉が繰り返されております。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)と。

 しかし、考えてみると、「喜びなさい」という命令文は私たちの日常ではそう使うものではありません。というのも「喜び」というのは感情であって、感情というものは命じられたからといって簡単にコントロールできるものではないことを知っているからです。ですから人に「喜びなさい」とは言わないし、人から言われても困ります。

 とはいえ、「喜びなさい」「喜べ」という命令文が使われる場面がないわけではありません。例えば、人が山で遭難して死にそうになっている時を考えてみてください。遠くからかすかに捜索隊の呼び声が聞こえてきました。ライトの光も見えてきました。その時、一人が一番弱っているもう一人に言うでしょう。「喜べ。助かったぞ!」これなら分かります。

 もちろん、そこには「喜べ」と言われても喜べない理由は山ほどあるに違いありません。滑落して脚を折っていたら痛いでしょう。死ぬほど空腹かもしれません。何時間も寒さに苦しんできたのかもしれません。しかし、それでもなお捜索隊の声が聞こえたという、喜ぶべき決定的な理由があります。その理由がある時に、言うことができるのです。「喜びなさい」「喜べ」と。

 遭難した人ではありませんが、この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、喜べない理由はいくらでもあったはずです。教会には分裂と仲違いがありました。教会内部の問題だけではありません。外からの迫害もありました。パウロはこの時、獄中にいるのです。思えば福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。喜べない理由を挙げるなら、それこそ数限りなくあったはずです。しかし、そのパウロが言うのです。「喜びなさい」と。

 そこには喜ぶべき決定的な理由があるからです。そうでなければ「喜びなさい」という言葉は意味をなしません。その決定的な理由とは何か。パウロはそれを「主において」という言葉をもって表現しています。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」と訳されています。それが理由です。

 信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストは、私たちを愛し、御自身を献げてくださった御方です。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださった御方です。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として生きることができるのです。

 その「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。どのような状況に置かれても変わらないのです。パウロのように投獄されても変わらないのです。さらに言うならば、死んでも変わらないのです。迫害いよって命を奪われても変わらないのです。パウロは別の手紙で言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と。

 そのように決定的な理由があるのです。それは変わらないのです。だからパウロは「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わらざる理由があるからです。そうです、私たちはどんな時にも、どんな場合においても、喜ぶことのできる変わらない理由を持っているのです。
逆に言うならば、喜ぶことができない理由があればあるほど、この「主において」という決定的な理由が大きな意味を持つことになるのです。

広い心が知られるように
 そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。

 それはある意味では当然のことでしょう。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのでしょう。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのでしょう。主の寛容が喜びの源なら、その喜びは寛容を生み出すのでしょう。

 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主にあって常に喜びなさい。その喜びをもって人々の中で生きていきなさい」ということに他ならないのです。頑張って広い心になろうとすることではなくて、大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主」なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。

 古代教会において合い言葉のように用いられていた言葉がありました。「マラナ・タ」という言葉です。これは「主よ、おいでください」という意味です。それはキリストの再臨を待ち望む祈りです。キリストが再び来られる。そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。

 それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。罪が赦されたということはどういうことであるか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」。

思い煩うのはやめなさい
 それゆえに、さらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語るのです。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。片方だけでは成り立ちません。それゆえに「主は近い」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。

 パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、喜びを奪っていく要因、思い煩いの種は数え切れないほどあったに違いありません。しかし、そこにおいて思い煩わないで生きるために必要なことは、思い煩いの種を必死になって取り除くことではないのです。そうではなく、主にある者として生き、神に祈って生きることなのです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、必ずしも常に感謝の言葉だけをもって祈るということではないでしょう。それは旧約聖書の詩編を読んでも分かります。そこには、神の前で嘆き、泣き、訴える人々がいるのです。

 ですから、ここで語られている「感謝を込めて」というのは、無理をして、表面だけをとり繕って、感謝の言葉を神に捧げるということではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。

 そこで重要になるのが、先ほどから語っています「主において」ということなのです。祈りが「主において」なされるということです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもって献げる祈りであるということです。そのように祈りがなされる時に、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいて献げられる感謝の祈りともなるのです。

 では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

 人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。

 私たちは、一生懸命に自分の身を守り、立場を守り、メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうといたします。しかし、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、心と考えがボロボロの雑巾のようになってしまうのです。私たちは、神の平和によって、心と考えとを守っていただかねばならないのです。そして、それは主に結ばれている者として神に祈るならば、パウロに対してそうであったように、私たちにも与えられることが約束されている神の守りなのです。

2016年12月4日日曜日

「この人は大工の息子ではないか」

2016年12月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章53節~58節

つまずいた人々
 イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。

 人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。

 彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。

 さて、そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいません。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったといえるでしょう。

 そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない彼らの慣れ親しんできた宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなされることを求めることもない、期待することもない宗教的な生活がそこにあったからです。

 そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い共同体を形づくっていたに違いありません。

 そこにイエス様が帰って来られた。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質でした。

 いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエス理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。

 「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれています。

 そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として知られていたに違いありません。

 ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。

 もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、尊敬すべき人、人格的にすぐれた人、偉大な人、立派な人、模範的な人、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。

天の国が近づいたのだから
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。「宣教」とは、ある意味では異質なものを持って来ることに他ならないからです。

 イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。

 「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換える。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。

 神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まります。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるのです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事です。そうです。天から光が差し込んでくるのです。

 そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられました。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。

 そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。

 ならば、そこで今度はこちら側が問われるのでしょう。同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを思いながら、これまでどおりに生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。しかし、その先に本当に救いはあるのですか。

 イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の方向を変えることなのです。

 そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。

2016年11月27日日曜日

「救いは近づいています」

2016年11月27
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節~14節

 教会の暦においては今日から新しい年に入りました。今日からクリスマスに至るまでの期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。

 その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間です。初めにおいて、終わりを思う。言い換えるならば、終わりを思いながら、新たに歩み出す。そのような時であると言えます。その期間を私たちはどう過ごすのか。今日与えられている御言葉に聴きたいと思います。

愛の負債を抱える者として
 本日はローマの信徒への手紙が読まれました。そこで私たちがまず耳にしたのは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)というたいへん不思議な言葉でした。

 「愛する」ということが「借り」すなわち「負債」として語られています。だれに対しても借りがあってはならない。ただし、お互いに他者を「愛する」という「借り」は別です。そのようにパウロは言っているのです。

 「愛する」という借りだけは例外。借りがあってもよい。その負債は残っていてもよい。どうしてでしょうか。「愛する」という借りは返しきれないからです。どうしても残るからなのです。

 この不思議な表現を理解するのに助けになるのは、ヨハネの言葉です。彼は手紙の中でこう書いています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。

 「愛し合うべきです」とヨハネは言います。これは「愛することを負っている」というのが直訳です。「愛する」いう負債がある。借りがあるということです。借りがあるのはどうしてか。「神がこのようにわたしたちを愛されたから」だと言うのです。つまり、私たちは《神様に対して》莫大な愛の借りがあるということです。

 神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくださいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼされて然るべき私たちを愛してくださいました。その直前には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:11)と書かれています。「神がこのようにわたしたちを愛された」とはそういうことです。

 私たちの信仰生活は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神様にお返しして生きていく、そんな恩返しの人生に他なりません。しかし、そのように神様に愛をお返ししようとする時に、神様は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。

 だから、「愛する」という借りは残るのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していくのです。莫大な愛の負債を抱えているお互いが、お互いに愛を少しずつでも返していくのです。それこそが神の求めていることなのです。

 神の求めていること、それを「律法」と言います。今日の箇所には具体的に「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などの十戒の文言が挙げられていますが、要するに「律法」とは神が人間に対して求めておられることです。そして、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と聖書は言っているのです。

 律法を守るから神が愛してくださるのではありません。律法は救いの条件ではありません。先に神が愛してくださったという事実があるのです。莫大な愛の負債が先にあるのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していく。そのことが律法を全うすることになるのです。

 自分が莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、律法を行ったとしても、他者のために何をしたとしても、それは誇りにはならないでしょう。私たちが莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、まわりの人々について「愛がない」と言って裁くこともないでしょう。「わたしにこうしてくれない、ああしてくれない」と言って大騒ぎすることもないでしょう。むしろそこにおいて、愛する機会、愛の負債を返す機会が与えられていることを喜ぶことができるのでしょう。

目覚めるべき時が来ています
 そして、互いに愛し合うという借りがある私たちを、今日の聖書箇所はさらに「終わりに向かう」というコンテキストの中に置くのです。このように続きます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。

 先ほど、アドベントという期間は「終わりを思いながら、新たに歩み出す」という時であると申しました。しかし、そこで重要なのはどのような「終わり」を思うかということです。パウロは何を思っているのか。そこに「救い」を見ているのです。「救い」に向かっている者として語っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 そのことを彼はさらに「夜は更け、日は近づいた」と表現しています。「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはありません。

 後戻りしないという事実は喜びとは結び着かないことが多いのでしょう。もう11月も終わりです。一年はあっという間に過ぎていきます。そうして一つ歳をとります。肉体は弱り、精神も衰えていく。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きていきます。そして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 しかし、彼はただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、ということです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 どうしてそう語り得たのか。莫大な愛の負債者として生きているからです。既に圧倒的な神の愛によって愛されていることを知っているからです。返しきれないほどに愛されていることを知っているからです。だから、たとえ今苦しみの中にあったとしても、大きな悲しみの中にあったとしても、「夜は更けた」としか言いようのない真っ暗闇の中にいたとしても、それが「終わり」ではないことが分かるのです。それが最終的に行き着くとこではないことが分かるのです。これは途中なのだということが分かるのです。夜は明けるのです。刻一刻と夜明けに近づいているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。その「救い」とは神に愛されていたという事実がはっきりと形を取って現される時です。そのような夜明けが必ず来るのです。

 だから、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られているのです。「救い」という「終わり」に向かっていることを忘れて眠りこけてしまっていることがあるからです。まだ夜明けが来ていないからと言って、夜明けに向かっていることを忘れて、眠りこけてしまっていることがあるからです。そのような私たちであるからこそ、「終わりを思いながら、新たに歩み出す」というアドベントの期間も必要なのでしょう。そこで私たちは今年も「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているのです。

 それは、消極的に表現するならば、「闇の行い」を脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているこの時は、莫大な愛の負債者として少しでも愛を互いに返していくための大切な時間です。やがて朝の光の中で愛してくださった御方にまみえる時に備えるための大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。

 その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。

 私たちは朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 それは、積極的には「光の武具を身に着けましょう」と勧められています。さらには「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧められているのです。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と先ほどお読みしましたが、その究極はやはりこの世を生きられたイエス・キリストの御姿なのでしょう。そのキリストを身にまとうということです。

 「身にまとう」という表現は、中身は変わらないで外側だけを変えるような印象を与えるかもしれません。しかし、当時の言葉遣いにおいてこの表現が意味するのは「一体となる」ということです。そのような意味において「主イエス・キリストを身にまとう」ということが何を意味するのかは、愛の負債者として与えられている周りの人々、置かれているそれぞれの状況によって異なることでしょう。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているこのアドベントの期間、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのか深く思い巡らし、救いである終わりを思いつつ、新たに歩み出したいものです。

2016年11月20日日曜日

「怒り続ける必要はありません」

2016年11月20
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 19章11節~16節

迫害の中で読まれた書物
 今日の読まれましたのはヨハネの黙示録です。ヨハネの黙示録が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代でした。それは教会にとってまさに苦難の時代でした。

 そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしていました。それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じて、表面的には皇帝を礼拝して生きていれば危険はありませんでした。しかし、彼らはそうしなかったのです。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。

 そのような人々の、そのような礼拝の中で朗読されるために、この書物は書かれました。内容はヨハネの見た幻です。迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが神によって見せられた幻です。それは一人の人間の極めて特殊な神秘体験とも言えます。しかし、それが単に個人に関わることではなく、その時代の教会にも、さらには後の教会にも大きな意味を持っているからこそ、このような書物となり、教会で読み継がれてきたのです。私たちは、そのような書物を今日読んでいるのです。

「誠実」と呼ばれる御方
 今日読まれましたのは、この書も終わりに近くなった19章の一部でした。そこでヨハネは何を見ているのでしょうか。このように書かれていました。「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる」(11節)。

 「誠実」および「真実」と呼ばれている白馬の騎手はキリストです。その名前である「誠実」という言葉は、「忠実」と訳すこともできます。そして、その言葉がこの黙示録の初めの方に、大変印象深い表現として出て来るのです。キリストが迫害の中にあるスミルナの教会に対してこう言うのです。「死に至るまで忠実であれ」(2:10)。しかし、スミルナの教会だけでなく、苦難の中にある教会にとっては、まさにそれこそがキリストを信じるということだったのでしょう。苦難の中にあって、キリストから離れてしまうのか、それともキリストに留まるのかを常に問われていたわけですから。

 しかし、ここに至ってキリストが「誠実」すなわち「忠実」と呼ばれる御方として登場するのです。「死に至るまで忠実であれ」と言われる方は、自ら「忠実」であり「誠実」である御方なのです。考えてみれば当然のことかもしれません。「死に至るまで忠実であれ」とは誰もが言える言葉ではないからです。それは最後まで責任を持ってくださる方でなければ言うことができない。決して見捨てることはない。約束してくださったとおり、必ず救ってくださる。そのような御方であるからこそ、「死に至るまで忠実であれ」。わたしから離れるな。わたしに留まれ。そう言うことができるのです。

戦いの姿で
 そして、そのようなキリスト、そのような名を持つ御方が、この幻においては戦いの姿をもって現れるのです。「正義をもって裁き、また戦われる」と書かれているのです。そのような戦いの姿のキリストは、私たちが普段思い描いているキリストの姿と、もしかしたら異なるかもしれません。

 しかし、この戦いの姿のキリストは、その幻を見たヨハネに大きな喜びをもたらしただろうと想像します。また、この言葉を礼拝において聞いた教会にとっても大きな喜びであってに違いありません。

 何に対してであれ、「自分で戦える」と思っている人、「自分が戦わなくてはならない」と思っている人にとっては、戦士の姿で現れるキリストは大した喜びにはならないだろうと思います。自分で裁いている人、自分を正義の執行者としている人にとっては、正義をもって裁く御方が幻に現れても喜びにはならないでしょう。しかし、ヨハネも当時の教会も全く違っていたのです。彼らは無力でした。彼らは自ら戦えないのです。この世の不義の力の方が圧倒的に大きくて勝負にならないのです。だからこそ、神はヨハネに見せたのです。戦ってくださるキリストをヨハネに見せたのです。彼らが無力であっても、最終的にはキリストの正義が貫かれることを神は彼らに示されたのです。

口からは剣が
 しかも、さらにキリストの描写はこう続くのです。「また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた」(13節)。キリストの名がここでは「神の言葉」と呼ばれているのです。そして、15節を見ると、そこにはこう書かれているのです。「この方の口からは、鋭い剣が出ている」。

 口から鋭い剣が出ている「神の言葉」と呼ばれるキリストの姿。思い描いてみてください。その姿は喜びとなりますか。しかし、そのようなキリストのお姿は、既に1章に出てくるのです。私たちがキリストを思う時、思い描くべき一つのイメージがここにあるということです。

 そして、そのイメージは、苦難の中にあったヨハネにとっても、教会にとっても、大きな喜びであったに違いないのです。なぜなら、しばしば「言葉」というものはあまりに無力に思えるからです。ヨハネは神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、ヨハネは島流しになり、語ることは封じられました。教会も神の言葉を宣べ伝えてきました。しかし、その教会は大きな力によって繰り返し散らされることになります。帝国の力に翻弄されている現実があるのです。

 神の言葉が宣べ伝えられることにどれだけ意味があるのか。伝道することに、いったいどれほどの意味があるのか。神の言葉には本当に力があるのか。伝道者ならば一度は悩むことでもあります。ヨハネもそうだったことでしょう。現実的に考えるならば、ローマの兵士が持っている剣の方がよほど力があるように見える。実際、教会を武装へと駆り立てる誘惑は決して小さくはなかったでしょう。

 しかし、ヨハネはキリストの口から出る剣を見たのです。黙示録において見た神の言葉は、まさにキリストの口から出ている鋭い剣だったのです。まさにキリストがその剣をもって戦ってくださる。その幻を見せていただいたのです。教会は御言葉を語り続けることによって戦っていくのです。

神の怒りを見せられて
 さて、そのような姿でキリストが現れるわけですが、この幻は次第にとてもグロテスクな描写となっていきます。既にキリストの衣が「血に染まった衣」と表現されていました。
 「血に染まった衣」がまず意味するのは、明らかに返り血を浴びた衣ということです。それは直接的には15節後半の描写へと続きます。「この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている」。

 ぶどう酒の搾り桶を踏んでいるキリスト。それは明らかにイザヤ書63章から来ているイメージです。そこには、こう書かれています。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」(イザヤ63:3)。そこに語られているのは神の怒りの描写です。黙示録においては、その神の怒りをキリストが執行しているのです。

 今日読みました箇所の先まで読むと、さらにヨハネは一人の天使が鳥たちにこう言うのを耳にします。「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ」(17‐18節)。明らかに、彼らが殺されて放置された死体を鳥がついばむということを言っているのです。それが「神の大宴会」と言われているのです。どう思いますか。

 ヨハネはこの幻を見ながら何を思ったことでしょう。ここで中心となっているのは「怒り」です。そして、「怒り」ということについて言えば、ヨハネや当時のキリスト者にとって、決して無縁ではなかったと思います。彼らはキリスト者であるから迫害されても怒りの感情が湧かなかったと思いますか。酷い仕打ちを受けても、常にただ愛だけが溢れていたと思いますか。それはあまりにも非現実的でしょう。彼らだって怒ることもあったに違いない。迫害者たちを踏みつけてやりたい。殺してやりたい、鳥の餌にしてやりたいと思うこともあったに違いないのです。実際には、そのような感情を抑えるのにどれほど苦しんだかもしれません。

 しかし、ヨハネはここで想像を絶するような神の怒りを目の当たりにすることになったのです。そして、圧倒するような激しい怒りに、まさに自分の怒りもまた呑み込まれてしまうような思いになったのではないでしょうか。もちろんそれは現実に起こっていることではなく、あくまでも見せられた幻なのです。しかし、あたかも現実に起こっているかのように天使の口から「王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ」という言葉を聞いた時に、自分が手を降す必要は全くない、怒り続ける必要はない、そもそも怒る必要さえないことを実感しただろうと思います。むしろ彼らのために神の憐れみを祈り求めるべきだとさえ思えるかもしれません。

 いやさらに言えば、神が正義の神であるならば、神がこれほどの怒りを降すことのできる神ならば、なぜ自分が裁きの酒ぶねで踏まれるのでなく、また自分の肉が鳥についばまれるのでもないのか、改めて考えずにはいられなかったことでしょう。

 本当はそのこと自体、驚くべきことであるに違いないのです。なぜ私たちはこの幻に見る激しい怒りによって滅ぼされるのではなく、今、この礼拝の場にいるのでしょうか。なぜ神に愛されている子どもたちとして、「天にまします我らの父よ」と祈ることが許されているのでしょうか。それは明らかに私たちが正しいからでもふさわしいからでもないのでしょう。それはただキリストの救いによるのです。救いの根拠は私たち自身にではなく、キリストにしかない。それゆえにキリストは「死に至るまで忠実であれ」と。そして、誠実なるキリストは必ず私たちを救ってくださるのです。

2016年11月13日日曜日

「この親にしてこの子あり」

2016年11月13日 子ども祝福礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章43節~48節

(この日は説教に先立って、子どもたち一人ひとりの上に神さまの祝福を祈り求めました。)

 祝福を受けた皆さん、どこに座っていますか。もう一度手を挙げて見せてください。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

敵を無くす方法
 さて、わたしが小学生の時、近所にW君という友だちが住んでいました。彼はいい奴なのですけど、時々ふざけて腹を殴ってきたりします。それがちょうどみぞおちに当たるととても痛いわけです。痛いから、「何するんだよ!」とこちらも殴り返します。殴り返す時は、少し力が入ってしまうものです。すると相手は、「そんなに強く殴ったかよ」と言って今度は結構強く殴り返してくる。「お前からやってきたんだろ」と言ってわたしは本気で殴り返す。こうして、やがてとっくみあいの喧嘩が始まります。そういうことが度々ありました。

 とはいえ、所詮は子どものケンカです。大したことはありません。しかし、「やられたらやり返す」ということで、世の中では殺し合いにまでなることがあります。大きくなれば戦争も起こります。テロも起こります。毎日、何人死者が出たというニュースが流れます。小さいことから大きいことまで、「やられたらやり返す」の繰り返しです。

 残念ながら、人間の世界には、このように「やられたらやり返す」が絶えません。だからいつもどこかに敵がいます。やり返したりやり返されたりする敵がいる。敵がいるって、幸せなことでしょうか。そのような敵対関係があるって、幸せなことでしょうか。そうではありませんね。では敵を無くすにはどうしたら良いでしょう。

 敵を無くす方法はあります。方法その1。敵をみんなやっつけてしまうことです。これはゲームの世界でお馴染みです。敵が出現すると、全部やっつけたら一面クリア。しかし、そのようなゲームばかりやっていると、いつの間にか、「敵がいるならやっつけたら解決するんだ」って思ってしまうようになります。

 実際、この世の中の多くの大人たちはそう思っています。相手をやっつけて、「もう降参です」って相手が言えば解決すると思っているものです。しかし、本当に解決するのでしょうか。いいえ、そこに憎しみは残ります。そして、憎しみは必ず違った形で現れてきます。違った形で敵対関係が残ります。

 どうしたらよいのでしょう。イエス様は、普通では思いつかないような、もう一つの方法を教えてくださいました。先ほど読んだ聖書の箇所に書いてありました。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうイエス様は言っていました。

 敵を無くすもう一つの方法は、敵を友に変えてしまうことです。仲間に変えてしまうことです。敵を友に変える方法は?愛することです。最初に話したことで言うならば、相手が殴ってきた。そこで、やられたらやり返すのではなく、相手を殴ろうとした手をおろして、仲良くしようと言って手を差し出すことです。そして、愛することです。

神様の方法
 しかし、それはとても難しい。現実的とも思えない。しかし、イエス様がそれを言うのには理由があるのです。それは、それが「神様の方法」だからなのです。

 イエス様はこんなことも言っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。「父」というのはイエス様の父なる神様のことです。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる。悪人というのは、ただ「悪い人」という意味だけでなくて、神様に逆らっている人という意味です。神様に背いている。神様の敵になっている人と言ってもいいかもしれない。

 でも、悪人、神様に敵対している人には、太陽が昇らないということってありますか。そんなことはないですね。どんな悪い人の上にも太陽は昇る。あるいは、正しくない人の畑にだけ雨が降らない。そんなことってありますか。ないですよね。正しくない人の上にも雨は降る。そうでしょう。

 いや、太陽が昇るとか、雨が降るとかだけではありません。本当に言いたいことは、神様が愛していてくださるということでしょう。正しくない人でも神様は愛して生かしてくださる。滅ぼしてしまうことはなさらない。考えてみてください。神様は不遜にも敵対する人は全員滅ぼしてしまうこともできるのです。敵を無くす第一の方法は、敵を全部やっつけてしまうことだから。神様にはできるはずです。でも、神様はそうならさらないのです。

 わたしは祝福を受けた皆さんと同じように、小学校の時に教会で祝福を受けていたものでした。みんなと一緒に礼拝して、讃美歌を歌っていた。でも、中学生ぐらいから、信じなくなったのです。神様を侮って、信じている大人たちのこともバカにするようになりました。

 そのように神様を侮って、バカにして、信じている人もバカにしていた私を、神様はすぐに滅ぼすこともできたと思います。地獄に落とすこともできたと思います。しかし、神様はそうなさいませんでした。神様はわたしを愛してくださいました。ぼくがバカにしていた信じている大人たちは、わたしに言い続けてくださいましたよ。「神様はあなたを愛してるよ」って。それは神様がその人たちを通して、教会を通して、わたしに言い続けてくださったことだと思います。

 神様は、神様に背いているこの世界を滅ぼしてしまいませんでした。そうではなく、敵である私たちを愛してくださったのです。神様は、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけ続けて、最後には独り子イエス様をさえこの世界に送ってくださったのです。敵である私たちを愛するためです。愛していることを示して、呼びかけるためです。帰ってきなさい。敵であることをやめなさい、と。神様は今も愛して呼びかけていてくださるのです。

天の父の子となるために
 そう、イエス様はそれが神様の方法だって分かっていたのです。敵を愛することが、父なる神様の方法だってわかっていた。だからその父の独り子であるイエス様は、父なる神様と同じようになさったのです。敵を愛したのです。

 イエス様はやがて捕らえられて十字架にかけられることになりました。イエス様は自分を十字架にかけようとしている人々をやっつけることができたと思います。イエス様は奇跡を行う力があるのですから。しかし、イエス様はそうなさらなかった。そうではなくて、敵を愛されたのです。迫害する者のために祈ったのです。

 十字架にかけられた時、イエス様は御自分を十字架にかけた人々のために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様は彼らを愛しました。そして、背いていた私たちをも愛してくださいました。

 「この親にしてこの子あり」。今日の説教題です。まさにこの言葉が一番ぴったり来るのは、天の父とイエス様の関係でしょう。しかし、イエス様は言われるのです。神様は、あなたたちの天の父でもあるのですよ、と。今日の箇所でもイエス様は言っておられます。「あなたがたの天の父の子となるためである」って。

 これは敵を愛したら神の子どもにしてもらえるという意味ではありません。イエス様は既に「あなたがたの天の父」という言葉を使っているのです。他の箇所でも繰り返し「あなたがたの天の父は」と言っておられる。実際、イエス様に教えられて「天にまします我らの父よ」と祈っているではありませんか。

 神様は敵であった私たちをも愛して、立ち帰るように呼びかけて、みもとに招いてくださって、背き続けてきた私たちの罪をも赦して、神の子どもにしてくださったのです。だからこそ「天の父の子」になるのです。天の父の子として生きるのです。天の父がしてくださったように、私たちも同じようにしなさいとイエス様は言ってくださるのです。聖書の別の箇所にはこう書かれています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。確かに難しいかもしれません。しかし、せっかく神様の子どもとして生き始めたのですから、「やられたらやり返す」ではなくて、神様の方法に倣いたいと思います。「この親にしてこの子あり」。そんな子どもたちになりたいものです。

2016年11月6日日曜日

「良き羊飼いと幸いな羊たち」

2016年11月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 23章1節~6節

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。今年は初めてご出席のお返事をいただいた御遺族のために「御遺族席」を用意しました。すると礼拝堂の半分は遺族席になりました。これはある意味ではとても嬉しいことです。天に召された方々のご家族がそれだけ大勢、この礼拝のためにお集まりくださったということですから。

 先に召された方々も、ご家族の皆さんが今この礼拝の場に身を置いているのを見て、主と共に喜んでおられることと思います。中にはそれらの方々が地上にある時には、一緒に礼拝を捧げる機会を得なかったご家族もあるのでしょう。あるいは、故人が召された時にはまだ小さかった、お孫さん、ひ孫さんもこの中にはおられるのでしょう。そのお一人お一人が、今、この礼拝の場に一緒にいるということは、天においてどれほど大きな喜びをもたらしていることかと思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

わたしには欠けることがない
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、詩編23編の言葉です。もう一度、1節から3節までをお読みします。

    賛歌。ダビデの詩。
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
      主はわたしを青草の原に休ませ
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。
                           (23・1‐3a)
 「ダビデの詩」いう表題が付けられています。ダビデ本人が作った歌かもしれませんし、あるいはダビデを思いながら後の人が作った歌であるかもしれません。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかにこれはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。

 この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌ではありませんでした。そうではなくて、「良き羊飼いのもとにいて、わたしは幸せな羊でした」と言って喜んでいる歌です。

 それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。ある意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そして、最後はこの地上の命を失うことになる。

 失っていくものに目を留めれば、確かにそうです。失ったものを思えば乏しさを覚えることはある。欠けを覚えることはあるのでしょう。しかし、この人はそう言わない。今与えられているものに目を留めるのです。与えてくださっている御方に目を留めるのです。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。「主は羊飼い」。そして、それで十分なのです。「わたしには何も欠けることがない」と。

死の陰の谷を行くときも
 そして、続く3節と4節にはこう書かれています。

     主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
   死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。
                              (23・3b‐4)
 ここで一つの変化が起こっていることに気づきます。これまで「主は羊飼い」「主はわたしを青草の原に休ませ」「主は…正しい道に導かれる」と語ってきたのですが、いつしか「あなたが…」と神様に向かって語り始めるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。

 「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」。そう語った時、彼は神様がこれまでどのような道を導いてくださったのか、改めて思い起こし、思い巡らしたことでしょう。それは必ずしも平坦な道ではなかったに違いありません。「死の陰の谷を行くときも」と彼は言っていますから。実際にこの人は「死の陰の谷」を行くような経験をしてきたのでしょう。

 ならば、そのようなこれまでの人生を思い起こし、「死の陰の谷を行く」ときについて語る時に、「あなたが」という言葉が口をついて出て来たとしても不思議ではありません。なぜなら、彼は「死の陰の谷」を行く時に、そこで繰り返し繰り返し神様を呼び求めながら、神様に呼びかけながら、神様に祈りながら生きてきたに違いないからです。確かにその人は「わたし」と「あなた」という関係において神と共に生きてきた。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とはそういう言葉です。

 ある程度長く生きていれば「死の陰の谷」を通ることは人生において避けられないことなのかもしれません。さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で「死の陰の谷」を行くことになるのでしょう。その時に共にいてくださる羊飼いに向かって、「あなたがわたしと共にいてくださる」と呼びかけることのできる人は幸いです。

 実際、ここを読みながら、そのようにして最後の「死の陰の谷」を通って行った人たちの姿が思い起こされます。また、「死の陰の谷」を行く中で、そこで初めて羊飼いに向かって語り始めた幾人かの方々の姿を思い出すのです。そう、彼らは決して一人ではありませんでした。

わたしを苦しめる者を前にしても
 そして、「あなたは」と言って彼が向き合っている神様の姿がここで変わっていきます。羊飼いから家の主人に変わっていくのです。それもまた彼が知ってきた神様の姿です。
 
    わたしを苦しめる者を前にしても
        あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる。             
                    (23・5)
 そこには敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人がいます。彼は苦しめる者のただ中にある。それは変わらない。しかし、そのような苦しい現実のただ中にあって、そこで家の主人として豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。

 私たちはそこでもしかしたら、言いたくなるかも知れません。「神様、食事どころではありません。敵に囲まれているのですから。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」しかし、神様は必ずしもただちにそうしてくださるとは限らない。この詩編に描き出されている神様は、あたかもこう言っておられるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。今いるそこで力を得なさい。そこで喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」

 これこそ死の陰の谷を行くときも「あなたが共にいてくださる」と言っていたこの人が、人生において繰り返し経験してきたことであったに違いありません。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と。
 
主の家に帰ろう
 そして、彼はこの詩編をこう締めくくります。

    命のある限り
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。              
                    (23・6)

 良き羊飼いと共にある羊の幸いなることを歌ってきた彼は、帰るべきところ、とどまるべきところについて語ります。それは「主の家」です。それは「神殿」を意味します。それは共に礼拝する場所です。まさに「あなたがわたしと共にいてくださる」と言える場所、そして主御自身が食卓を整えてくださる場所。そう、私たちもまた今、そこに身を置いているのです。ここは天に召された皆さんのご家族が、繰り返し繰り返し帰ってきて身を置いていた場所です。

 そして、それは永遠なる神の世界とつながっているのです。この地上の「主の家」はあくまでもひな形に過ぎません。その実体は天にあります。私たちには帰るべきところがあるのです。

 6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

2016年10月23日日曜日

「恐れることなく、救いの言葉を告げ知らせなさい」

2016年10月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 10章26節~33節

覆われて見えないだけだから
 「人々を恐れてはならない。」そのように書かれていました。それだけではありません。今日の福音書朗読で読まれたのは短い箇所ですが、そこに三回「恐れるな」という言葉が繰り返されています。恐れていない人に「恐れるな」と語る必要はありません。イエス様が繰り返し「恐れるな」と言われるのは、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかを知っておられるからでしょう。

 特にこれはキリストの弟子たちに対する言葉として語られています。しかも、この直前には迫害の予告が語られているのです。人々から拒絶される時、どれほどの恐れが起こるのか。人々から中傷される時、どれほどの恐れが生じるのか。人々から敵意を向けられる時、憎まれる時、暴力にさらされる時、どのような恐れが起こり、どれほどの恐れに捕らわれることになるのか。そうです、イエス様は分かっておられるのです。

 だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない」と。それは「恐れる必要などないのだ」ということです。なぜなら、主がそう言われる時、そこには確かな理由があり根拠があるからです。主はこう続けるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

 人間の隠し事がやがては明らかになるという話ではありません。神様の話です。救いの話です。救い主が既に来られたという話です。預言者によって語られ、人々によって待ち望まれていた救い主が既に来られた。その救い主が語っておられるのです。既に救いが到来しているのです。神の完全な愛が到来しているのです。しかし、それは「覆われているもの」と表現されています。まだ覆われているのです。まだ目に見えないのです。

 実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きています。多くの不条理を背負いながら生きているのです。

 先に触れましたように、この言葉の前には迫害の予告が書かれています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というようなことが書かれているのです。救い主が到来したのに、よりによって救い主を信じる者が苦しみを受けるのです。信じる者も苦しみを免れないのです。そのような世界です。救い主が到来しても、依然としてそのような世界なのです。

 しかし、それにもかかわらず、主は言われるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」やがて覆いが取り除かれる時が来るからです。神の救いが完全に現れる時が来るのです。

 言い換えるならば、今は単純に覆われているに過ぎないということです。やがて完全に現れるべきものが今は覆われているゆえに見えないだけなのだ、と言っているのです。見えなくても、既に決定的なことは起こっているのです。既に始まっているのです。既に救いは与えられているのです。だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない。恐れる必要はないのだ!」と。

既に起こっていることがある
 既に決定的なことが起こっているという事実は、イエス様御自身の言葉の中にもよく現れています。主は言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。

 さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、実は重大な言葉がここにあります。「あなたがたの父」と主は言われるのです。天地の創造主を指して「あなたがたの父」と言っておられるのです。ここだけではありません。この福音書において繰り返し繰り返し主が発せられる言葉です。救い主が来られて、「あなたがたの父」と言われるのなら、確かに神は「私たちの父」なのです。私たちは神の子どもたちとされているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、そのような出来事が既に起こっているのです。

 主が「あなたがたの父」と呼ばれる方は、いったいどのような御方なのでしょう。主は言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここで「あなたがたの父のお許しがなければ」と書かれているのは意訳です。直訳すれば、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と書かれているのです。

 売られたとしても大した値段にならない雀。その雀が地に落ちる。つまりそれは「死ぬ」ということです。そんな雀一羽が地に落ちても誰も気に留めないし、雀は誰にも知られることなく死んでいくのでしょう。しかし、そのことは「あなたがたの父なしには起こらない」と主は言われるのです。つまりそこにも父が共におられるということです。そこで一羽の雀は父の慈愛の御手の内にあるということです。雀一羽だって孤独で死ぬことはない。父なしにそのことは起こらないのです。

 もちろんイエス様は雀の話をしたいわけではありません。「ましてやあなたがたは!」ということでしょう。雀一羽さえも心にかけておられる神は、私たちの天の父なのです。そこで「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と主は言われる。私たちが自分を知る以上に、私たちのことを知っていてくださる父なのです。なにが私たちにとって良きことで、何が私たちにとって災いであるかも、私たちが知る以上に知っていてくださる御方なのです。

 実際、イエス様の言われた迫害の予告は現実となっていきました。弟子たちのある者は迫害の中で死んでいったのでしょう。あるいは家の中で家族に看取られながら死んでいく人もいたのでしょう。しかし、いずれにしても「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」のです。何が起こったとしても、そこには父がおられるのです。父の慈愛の御手の中にあるのです。「だから、恐れるな」と主は言われるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

信仰の言葉を告げ知らせよ
 既にそのような天の父の子どもたちとして生きることが許されている私たちです。救い主が来られて、既に決定的なことは起こっているのです。何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、既に救われた者として生きることができるのです。

 そして、既に起こっていることは、いまだに覆われているとしても、やがては現れることになるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。人間の隠し事ですら時を経て表に現れるのなら、ましてや神様がなさっていることが表に現れないはずがありません。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。

 それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神の救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、神の言葉によって歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる信仰の言葉によって生きるのです。私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。

 そして、私たちに語りかけられる言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めを受け、私たちの心の中に留めるために与えられているのではないのです。主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。

 実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。主の御言葉を宣べ伝えることをやめませんでした。生きても死んでも、神の救いの中にあることを知っていたからです。父なしに地に落ちることはないと知っていたからです。父の完全な慈しみの御手の中にあることを知っていたからです。

 主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)と。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることはせいぜい体を殺すことまでです。神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。

 そのことについては、迫害の中を生きたパウロもまた、一つの手紙の中でこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。

 主はここから私たちをこの世へと遣わしてくださいます。信仰の言葉、主の御言葉を携えて出て行くようにと、私たちを祝福し、送り出してくださいます。現実には、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかということを主は知っていてくださいます。だからこそ、主は今日も私たちに語っていてくださるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

2016年10月16日日曜日

「すべての人を一つにしてください」

2016年10月16
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章20節~26節

 今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園において、主はユダが率いてきた一隊の兵士たちによって捕らえられることになります。そして、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は死を前にした祈りの言葉であると言えるでしょう。

 しかし、イエス様にとってその時は、この世から父なる神のもとに帰る時に他なりませんでした。最後の晩餐の場面はこのような言葉をもって始まっているのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13:1)。

 そのように、父のもとに帰ろうとしている御子なるイエス様が、この上なく愛し抜かれた弟子たちと食事を共にされました。そこで最後に語っておくべきことを彼らの心に深く刻みつけられました。そして、その締めくくりとして父なる神に捧げた祈り――それが今日お読みしたキリストの祈りです。

 その祈りは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになる人々のために祈ります。今日の朗読箇所はこの第三の部分です。

彼らもわたしたちの内にいるように
 そこで主はこう祈り始められます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのはキリストの弟子たちです。

 イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられたのです。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。

 しかし、主はそのような弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。そして、彼らに宣教の言葉を託されました。主は、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを既に心の目で見ておられたのです。主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈っているのです。

 そして、主の心の内にあったことは現実となりました。弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々がこの世に存在することとなったのです。なんと、それから二千年後、この日本にも存在することとなりました。ここに確かにキリストを信じる私たちがいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。

 主は私たちのために何を祈ってくださっているのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。

 キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。

 一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に分裂がないように、仲たがいしないようにということではなさそうです。

 父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた神との関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈っていてくださる。それこそが、「一つとなる」ということなのです。

 「すべての人を一つにしてください」。それは単に分裂がないようにということではありません。仲たがいしないようにということではありません。共に神の家族として生きるように、ということです。共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。

 ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、単にお互い仲良くしている姿ではないのです。同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に祈りつつ愛し合う一つの家族となっていく。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。 

完全に一つになるために
 そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。

 「あなたがくださった栄光」とは神の子としての栄光です。イエス様はその栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるようにしてくださいました。「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。

 そうです。私たちに与えられている信仰生活は「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」と表現されていますが、それは「彼らが完全に一つになるためです」と主は言われるのです。主はただ私たち個人の救いのために信仰へと招いてくださったのではありません。私たちが同じ父を持つ神の家族として一つとなるために招いてくださったのです。

 そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。

 確かに、異なる者たちが同じ天の父を仰いで祈る姿を通して福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのでしょう。そして、神に愛されている子どもたちの生活をも知ることができたのでしょう。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。

彼らも共におらせてください
 さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。

 最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りです。この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟っておられるキリストの祈りです。主は父のもとに帰り、父と共にいることになる。しかし、主はこう祈られるのです。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」

 私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆がこの世の生を終えた後も続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。

 私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。

 「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。栄光に輝く主の姿を見せていただくことになるのですそして、その時私たちは知ることになるのでしょう。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。

 この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、この世のただ中において既に愛されている神の子どもたちとして共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちはまだ本当のところを知らないのでしょう。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見ることになるのですから。

2016年10月9日日曜日

「身代わりの十字架」

2016年10月9
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 11章45節~57節

損か得か
 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれていました。「イエスのなさったこと」はこの直前に書かれています。死んで四日経ったラザロを生き返らせたという奇跡です。

 奇跡を見てイエスを信じた人はいた。確かにいました。しかし、奇跡は必ずしも信仰をもたらすとは限りません。同じように奇跡を見ても、なお信じようとしない人たちはいたのです。むしろ危険人物として密告する人たちがいたのです。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(46節)と書かれているとおりです。

 さて、イエス様のなさったことについての密告を受けた祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47、48節)。

 彼らはイエス様が「多くのしるしを行っている」ということを認めています。イエス様がなさった数々の御業に目を留めてはいるのです。しかし、彼らの関心はどこにあるのでしょう。彼らは、このイエスという方が真にメシアであるのか否かには関心がありません。イエスという方が本当に神様から遣わされた方であるかどうか、神の子であるかどうかということには関心がありません。信ずべき御方であるのか、そうではないのかということには関心がありません。なぜなら、彼らの関心は別のところにあるからです。

 彼らの関心はどこにあるのか。それはナザレのイエスというひとりの人物の存在が彼らにとって《得になるか損になるのか》ということでした。そして、彼らの結論は《損になる》ということだったのです。イエスが存在することは、彼らにとって決定的な損失になる。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と。

 これは最高法院が招集された時の発言であったと書かれています。このことを懸念していたのは特に祭司長たちだったと思われます。彼らは貴族的な特権階級に属します。彼らが望んでいるのは一にも二にも現状維持です。平穏無事であることです。騒ぎは起きて欲しくないのです。メシアが到来したの何だのと言って騒いで欲しくないのです。

 実際エルサレムにおいて騒ぎが起こるなら、ローマの軍隊が情け容赦なく介入してくることが予想されました。それは決定的な損失となります。だからそのような事態を恐れたのです。「イエスという男が奇跡を用いて民衆の支持を得るならば、まずは自分たちの立場が危ない。いや、それどころか、そのような危険な動きをローマ当局が察知したならば、必ず軍隊を送り込んで来るに違いない。その結果、彼らは神殿をたたき壊し、イスラエルの民を滅ぼしにかかるかもしれない」と。

 ですから、その後に大祭司カイアファが発した言葉も十分理解できます。彼は言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49、50節)。要するにカイアファが言いたいのは、「あいつには死んでもらうことにしよう」ということです。その方が「好都合」だからです。これは「得である」という意味の言葉です。

 彼らにとって最も大事なこととされているのは、何が真理かということではないのです。何が神に従うことなのか、ということでもないのです。そうではなくて、どちらの方が人間にとって、我々にとって都合が良いのかということなのです。どちらが得かということなのです。

 やがてこの同じ最高法院において、キリストが裁かれることになります。処刑が決定されるのです。その罪状は表面的には「イエスが神を冒涜した」ということでした。しかし、それは建前に過ぎなかったと聖書は言うのです。本音は別のところにありました。イエスに死んでもらうことは、彼らにとって「好都合」だったからだ、彼らにとって得だったからだと聖書は言っているのです。

 今日の聖書箇所が伝えているように、キリストの十字架は彼らの打算によってもたらされました。彼らはイエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見ていました。その御方が数々のしるしを行っていることも知っていました。しかし、イエス様を信じるに至りませんでした。彼らの打算がそれを阻んだからです。損得勘定が信仰を阻んだからです。自分にとって得になるか損になるかということからしかキリストを見ることができなかったからです。

わたしたちのために
 このように損得勘定とキリスト教信仰とは本質的に相容れないもののようです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至らない。それはある意味では必然であるとも言えます。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったこと、キリストが私たちのためにしてくださったこと自体が、そもそも打算からはずれたことだからです。それは人間的に見るならば、はなはだ愚かなことに他ならないことだったからです。

 カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。しかし、聖書は大変不思議な説明を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 カイアファは損得の話をしていたのです。都合が良いか悪いかの話をしていたのです。しかし、彼の考えとは全く関係なく、図らずもそれがキリストについての預言となっていたというのです。神様がカイアファの言葉をさえ用いて真理を示しておられたのです。それは何か。それはキリストの死は確かに「身代わり」としての死であったということです。

 カイアファは「国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だ」と言いました。しかし、人を最終的に滅ぼすのは、本当は人の力ではないのです。彼らを滅ぼすのはローマの軍隊ではないのです。人の力は人を最終的に滅ぼすことはできないのです。人を本当に滅ぼすのは何か。それは神との断絶なのです。人間にとって本当に絶望的な状況はただ一つのことによってもたらされるのです。神に立ち帰ることもなく、神の赦しを求めることもなく、神の愛と憐れみを信じることもなく、神から離れたままである現実によってもたらされるのです。神というまことの光を失うならば、本当の暗闇となってしまうのです。

 祭司長たちはローマの軍隊を見ていました。キリストの目は人間の罪を見ていました。祭司長たちは自分たちの特権の危機を見ていました。キリストは神から離れた人々の危機を見ていました。祭司長たちは自分たちの都合のためにキリストを殺そうとしていました。キリストは救いのために十字架に向かっておられました。これが人間の罪とキリストの愛のコントラストです。

 キリストは愛によって十字架に向かわれました。それは人間的に見るならば愚かなことでした。しかし、愛するということは、あえて愚かになることなのでしょう。あえて損をするという選択なのでしょう。キリストはあえて損をすることを選び、身代わりの十字架を選ばれたのです。

 それゆえに、その方を信じようとするならば、打算によって信じることはできません。キリストを信じることが損になるか得になるかで信じることはできません。キリストの十字架の愛に目を向け、その愛に応えていくこと、それがキリストを信じることであり、キリストに従うことなのでしょう。そこでは打算が沈黙するのです。キリストの愛によって、そこでは打算を越える決断が起こるのです。

 今から300年ほど前のこと、デュッセルドルフの美術館にあった一つの絵の前に長い時間立ち尽くしていた青年がいました。彼の名はニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ。後にモラビア兄弟団の創立者となり、霊的指導者として後世に大きな影響を与えることとなった人物です。彼が見つめていたのは、「この人を見よ」と題されたキリストの十字架の絵でした。茨の冠をかぶせられ十字架に釘づけられているキリストの姿。その絵のもとにはラテン語でこう記されていました。「わたしはあなたのためにこのことをなした。あなたはわたしのために何をするのか。」彼はそこで確かにキリストの語りかけを聞いたのだと思います。そして、そこにおいてはもはや何が得であるか何が損であるかなどということは、どうでもよいことだったに違いありません。彼は自らの人生を、そのままキリストに差し出したのでした。

 私たちのための身代わりの十字架。その姿は私たちに向かっても同じことを語っているのでしょう。「わたしはあなたのためにこのことをなした」と。私たちはどうお応えするのでしょう。

2016年10月2日日曜日

「口実であっても、真実であっても」

2016年10月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節~21節

福音の前進に役立った
 今日はパウロが獄中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙をお読みしました。彼はフィリピの信徒たちにこう語りかけます。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。

 「わたしの身に起こったこと」とは投獄されたことです。自由を奪われたことです。これまで三回に渡る宣教旅行を繰り返し、多くの人々に福音を宣べ伝え、数多くの教会を生み出してきたパウロが、もはや自由に動くことも語ることもできなくなったということです。

 いや、自由を奪われただけでなく、彼は今、命までも脅かされているのです。今日の朗読の最後の言葉は「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉でした。パウロは処刑されることも覚悟の上でこの手紙を書いているのです。

 そのように伝道者パウロの自由が奪われること、さらにはその命が脅かされること、それは誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし、パウロは言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。

 ここでパウロが使っている「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくことになったのだ、とパウロは言って言うのです。

 その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。

 福音を阻むと思える出来事によって、新しい出会いが生まれました。パウロに与えられたのは、ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
 
 「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことのでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。そのようにして、やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。

 この箇所を読みますときに、一人の牧師を思い出します。昨年11月に震災後のネパールを訪れまして、その時にマンジャ・タマングという牧師の家に泊まらせていただきました。彼は40代の牧師で、伝道者となって二十年になりますが、実はその内約半分の9年間を獄中で過ごしていました。まったくの冤罪のために家族とも分かれ、投獄されていたわけです。どんなに辛かったことかと思います。しかし、彼はその時のことを、顔を輝かせて語ってくれました。その時、主は彼を通して、多くの人と出会ってくださった。そうでなければ、出会うことのなかった獄中の人々との出会いの中で、多くの人がキリストを信じるに至りました、と。

 そのように福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させてくださる。そのことを主は見せてくださいました。パウロもまた、その事実をフィリピの教会の人々に証ししているのです。

 いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 「わたしの捕らわれているのを見て」と彼は言います。人々はそこに何を見たのでしょう。捕らえられた人。自由を奪われた人。風前の灯火である命。――いや、それだけではありませんでした。この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」なのです。人々が見たのは喜びだったのです。

 自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロ。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。それは、この世の命よりも大切な、この世の命よりもはるかに価値ある、神の救いでありました。キリストによる永遠の救いだったのです。

 星野富弘さんという方をご存じの方は多いことでしょう。重度の障害を負いながらも、口で絵筆をくわえて絵を描く詩人であり画家である方です。彼の作品の中にこんな詩があります。

 「いのちが一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが
  苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった」

 星野さんが知った「いのちよりも大切なもの」。代々の殉教者たちが、そのために喜んでこの世の命を差し出した「いのちよりも大切なもの」。人々は獄中にあるパウロがなおも喜びをもって生きている姿の中に、その「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのです。

 先週、大変重い病気と診断された人と話をし、一緒に祈りました。その方が心に留めておられる聖書の言葉は、今日お読みした「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という御言葉でした。わたしはその人が確かに「いのちよりも大切なもの」をしっかりと持っていることを私もまた見せていただきました。

 そのように人々は、パウロの捕らわれている姿の中に、「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのでした。それゆえに、「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言っているのです。そのようにして、福音を阻むとしか思えない出来事のただ中にある人を神は用いられたのです。そのようにして周りの人々を励まされ、なおも福音を前進させてくださっていたのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」

キリストが宣べ伝えられているのだから
 さて、私たちはパウロの投獄が、どのように福音の前進となったかを見てきました。しかし、パウロの身に起こったのは、ただ投獄だけではありませんでした。パウロはさらにこう続けます。

 「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者」がどのような人々であったのか、詳しいことは分かりません。しかし、福音宣教が必ずしも「愛の動機」からなされるとは限らないということは分かります。人間の罪は最も聖なる営みにも入り込みます。獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からもなされ得る。事実、そのようなことが起こっていたのでした。

 パウロはそのために苦しんできたのでしょう。心を痛めてきたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

 それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。

 パウロは、キリストが告げ知らされているなら、それでよいではないかと言うのです。そもそも人間のやることなすこと、純粋に愛から出ていないことばかりではないですか。しかし、それでもなお神の救いの業は進んでいくのです。

 考えてみれば、そのようにして、教会は今日に至っているのではないでしょうか。神が純粋さだけを問うならば、とうの昔に教会など無くなっているはずなのです。実際には、神の憐れみによって、人間の罪にもかかわらず、人間の悪意にもかかわらず、不純な動機にもかかわらず、福音は前進してきたのです。

 人間が捕らえようが、投獄しようが、鎖につなごうが、命を奪おうが、あるいは悪意と不純な動機によって動こうが、人間がすることがすべてなのではありません。人間が何をしようが、神は生きておられるのです。神は神のなさろうとしておられることを進められるのです。神がこの世界のことにも、死の向こうの永遠の救いに関わることにも関わっておられるのです。

 そのような神の御業の中にあることをパウロはよくよく分かっているのです。だから彼は喜んでいるのです。投獄されようが、妬みに駆られた人間が何をしようが喜んでいるのです。そして、こう言うのです。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(19節)。

 悪意によって動いている人がいたとしても、もう一方ではパウロのために祈っている人もいるのです。神は生きておられます。だから祈られた祈りは無駄に消えていくことはありません。

 そして、もう一方でイエス・キリストの霊は生きて働いておられる。私たちの救いのために十字架にまでおかかりくださった方は、今も生きて働いておられる。

 だから人間の悪意はパウロを損なうことはないのです。害を与えることはできないのです。人がどんなにパウロを苦しめようとも、本当の意味では苦しめることなどできないと彼は知っているのです。むしろ、「このことはわたしの救いとなるのだ!」とさえ、パウロは言うのです。パウロ個人の救いに関しても、確かに福音は前進しているのです。救いをもたらす神の御業を誰も妨げることはできないからです。

 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。そうです、私たちも知らなくてはなりません。私たちは福音を携えてここから出て行きます。そして、私たちの身に起こるすべてのことを通して、福音は前進して行くのです。

2016年9月11日日曜日

「神の満ち溢れる豊かさによって満たされるように」

2016年9月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節

愛に根ざし、愛を土台とし
 今日お読みしたのはパウロが獄中からエフェソの教会に書き送った手紙です。そこに祈りの言葉が記されていました。獄中にて祈られた祈りの言葉です。今日の箇所の直前には「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)と書かれています。だから彼は祈ります。どこに置かれても祈ります。投獄されても祈ります。牢獄の壁も、彼をつなぐ鎖も、父なる神に近づくことを妨げることはできません。

 しかし、もう一方で彼が投獄され、苦難を受けていることは、エフェソの教会にとっても試練となることを知っています。彼らは信仰者として揺さぶられることになるでしょう。ですから彼はこう続けます。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(13節)。だからこそ、パウロは祈ります。彼らのために祈ります。

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(14節)。獄中にはひざまずくパウロの姿がありました。彼はエフェソの信徒たちのために何を祈っているのでしょう。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17)。これが彼らのためのパウロの祈りです。

 「内なる人を強めてくださるように」。この「内なる人」とは精神のことではありません。「精神的に強くしてください」という祈りではありません。「内なる人」とは信仰によって生まれた新しい人のことです。エフェソの信徒たちは、福音を信じて神の子どもたちとして生き始めたのです。その神の子どもたちとしての「内なる人」が強められなくてはなりません。信仰者として強められなくてはならない、強い信仰者にならなくてはなりません。そのことをパウロは祈るのです。

 強い信仰者とはどういう人を言うのでしょう。どんな人を思い描きますか。パウロは二つのイメージを心に抱いて祈っています。その一つは植物です。植物が強くあるためには何が必要でしょう。根が深く地中に張っていることではありませんか。そのように、しっかりと根を張った植物のような信仰生活。パウロはこれを「愛に根ざし」と表現しています。

 もう一つは建物です。建物が強くあるためにはしっかりした土台が不可欠です。しっかりと土台の据えられた建物のような信仰生活。パウロはこれを「愛にしっかりと立つ」と表現しています。そこに用いられているのは(建物の)基礎を置くことを意味する言葉なのです。

 そのように愛に深く根を下ろし、愛という土台の上にしっかりと立っている人になるようにとパウロは祈り願います。強い信仰者であるとは、まさにそういうことでしょう。しかし、その前にこう書かれています。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」。そうしますと「愛に根ざし」「愛にしっかりと立つ」というその愛とは「キリストの愛」であるということが分かります。

 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」。この「住む」という言葉は一時的に滞在することではなく、永住すること、定住することを意味する言葉です。いつも心の中にキリストがいてくださる。何をするにしても、何を語るにしても、いつも心の中にキリストがいてくださる。そうあってこそ、キリストの愛に根ざし、キリストの愛を土台とした生活が形づくられていくのでしょう。

 これが「内なる人が強められる」ということです。そして、パウロはただ「内なる人を強めてください」と言っているのではなく、「その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように」と祈っているのです。それは神の豊かさから来るのであり、神の霊によるのであり、神の力によるのです。それは神のなせる業です。だからパウロは「そうなりなさい」と命じているのではなく、祈っているのです。それはエフェソの教会もまた共に祈るべき祈りなのです。

キリストの似姿にまで
 そして、さらにパウロはこう祈りを続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。

 キリストがいつも心の中にいてくださる。そのキリストの愛に深く根を下ろすためには、またそのキリストの愛を土台として据えて生きるためには、その愛がどれほど大きな愛であるかを知っていく必要があるのでしょう。それをパウロは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現します。

 ただ単に「キリストの愛の大きさ」と言わずに「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」と言い表すその言葉には、その愛の中に立った者の感動が込められているようにも思います。そこに立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そんな思いが言い表されているのでしょう。

 それはまた、そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるという感動でもあるのでしょう。本当ならばキリストの愛の外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はその中にいる。その驚きと感動です。それはさらに「人の知識をはるかに超えるこの愛」という表現にまで至るのです。人の知識を超えているのですから、それを知るとするならば、それは神の御業です。だから祈るのです。御父の御前にひざまずいて祈るのです。

 そして、その愛を知るだけでなく、彼が祈り求めるところはついにここに至ります。「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。

 計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださる。一時的にではなく、いつでもいてくださる。その愛に深く根を下ろした生活。その愛を土台として建てあげられた生活。それはどのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りの成就ではありませんか。それは主の霊の働きによることです。だから祈るのです。

 しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。

 天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることを遙かに超えて。しかし、それは「わたしたちの内に働く御力によって」なのです。神が変えたいと思っておられるのは、わたしたちなのです。

 パウロの祈りの言葉を読んできました。変わらなくてはならないのは周りの人々であり、この世界だと考えている人にとっては、この祈りの言葉は大して意味を持たなかったに違いありません。しかし、変わらなくてはならないのは私だ、他ならぬ私だと思っている人にとっては、この祈りの言葉は大きな意味を持ったことでしょうし、この祈りをわが祈りとして祈り続けたに違いありません。そして、天の父はそのような私たちの祈りに対して、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方なのです。教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

2016年9月4日日曜日

「キリストに倣いて」

2016年9月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 2章18節~25節

それは恵みなのです
 今日の礼拝では小アジアの諸教会に宛てて書かれたペトロの手紙が読まれました。今日の箇所では、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)と勧められていました。

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。当時のギリシャ・ローマ世界には六千万人もの奴隷がいたと言われます。その中には職人や教師や医師もおり、また家庭に仕える「召し使いたち」もいたのです。必ずしも今日私たちが「奴隷」という言葉からイメージするほど悲惨な生活をしていたわけではありません。 

 ですから、中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。

 そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。

 ペトロがそのように勧めるのはどうしてでしょうか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 どう思われますか。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを耐えることを神はお望みであると言います。だから苦痛を耐え忍ぶのだ。それが御心に適うことなのだ、と言うのです。ここを読んで何を感じましたか。どのような神の姿が思い描かれますか。

 これだけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそ「無慈悲な主人」としての神様の姿を思い描く人がいるかもしれません。わたしはかつてここを読んだ時、そんな神様のイメージを抱いてしまったことがありました。

 しかし、ここは日本語にするのがいささか難しい箇所でもあるのです。19節の「御心に適うこと」と訳されている「カリス」という言葉は、様々に訳し得る言葉だからです。他の箇所では通常「恵み」と訳されます。ですから、ここには「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは《恵み》なのです」と書かれているのです。神様は意地悪をしているのではありません。そこで目にしているのは「恵み」なのです。「御心に適うこと」であるとは、そういうことなのです。しかし、不当な苦しみを耐えることがなぜ「恵み」なのでしょう。

 ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。実は、ここにも「恵み」という言葉が出て来ます。「神の御心に適うことです」は「神の御前にある恵みです」とも訳せるのです。

 そのように、ペトロはただ単に「不当な苦しみを耐えること」が「恵み」だと言っているのではないのです。ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。

 言い換えるならば、善を行っても苦しみを受けることが分かっているのに、耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて善を行う方を選ぶ人の姿なのです。そこに現れているのは「恵み」だ。それは「神の御前にある恵み」だ。そうペトロは言っているのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

主の模範に従う
 そのために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方を指し示すのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐することの模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主の食卓を囲みながら、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

2016年8月28日日曜日

「御心にかなった祈り」

2016年8月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節~15節

永遠の命を得ている
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と書かれていました。ヨハネは既に神の子イエス・キリストを信じている人々に書いています。それは「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」だと言います。キリストを信じていても、永遠の命を得ているとは考えていないことがあり得るからでしょう。

 かつてある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て、こう尋ねたことがありました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。明らかに彼が尋ねているのは来世の命についてです。来世の救いについてです。それを得るためには、今の世においてどんな善いことをしたらよいのかと尋ねているのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「あなたがたは既に永遠の命を得ているのだ」と。それはイエス様御自身も言っておられたことでした。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。そうです、既に得ているのです。そのことを悟らせるために「これらのことを書き送る」のだと言っているのです。

 「これらのことを書き送る」。それはこの手紙全体を指すと読むこともできますが、話の流れからすると、まずは直前に書かれていることを指しているのでしょう。そこには「神の証し」について書かれているのです。少し遡って9節を見ますとそこにはこう書かれております。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が自分の見たことを語ったとき、それを聞いた人がたとえ自分は見ていないとしても、「そうだったのですね」と言って受け入れる。「人の証しを受け入れる」とはそういうことです。また、イスラエルの裁判では、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけですが、実際に裁判官が事実を見ていなくても確定されるのです。そのように「人の証しを受け入れる」ということは身近なところでなされていることです。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があるとヨハネは語ります。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)です。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節にこうあります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(11節)。

 この部分は前後をひっくり返して見るとわかりやすいでしょう。神さまは御子について「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」を語っています。それは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。

 永遠の命が御子の内にあることを、神ははっきりとこの世界に向かって語られました。証言されました。どのようにでしょうか。御子イエス・キリストの御生涯、そして十字架による死と復活によってです。神はイエス・キリストという存在によって語っておられたのです。ここに永遠の命がある、と。イエス・キリストによって、この世界は確かに永遠の命を見せていただいたのです。

永遠の命とは
 神が語られた永遠の命、この世界がキリストにおいて見せていただいた永遠の命とはなんでしょう。それは永遠なる神との愛の交わりでした。それは父と子との交わりでした。この世界を愛して救おうとしておられる圧倒的な父なる神の愛。その愛に応えて、その愛に信頼して、自らの全てを捧げ尽くそうとしておられた御子の愛。その愛の交わりこそ永遠なのです。この世界はその御子の姿の中に「永遠の命」が何であるかを見せていただいたのです。

 そして、神はその父と子の交わりの中に、私たちをも招いてくださいました。イエス・キリストとは全く異なる姿で、神に背き続けてきた私たちをも、永遠なる神との交わりの中へと招いてくださったのです。どのようにして。神がどこまでも私たちを愛して、私たちの罪を赦すことによってです。

 この手紙の4章にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。そのようにして私たちにも永遠の命を差し出してくださったのです。

 その意味においても、御子の内には永遠の命がありました。私たちのための永遠の命がありました。罪の赦しと共に永遠の命がありました。そうです、そのように神は既に永遠の命を与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではありません。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 私たちは御子と共に永遠の命を受け取ります。永遠の命は御子の内にあるからです。私たちは御子と共に、罪を償ういけにえとしての御子と共に、永遠の命を受け取ります。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)と書かれているとおりです。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 そのように、御子を持つ者はいのちを持つのです。だからこそ、ヨハネは教会に対してこう書いているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)。

神の御心に適うことを願うなら
 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。

 「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。既に見てきたように、永遠の命とは永遠なる神との交わりに他ならないからです。
それは言い換えるならば神の子供たちとして生きることです。そして、神の子供たちとして生きている具体的な一つの姿は、大胆に父である神に近づいて祈る姿です。

 今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉なのです。

 私たちははばかることなく大胆に父である神に近づいて祈ることができます。なぜなら御子が与えられているからです。罪を償ういけにえとなってくださった御子を持っているからです。だから神に近づくことができる。永遠の命を与えられているとはそういうことです。

 そのように神に近づいて捧げる祈りについて、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」と語られているのです。その姿を見せてくださったのは他ならぬイエス・キリストでした。福音書の中に見るキリストの祈りの姿に、私たちにも与えられている永遠の命が何であるかを見ることができます。

 例えば、ヨハネによる福音書11章に書かれている話です。イエス様は死んで葬られて四日目になるラザロの墓の前でこう祈りました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:42‐43)。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。

 このエピソードは、イエス・キリストを信じる者にとって、もはや問題は可能か不可能かではないことを示しています。永遠の命を得ているならば、可能か不可能かはもはや問題ではないのです。そうではなく、私たちが心を向けなくてはならないのは、神の御心に適っているか否かなのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。

 これはまた、私たちがこの世にあって永遠の命を生きる上で大事なことは、神に《語ること》以上に《聞くこと》であることを示しています。何が御心に適うことかに耳を傾けること。そのようにして神の願いと私たちの願いが一つになること。御言葉を聞くことによって神の願いを私たちの内に宿していただくこと。先週朗読されたエフェソの信徒への手紙においてもパウロがこう言っていました。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)。

 そのように御言葉に耳を傾け、神の御心と一つになって与えられた永遠の命を生きるなら、ヨハネと共にさらに大胆にこう続けることもできるのです。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」。

2016年8月21日日曜日

「感謝に満ちた生活」

2016年8月21
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章11節~20節

愚かな者としてではなく、賢い者として
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)と書かれていました。処世術の話ではありません。この部分は新共同訳では「光の子として生きる」と小見出しがついています。信仰生活の話です。信仰生活においては、愚かな者としてではなく、賢い者として歩む必要があります。「歩む」とは具体的な日々の生活を意味します。与えられた場所で、与えられた関わりの中で、具体的にどう生きていくのか、ということです。そこで愚かな者として生きることもできるし、賢い者として生きることもできるのです。

 では賢い者として生きるとはどういうことでしょう。実は原文において16節は独立した一文ではなく、15節の続きとして「時をよく用いながら」と書かれているのです。賢い者として歩むとは、「時をよく用いる」ことのようです。

 「時をよく用いる」と言いますと、「時間を無駄にせず有効に使うこと」を意味するように聞こえます。確かに時間を有効に用いることは賢い生活かもしれません。しかし、ここで言う「時」とは、誰にも等しく与えられている一日24時間のことではなく、ある特定の「時」、与えられた特別な「時」を表す言葉です。それゆえに多くの翻訳では「機会(opportunity)」と訳されています。これは「与えられた機会を十分に生かして用いなさい」という勧めなのです。それこそが賢い者として歩むということなのです。

 では十分に生かすべき「機会」とは何のための機会でしょう。それは神の御心を行う機会です。この世にあって神の望んでおられることを行う機会です。ですから17節にも「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と勧められているのです。このことについては、今日の箇所の直前にも書かれています。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)と。

 主の御心を行うチャンスが与えられているのです。主に喜ばれることを行うチャンスが与えられているのです。そのチャンスを無駄にしない。与えられた機会を十分に生かして用いて、賢い者として歩むように、細かく気を配って歩むようにと勧められているのです。

 それはどうしてでしょうか。パウロは言います、「今は悪い時代なのです」と。「時代」と仰々しく訳されていますが、ここで用いられているのは「日々」という言葉です。パウロは悪い日々を見ているのです。

 実際そうでしょう。パウロはこの手紙を獄中で書いているのです。伝道者が投獄されてしまうような時代、そのような日々をパウロは経験しているのです。それはエフェソの信徒にとっても同じです。イエスを信じているというだけで、いわれのない中傷を受け、不当な扱いを受けることもあるのでしょう。そのような悪い日々を見てきたに違いありません。そして、自分の日々だけでなく、この世界そのものが悪い日々を重ねながら歴史を刻んでいるのを見ていたのです。その意味では私たちが見ている日々も変わらないかもしれません。「今は悪い時代なのです。悪い日々です」と言わざるを得ない。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい」と。そのような時代であるからこそ、そのような日々であるからこそ、そこに与えられた機会もまたあるのです。御心を行う機会もあるのです。

 苦しみを与えられたなら、それは赦しを与える機会ともなるのでしょう。相手に愛を示し、その人のために祈る機会ともなるのでしょう。隔ての壁があるところにこそ、キリストによる和解を実現する機会は与えられているのでしょう。その意味では、チャンスはありとあらゆる場面で与えられているのだと思います。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と聖書は言います。そうです、今目にしている日々においてこそ、主の御心が何であるかを悟らなくてはなりません。そうでなければ、機会を生かして用いることができません。

霊に満たされなさい
 そのことが信仰生活において実現するために、パウロはさらにこう続けます。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18‐19節)。

 「賢い者としての歩み」「時をよく用いた生活」は、ただ人間の決意や努力から生まれるものではなさそうです。涸れ井戸から水を無理に汲み出せば泥水をまき散らすことになります。清い水が満たされている井戸からこそ、清い水を汲み出すことができるのです。それゆえにパウロは言うのです。「霊に満たされなさい」と。

 しかし、その勧めが「酒に酔いしれてはなりません」という言葉から始まっているのは興味深いことです。これは単なる禁酒の勧めではありません。「それは身を持ち崩すもと」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書がわざわざ語らなくても、他の人が言ってくれることです。ここで大切なことは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされることと対比されているということです。つまり問題の中心は聖霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。神が支配すべきところを、酒が支配しているということなのです。

 「今は悪い時代なのです。悪い日々です」。そのような日々を見ている時に、神を求めるのではなく酒を求めることは起こり得ることです。神の霊に満たされることではなく、酒に満たされることを求めてしまうことはあり得ることです。何か他のもので満たされることを求めてしまうのです。そのようにして現実逃避へと流れてしまう。だからこそパウロは言うのです。「むしろ、霊に満たされなさい」と。そして具体的なこととして「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と続けるのです。礼拝について話を進めるのです。

 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉とも言えます。これについては「交唱」という形で賛美を捧げていたことを指すという理解があります。あるいはコロサイの信徒への手紙には「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)とありますから、賛美を捧げるだけでなく互いに教え合うことも含めて語っているのだ、という理解もあります。そうなのかもしれません。

 いずれにせよ、少なくとも「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まっていることを前提としています。しかも、「皆それぞれ神様には向いてはいますが、お互いは関係ありません」という集まり方ではありません。「語り合い」というのですから。一緒に神様を賛美しながら、神様の恵みを共有し、喜びを共有し、互いに心が通じ合っている。そういう集まり方を意味するのでしょう。

 そのように集まることが大事なのです。あのペンテコステの日に最初に聖霊が降って一同が聖霊に満たされたのは、皆が集まっていた時でした。初めて異邦人に聖霊が降ったのも、百人隊長コルネリウスの家で皆が集まっていた時でした。今、私たちがこうしているように、集まることは大事です。そして、頌栄教会がもっともっと「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合っている」と言える教会になっていくは大事なことです。

 しかし、大事なのは集まっている時間だけではありません。集まっている時間そのものは決して長くはありません。ほとんどの時は、それぞれの場所に散らされているわけです。それは当然、エフェソの信徒たちにしても同じでした。ですから、このように続くのです。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。これは毎日の生活の話です。

 細かいことを言いますと、日本語ですと19節と20節は切れていますが、原文では繋がった一つの文です。19節は集まっている時について。20節は毎日の生活の話です。そして、この二つは切り離せないのです。

 「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。霊に満たされて、日曜日の礼拝での賛美がさらには毎日の生活へと広がっていくのです。霊に満たされて、私たちの毎日は感謝の生活へと変えられていくのです。

 それは「父である神」への感謝の生活です。独り子をさえ惜しまず与えてくださった父である神。独り子によって成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちをも父の子どもたちとしてくださった神。その愛と慈しみを、いつも、あらゆることについて、私たちに注いでくださっている父である神。その神を礼拝する中で、その神への感謝の生活が、霊に満たされて、形づくられていくのです。

 そのような生活においてこそ、時をよく用いることもできるのでしょう。賢い者として歩むこともできるのでしょう。今が悪い時代であっても、目にしているのが悪い日々であっても、そこに与えられている機会を十分に生かして用いることができるのでしょう。主の御心を行う機会として。

2016年8月7日日曜日

「神のために力を合わせて働く者」

2016年8月7
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1節~9節

パウロ派とアポロ派の争い
 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節)。そのように、パウロはコリントの信徒たちに語りかけます。

 「肉の人」という言い方はずいぶん辛辣です。パウロは彼らがクリスチャンではないとは言いません。信仰の失格者だと言っているのでもありません。あくまでも「兄弟たち」と呼びかけているのです。そして、「キリストとの関係では乳飲み子である」と見ているのです。キリストとの関係を失っているわけではない。成長していないだけです。しかし、それでもなお「肉の人」とは辛辣な表現です。

 「肉の人」。この言葉からどんなキリスト者の姿を想像しますか。コリントは大都市です。それは退廃的な町としても知られていました。そのような町に誕生した教会は、当初から様々な問題を抱えていました。深刻な道徳的混乱もありました。そのようなコリントの信徒たちが「肉の人」と呼ばれています。ならば、それが堕落した世俗的クリスチャン、入信前の悪習慣から抜け出せないクリスチャンを意味したとしても不思議ではありません。

 しかし、パウロが真っ先に挙げているのは別のことでした。コリントの信徒たちを「肉の人」と呼んだ時、パウロが見ていたのは互いの間の「ねたみや争い」だったのです。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)。

 そして、さらに具体的に指摘します。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)。なんと分派を作って争っていたというのです。実は分派争いについては、この手紙の一章において既に言及されております。それがこの手紙を書いた一つの理由でもあったようです。

 さて、「パウロ派」と「アポロ派」の争いですが具体的なことは何も書かれていません。しかし、少なくともはっきりしていることはあります。もともとパウロとアポロの対立から生じたものではない、ということです。その意味では、どこかの企業の「社長派」と「会長派」の争いとは異なります。

 パウロは今日の箇所でも言っています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(5節)。そして、9節では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」だと言っているのです。ですから、パウロとアポロが対立していたのでパウロにつく人とアポロにつく人が生じたというわけではありません。

異なるタイプの伝道者
 ならば、どうして「パウロにつく」「アポロにつく」という人々が起こってきたのか。そこで考えられることがもう一つあります。パウロとアポロは様々な点において際だって異なっていたのだろう、ということです。対立してもいない似たもの同士の二人ならば、「パウロにつく」「アポロにつく」という話は起こりようがありませんから。

 使徒言行録によりますと、コリントの町で最初にイエス・キリストの福音を伝えたのはパウロでした。使徒言行録18章にその様子が書かれております。コリントの教会は、パウロの開拓伝道によって生まれた教会でした。パウロは一年半そこに留まって伝道した後、コリントを後にしました。

 パウロが去った後にコリントを訪れたのがアポロでした。使徒言行録には「アポロはそこ(コリント)へ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた」(使徒18:27)と書かれています。そのようなことから、今日お読みした箇所でも「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(6節)と書かれていたのです。

 さて、「植えた」方のパウロですが、もともと彼はガマリエルという高名な教師のもとでユダヤ教のラビとしての訓練を受けた、まさにユダヤ人の中のユダヤ人という人でした。それゆえに熱心な教会の迫害者でもありました。しかし、その彼が復活したキリストに出会い、劇的な回心をして伝道者となったのです。

 そのような人でありますから、キリストのためにまさに命がけで伝道してまわりました。その激しい熱情は使徒言行録からも書かれた手紙からも伝わってまいります。リストラという町では、石を投げつけられ半殺しにされて町の外に引きずり出されました。しかし、彼は起き上がってもう一度その町に入って行く。パウロとはそういう男でした。

 しかし、その一方で第二の手紙には「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」(2コリント10:10)とも書かれています。決して雄弁な人ではなかったようです。

 一方、「水を注いだ」アポロについては、使徒言行録において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリア出身であることを書いているのは、それが彼の人となりの一端を示しているからでしょう。

 アレクサンドリアは当時ローマに次ぐ世界第2の大都市であり、また七十万巻にものぼる蔵書を有するアレクサンドリア図書館の存在に見るように、学問の一大中心地でもありました。そこから出てきたアポロは「雄弁家」であったと書かれていますが、その言葉は「学識ある人」という含みをも持っています。恐らくは、旧約聖書のみならずギリシア哲学にも精通した知識と言葉の人だったのでしょう。 

 そのように様々な点において異なる二人の教師について、ある人がパウロに惹かれ、ある人がアポロに惹かれたとしても、それは無理ないことかも知れません。しかし、それが互いに分派争いに発展してしまうなら、それは何かがおかしいと言わざるを得ません。

成長させてくださったのは神です
 何が問題なのでしょう。パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6‐7節)。

 パウロがそう書かなくてはならなかったのは、明らかにコリントの教会では「大切なのは、植える者であり水を注ぐ者です」となっていたからでしょう。つまり、植える者、水を注ぐ者にしか目が向いていないのです。目に見える人間のことにしか思いが向いていない教会です。人間の能力、人間の行為、人間の生き様、優れた点、劣っている点、その人が何をしてくれたか、何をしてくれなかったか、云々。そのように人間に関することにしか思いが向かなくなっているならば、人間に関することが自分にとって絶対的に重要なこととなってくるでしょう。人間に関することで争いも起こります。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と。彼らの間の違いが絶対的に重要にもなってきますから。

 しかし、パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。そうです、彼らがどのような者であれ、そこで神様がしてくださっていることがあるのです。神様がコリントの信徒たちに関わってくださっていたのです。

 細かいことですが、この「成長させてくださった」というのは原文では継続を意味する表現で書かれています。今もそのような御方として関わり続けていてくださるという意味合いです。ならば「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言い合って、ねたんだり争ったりしている間にも、神様は関わり続けていてくださっているのでしょう。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(9節)とはそういうことではありませんか。

 そのように神様がなさっていることがある。神の畑として実り豊かにしようとしていてくださるのです。神の建物として建てあげようとしていてくださるのです。それは完成へと向かう神の救いの御業です。本来ならば、とうの昔に裁かれて滅ぼされていても不思議ではないような者なのに、神は人を用いて植え、人を用いて水をやり、成長させようとしていてくださる。そこにあるのは神の恵みです。

 皆さん、教会に来て、教会生活を始めるならば、そこには植える人がおり、水をやる人がおり、あるいは様々な形でお互いに関わりあいながら生きていくことになります。その人間の姿はどうしたって目に入るし、気にもなるものでしょう。しかし、そこに見ているのはすべて「神のために力を合わせて働く者」なのです。

 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。私たちの救いを誰よりも願い、そのために独り子をさえ惜しまず与えてくださった御方、そして、今もなお私たちの救いの完成のために尽力してくださっている御方がおられることを忘れてはなりません。その御方にこそ思いを向け、今日も心を合わせて祈りましょう。そこからこそ、大切な方を共に仰ぐお互いのあるべき関わり方もまた見えてくるのです。

2016年7月31日日曜日

「わたしたちは決して負けません」

2016年7月31
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1節~5節

恵みによる二度目の誕生
 ある夜、ファリサイ派の議員であり教師でもあるニコデモという人がイエス様を訪ねてきたという話がヨハネによる福音書にあります。その時、イエス様は彼にこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。

 後に使徒ペトロが小アジア地方他の諸教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ1:23)。

 イエス様が言われたことが、教会において実現しています。「あなたがたは…新たに生まれたのです」とはそういうことです。そのように人は「新たに生まれる」ことができる。言い換えるならば、二度生まれることができる。聖書は確かにそう教えています。

 一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということはあり得ます。しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができる。新しく生まれることができる。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 毎週私たちはイエス様がお教えくださった「主の祈り」を共に捧げております。あの「主の祈り」こそ、まさに新しい誕生に関わっている祈りです。つまり、私たちは神の子供として「天にまします我らの《父よ》」と祈りながら生き始めたのです。神の家族として「天にまします《我らの》父よ」と祈りながら生き始めたのです。そのように私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それが信仰生活です。

 そのような二度目の誕生について、今日の聖書箇所でヨハネは次のように語っています。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。ここでは二度目に生まれた人について、はっきりと「神から生まれた者」と表現されています。

 神から生まれたならば既に「神の子供」です。何もしていないうちから神の子供です。神の子供らしくなったから神の子供としてもらったのではありません。王の子供として生まれたら、何もしないうちから既に王子です。どら息子でも王子は王子です。王子らしくなったから王子になるのではありません。そのように神から生まれた者は既に神の子供です。「信じる人は皆」とありますでしょう。神の子供とされるのは、神との新しい関係が与えられるのは、ただ信仰により、神の恵みによるのです。

恵みに対する応答
 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただくとするならば、その神の恵みに私たちはどうお応えしたらよいのでしょう。

 「恵み」に対するふさわしい応答とは「愛」です。神を愛することです。ですから「生んでくださった方を愛する人は皆」と続くのです。そして、神を愛するならば、そこから必然的に生まれてくることがあります。もう一度1節の初めからお読みします。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(1‐2節)。

 ここに「掟」という言葉が出てきました。この直後にも「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と語られています。神の掟については、今日の箇所の直前にもこう書かれています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 「神の掟」という表現は実にいかめしく感じますが、しかし、それは神を愛することのごく自然な帰結であるとも言えるでしょう。私たちを生んでくださったお父さんは子供たちが愛し合って共に生きることを望んでおられるのです。そのお父さんの思いに応えて生きることこそ恵みに対するふさわしい応答なのしょう。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることを意識して生活することは大切です。自分を見つめて「わたしはふさわしくない」とか「わたしは神の子供には見えない」とか言っているのではなく、生んでくださった方を見上げて「わたしは神から生まれた者です」と言ったら良いのです。

 そうすれば、隣の人も「神から生まれた者」であることが見えてくる。神が愛してやまない神の子供であることが見えてくる。父にとって大切この上ない父の子供であることが見えてくる。そうしてこそ、「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

世に打ち勝つ信仰
 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。

 ヨハネは手紙にこの言葉を書き記したとき、一つの場面を思い起こしていたに違いありません。かつてイエス様の口からこの言葉を聞いたその情景がありありと思い起こされたことでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の席でのことでした。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」。確かに主はそう言われた。その「世」とは何でしょう。神の愛を現されたイエス様が十字架につけられて殺されてしまうような世界のことです。愛の力よりも憎しみと怒りの力の方がはるかにまさって強力に支配しているように見えるこの世界のことです。命よりも死の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界です。神様よりも悪魔の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界のことです。そう、私たちもそのように見ている、この世界のことです。

 しかし、そこで主は言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主は勝利宣言をされたのです。イエス様は負けない。世に負けない。絶対に負けない。その強さはどこから来ていたのでしょう。イエス様の強さはどこにあったのでしょう。イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 そうです、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちに二度目の誕生を与え、神の子供としての誕生を与え、神から生まれた者として、私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、いわば最強のお兄さんがいるのです。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子供たちがいるのです。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいるのです。

 だから、私たちは負けません。世に生きることがいかに過酷であったとしても、決して負けることはありません。私たちは負けて滅びる者ではなく、キリストの勝利にあずかって、完全な救いに至るのです。私たちは暗闇に引きずり込まれていくのではなく、光へと命へと向かって生きていくのです。いかなるものも神の子供たちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。

2016年7月24日日曜日

「キリストの命を共に受けるために」

2016年7月24
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~29節

「主の晩餐」と呼ばれた食事
 私たちは毎週この礼拝堂に集まっています。では教会が誕生した頃、二千年前の教会はどのような場所に集まっていたのでしょうか。使徒言行録にこんな記述があります。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2:46‐47)。

 集まる場所は二つありました。一つはエルサレムの神殿です。もう一つは民家でした。神殿参りと家ごとの集会。これが信仰生活の柱でした。やがて神殿参りは失われていきました。神殿が遠ければ日々の神殿参りは不可能だったでしょうし、紀元70年には神殿そのものがローマ軍に破壊されて無くなってしまいましたから。ということで、残ったのは家ごとの集会でした。

 私たちは現在新会堂建築のために準備を進めていますが、教会堂建築の歴史を遡って行きますとたどり着くのはそのような「家の集会」です。教会堂の原型は「神殿」ではありません。人々が「集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」その「家」こそが、教会堂の原型です。

 それゆえに二千年を経て私たちが集まっているこの場所も、神殿のような形にはなっていません。これは「家」だからです。ですから正面には祭壇があるのではなく、聖所も至聖所もなく、「聖餐卓」と呼ばれる食卓が置いてあるのです。そして、私たちが今日行っていることは、かつて人々が家ごとに集まって行っていたことと基本的には同じなのです。

 そこでは食事が行われていたと書かれていました。それはただ空腹を満たすための食事ではありませんでした。単なる楽しみのための会食でもありませんでした。それは特別な食事でした。それは後に「主の晩餐」と呼ばれるようになりました。キリストが宣べ伝えられ、エルサレムから遠いところに教会が誕生したとしても、そこでは必ず同じ特別な食事、「主の晩餐」が行われました。それはエルサレムから遠く離れたコリントに誕生した教会でも同じでした。その集まりにおいて「主の晩餐」が行われていました。

 コリントの人々に最初にイエス・キリストを伝えたのはパウロでした。当然のことながら、最初に救われた人たちに「主の晩餐」を行うことを教えたのもパウロでした。使徒言行録によりますとパウロの滞在期間は一年六ヶ月でした。パウロが去った後も「主の晩餐」は続けられました。

 そのようなコリントの教会に対し、しばらくの時を経てもう一度、パウロが「主の晩餐」について説明しています。なぜこの特別な食事が行われているかを思い起こさせているのです。それが今日の聖書箇所です。

 パウロはこの食事が単なる会食ではなく、主イエスに由来することを語ります。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。そうです、それは主が教会に手渡してくださったのです。そして、教会を通してパウロも主から受け取ったのでした。そのパウロがコリントの人々に手渡しました。そのようにして彼らもまた主から受け取ったのです。

 コリントの人たちは何を主から受け取ったのか。パウロはこう続けます。「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」(24‐25節)。

 そこに書かれているように、それはキリストを記念して行う食事した。しかし、それは故人を偲ぶための食事とは異なります。キリストは故人ではありませんから。復活して永遠に生きておられる御方です。その御方が「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われるのです。それは特別な食事です。それはキリストの体を食べる食事なのです。

 それが何を意味するか、コリントの信徒たちはよく知っていたはずです。主がそのように言われたのは、イエス様が「引き渡される夜」でした。引き渡されて、主は十字架にかけられるのです。彼らのために、そして私たちのために、罪を贖うために、十字架の上にその体が釘付けられ、血が流されることを前提として、主は「これはわたしの体」「これはわたしの血」と語られたのです。私たちが罪を赦され、永遠の命にあずかるために、主は御自分の命を献げてくださったのです。そのキリストの体を受け、その血を受ける食事。それが「主の晩餐」です。

 その「主の晩餐」を食べるために彼らは集まります。目に見える形をもってキリストを一緒に食べるのです。それはお互いの関係においても決定的な意味を持つはずでしょう。キリストを食べるわたし。キリストを食べる隣の人。イエス様はわたしのために十字架で死なれた。イエス様はこの人のためにも十字架で死なれた。ならばもはや無関係ではあり得ません。キリストの命を共に受けるお互いです。そのような互いの関係を目に見える形で見せてくれているもの、それが「主の晩餐」という特別な食事なのです。

「自分自身の晩餐」ではなく
 パウロは「主の晩餐」がそのような食事であることを改めて語り、思い起こさせます。なぜなら、改めて思い起こさせなくてはならない事態が起こっていたからです。

 パウロはさらに彼らに語ります。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(27‐29節)。

 そこでは「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」ということが起こっていたのです。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする」ということが起こっていたのです。それはいったいどういうことでしょうか。

 コリントの教会で何が起こっていたのか。今日の朗読箇所においては語られておりません。実はこの前に書かれているのです。例えば次のように書かれています。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(20‐21節)。

 これが当時のコリントの教会の姿です。その集会の様子です。これはひどい。これでは集まって食べても「主の晩餐」にはならないだろう。それは今日の私たちが聞いても思います。

 少なくともこのような事態は私たちの教会では起こりません。起こりようがありません。この教会においては、主の晩餐を普通の食事の形では行っていませんから。食べるのは小さなウエハースです。飲むのは小さな杯に入った葡萄ジュースです。礼拝の中で順番に前に出て受けることになっています。酔っ払いようもないし、食べられない人が出るということもありません。

 ならばパウロがここで言っていることは私たちに無関係なのか。それはよくよく考えてみる必要があります。いったいここで問題となっていることは何なのでしょう。注目すべきは21節の言葉です。「各自が勝手に自分の分を食べてしまい…」とパウロは言います。「自分の分」と書かれていますが、これはもともと「自分自身の晩餐」という言葉なのです。「主の晩餐」を食べるために集まっているはずなのですが、それが「主の晩餐」ではなく「自分自身の晩餐」になっていた、ということなのです。

 先に集まって来た人たちは、もちろんイエス様のことを全く考えないで飲み食いしていたわけではないでしょう。彼らはもちろん「主の晩餐」を食べているつもりでいたのです。彼らが早い時間に集まっていたのは、ある意味では熱心だったからであるに違いありません。そのような彼らが、早くから集まってくる他の熱心な人々と一緒に、少しでも早く主の晩餐を行おうとしたのは主を求める熱意の現れでもあったと言えるのです。

 しかし、それがどれほど熱心な敬虔な行為であったとしても、彼らが食していたのは「自分自身の晩餐」でしかないとパウロは言うのです。「自分自身の晩餐」でしかないから、後から来る人のことを考えられないのです。後から来るのは長く働かなくてはならない貧しい人たちでした。そのような他の人々のことなど視界に入らないのです。

 いや、むしろ視界に入らないほうが、「自分自身の晩餐」は楽しめるものなのでしょう。実際、先に集まった人たちは、社会的にも経済的にも似たような者たちと共に、信仰熱心な自分たちの集会を多いに楽しんでいたに違いありません。しかし、それはもはや「主の晩餐」ではない。それは「自分自身の晩餐」でしかありません。

 考えてみれば、そのようなことは今日でも起こり得るのでしょう。いくらパンの形を変えても、どんなに儀式的に行おうと、秩序正しく行ったとしても、あるいはそこに敬虔さや感動があったとしても、それが「主の晩餐」ではなくて「自分自身の晩餐」になってしまうことは起こり得るのでしょう。他人に煩わされないで、ともかく自分が満足したい礼拝、そのような聖餐。他の人のことを心にかけ思い遣ることのできない礼拝、そのような聖餐。それはもはや「主の晩餐」とは言えないのでしょう。

 私たちがいるこの場所は「家」です。食卓のある「家」です。集まって「主の晩餐」という特別な食事を行うための「家」です。そこでは本当の意味で私たちが「共にいる」ということが本質的な意味を持っているのです。

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