2015年12月27日日曜日

「違いはそれほど重要ですか」

2015年12月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 3章26節~4章7節


キリスト・イエスに結ばれて
 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちは自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。聖書は言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。

 私たちは神の子どもたちです。この一年間、いろいろなことがありました。来る一年の間に、この世界に、私たちの人生に、何が起こるかを私たちは知りません。しかし、私たちは恐れる必要はありません。私たちは神の子どもたちです。私たちは決して寄る辺ない者となることはありません。どんなところからも呼び求めることができる、信頼に値する父親がいるのです。どんな時にも、私たちは「アッバ、父よ」と呼び求めることができるのです。

 「アッバ、父よ」とは、もともとイエス様の祈りの言葉でした。私たちはイエス・キリストが洗礼を受けた時のことを思い起こすことができます。その時、主が水から上がられると、主は聖霊が鳩のように御自分に降って来るのをご覧になりました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたのです。そのようなイエス様が、苦しみの極みにあったゲッセマネにおいても口にされた祈りの言葉でした。まさに神の子としての祈りの言葉でした。ですから、ある意味ではこれはイエス様だけが本来口にすることができる祈りであったとも言えます。

 しかし、今や聖書は私たちにこう言うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。私たちもまた、イエス様と同じように祈ることができる。「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができるのです。

 それは本来あり得ないことでしょう。罪のないイエス様が祈ったように、罪ある私たちが祈ることができる。それはあり得ないことです。生涯を通して神に従い通したイエス様と同じように、神に背いてばかりいた私たちが、それでもなお神の子どもたちとして、父を呼ぶことができる。それはあり得ないことです。ですから、パウロはただ「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。「あなたがたは皆、信仰により、《キリスト・イエスに結ばれて》神の子なのです」と言うのです。

 「キリスト・イエスに結ばれて」というのは、「キリスト・イエスの中にあって」というのが直訳です。私たちは、キリストの中に身を置くのです。私たちのために十字架におかかりくださったキリストを信じて、その中に身を置くのです。言い換えるならば、キリストが与えてくださった罪の赦しの恵みの中に身を置くのです。その具体的な目に見える形は洗礼です。ですから先の言葉はこのように続くのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。

 「キリストに結ばれて」「キリストの中にあって」という言葉が「キリストを着ている」と言い換えられました。意味は同じであることはすぐに分かります。しかし、「キリストを着ている」とは実に味わい深い言葉です。私たちはキリストの中に身を置きます。言い換えるならば、キリストを着せていただくのです。私たちは裸で神の前に立てないから、キリストを着せていただくのです。キリストを信じるとはそういうことです。

 キリストを着せていただいているということは、神は罪人である私たちを直接ご覧になるのではないということです。神はキリストを通して見てくださる。キリストを着ている者として、キリストにおける罪の贖いにあずかった者として、私たちを見てくださるのです。だからこそ、私たちはイエス様と同じように神の子どもたちとして父を呼ぶことができるのです。罪を赦していただいた者として、私たちは、キリストを着た神の子どもたちとして父を呼び求めることができるのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 そして、キリストを着ているということが神との関係において極めて大きな意味を持つだけでなく、これはお互いの関係においても大きな意味を持つのです。先の言葉はこのように続きます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)

 教会にはユダヤ人がおりギリシア人がいました。この両者は異なる者たちの代表です。またそこには奴隷がおり自由な身分の者がいたのです。男がおり女がいたのです。異なる者が共にいるということは、時として極めて不快な状況を作り出します。異なる者が共にいてなお一つとなるということは、往々にしてとても難しいことです。私たちも良く知っています。

 しかし、彼らは頑張って努力して違いを乗り越えて、互いに理解し合うことによって一つになるのではないのです。あるいは共通の目標を目指すことによって、あるいは強力なリーダーによって統率されることによって一つとなるのでもないのです。そうではなくて、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」と語られているのです。決定的に重要なのは「キリスト・イエスにおいて」ということなのです。

 「キリスト・イエスにおいて」。これは先に出てきた「キリスト・イエスに結ばれて」と同じ表現です。これまでの話から、これをさらに「キリストを着て」と言い換えてもいいでしょう。そこにはキリストを着ているユダヤ人がいるのです。キリストを着ているギリシア人がいるのです。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。

 そして、「キリストを着ている」ということが決定的に重要なこととなるならば、当然のことながら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を失うことになります。この世における様々な違いは重要性を失うのです。ここで言われているのはそういうことです。

 そのように、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、この世においていかなる立場の違いがあろうが、置かれている境遇の違いがあろうが、さらに言うならば物事の考え方の違いがあろうが、感性の違いがあろうが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語られているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。

子であれば相続人でもあります
 そして、さらに今日の箇所においては5節にも「神の子とする」という言葉が出てきました。4節からお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4‐5節)。

 実は日本語では「神の子となさる」と訳されているのですが、原文では「養子とする」という言葉が用いられているのです。口語訳では「わたしたちに子たる身分を授けるためであった」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。

 ギリシア・ローマの世界には、たとえば子どものいない金持ちが、奴隷を買い取って、解放して、家族の一員として迎えるというような制度があったそうです。その奴隷は、代価を払って買い取られた時点で新しい主人のものとなるのですが、その主人が「お前はわたしの息子になるのだよ」と言うならば、もはや奴隷ではなくなるわけです。そして、息子になったと同時に、その財産の相続人ともなるのです。パウロが思い描いているのはそのようなことです。これが私たちにも起こったのだ、と。それゆえに7節ではこう書かれているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。

 相続人であるということは、将来受け取るものがあるということです。まだ見ていないもの、手にしていないものが将来私たちを待っているということです。この手紙の5章5節にはこう書かれています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。罪人でありながら、神によって義とされました。私たちはそのままキリストを着せられて神の子とされました。ですから、その意味において、私たちは救われたと言えます。しかし、私たちが既に見ているものは、まだ本当の一部、いやまだ欠片でしかないとも言えるのです。

 私たちは自分が神の養子にされたということがどういうことかを、本当の意味で知る時が来るでしょう。私たちが神の子どもたちとして神の国の栄光を一緒に見る時、この世においてキリストを着せられていたということがどれほど大きな恵みであったかを知ることになるのでしょう。そのような同じ大きな恵みに共にあずかっていたのに、しばしばそのことを一緒に喜べず、互いの違いばかりに目を向け、互いに不平を言い合い、裁き合っていたことがどれほど愚かなことであったかを本当の意味で知ることになるのでしょう。

 今年最後の主日となりました。一年を締めくくるに当たり、私たちはもう一度、自分が何者であるかをもう一度思い起こしましょう。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」このことを共に喜び祝うことができるところにおいてこそ、そしてこの大いなる恵みを共に伝えていくところにおいてこそ、教会は一つとなることができるのです。

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