2015年12月13日日曜日

「先走ってはなりません」

2015年12月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節


魅力的な言葉?恐ろしい言葉?
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロそう語ります。これはある面、魅力的な言葉であり、同時に恐ろしい言葉でもあります。

 私たちは、往々にして人から裁かれること、ジャッジされることを恐れて行動しています。人からどう見られているのか、自分についてどう言われているのかがとても気になります。自分はこうしたいと思っても、人の目や言葉によって曲げざるを得なくなることもあります。

 ですから、人の裁きを恐れない強さ、人の目や人の言葉によって左右されない強さは、時としてとても魅力的に映ります。人の言葉によってぶれない人、人が何を言おうと自分自身を曲げない人、そのような人は時としてとても魅力的に映ります。不安の満ちる時代にはそのような指導者が求められるものですし、多くの人はそのような強さについていきます。

 そのような強さは、時としてこの世の法廷における裁きさえ恐れません。有罪とされようが投獄されようが節を曲げない人はいるものです。そのような人物によって時代が大きく動かされることもあります。記憶に新しいところでは、たとえば有罪とされ27年間も投獄されていたネルソン・マンデラ氏のような人物を思い起こすことができるでしょう。

 しかし、先の言葉は魅力的であると同時に恐ろしい言葉でもあります。人間が他の人間の裁きを全く恐れなくなることは恐ろしいことです。人間がこの世の法廷で裁かれることについて「少しも問題ではありません」と言い始めることは、ある意味ではとても恐ろしいことでもあります。

 今から6年前、アメリカにおいて、ジョージ・テイラーという医師が教会の礼拝中に射殺されるといういたましい事件がありました。射殺されたのは妊娠後期の中絶手術を行っていた医師でした。射殺したのは中絶反対の活動を熱心にしていた人でした。犯行に及んだ人物は、まさに「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と考えていた人でした。

 そのように、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という言葉は、一面において魅力的ではあるけれど、同時に恐ろしい言葉でもあります。

自分で自分を裁くことすらしません
 しかし、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この言葉によって、意味合いは大きく違ってまいります。

 「自分で自分を裁く」ということについては、ある意味ではよく分かります。自分自身を厳しく断罪すること、自分自身を責め立てることは、確かにあるからです。断罪し責め立てるだけでなく、実際に処罰することすらあります。「自分が赦せない」と言って、自分をあえて苦しめるようなことをするのです。自分の良心が責め続ける限り、処罰を続ける。そのように自分で自分を裁くことは確かにあります。

 しかし、「自分を裁く」ということは、ただ「断罪する」ことだけを意味しません。それは事柄の一面です。ここで語られているのは自分をジャッジすることですから、断罪するだけでなく、無罪を言い渡すことも含まれます。自分を正しいと見なすことも含まれるのです。そして問題は、自分で自分を断罪することよりも、むしろ自分を正しいと見なすこと、自分を義とすることにあります。

 自分を正しいと見なす時、自分に反対する者は「正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいと見なすなら、自分に反対する者は「絶対的に正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいとジャッジした自分が、今度は他者を絶対的に正しくないとジャッジするようになるのです。その場合、さらには「絶対的に正しくない人間は存在してはならない」という裁きにすらなります。そのような人が「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言い始めるなら、先のテイラー医師射殺事件のようなことが起こります。

 パウロがそのように自分で自分を裁く人であり、しかも自分を正しい者と見なす人であったなら、先ほどの「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という発言はとても怖い発言になります。実際、彼はかつてそのような怖い人でした。パウロは、かつて教会の迫害者であった時のことを次のように語っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。彼はそのようなことを行う自分を正しい人と見なしていたのです。そのように自分で自分を裁いていたのです。

 しかし、今や彼は「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言うのです。そして、その意味するところを彼はこう続けます。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4節)。

 「自分には何もやましいところはない」とパウロは言うのです。自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、普通は「わたしは正しい」という主張になるものです。特にパウロにとってはコリントの教会という具体的な相手があるのです。その間に生じている問題があるのです。パウロはコリントの教会から裁かれているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと…少しも問題ではありません」と言わざるを得ない状況があるのです。そのような時に、自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、「わたしは正しい」という主張が出て来るのが当然でしょう。

 しかし、パウロは「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と言うのです。以前のパウロなら絶対に言わなかった言葉です。「義とされる」とは、主から「正しいと見なされる」ということです。つまり、自分から見たら何もやましいところはないのだけれど、主から見たら正しい人とは見なされない、とパウロは言っているのです。主から見たら罪人だということです。そして、パウロにとっては主がどう見られるかの方が重要なのです。「自分で自分を裁かない」とはそういうことです。パウロは言うのです。「わたしを裁くのは主なのです」。

 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言い、「わたしを裁くのは主なのです」と言う。信仰に生きるとはそういうことなのです。それは喜ばしいことでしょうか。どんなに正しい人であっても、それこそパウロのように「自分には何もやましいところはない」とまで言い得る人であったとしても、それでもなお主から見れば義とされない、正しいとは見なされない、ということです。「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きることは、喜ばしいことでしょうか。

 そうです。それは喜ばしいことなのです。少なくともパウロが悲しむべきこととして語っていないことは明らかです。なぜならパウロが「わたしを裁くのは主なのです」と言う時、その「主」がどのような御方であるかを知っているからです。

 それはこの世に来られて十字架にかかってくださった御方なのです。神の御前においてはどうあがいても罪人でしかない、そのような私たちを救うために来てくださった御方です。私たちの罪を代わりに負って十字架にかかって死んでくださった御方です。その方が最終的に裁いてくださると言うのです。私たちの正しさのゆえにではなく、「自分には何もやましいところはない」からではなく、ただ十字架のゆえに義としてくださるのです。主が裁いてくださるとはそういうことなのです。だからこそ喜びをもって「わたしを裁くのは主なのです」と言って、信仰者は生きていくのです。

先走ってはなりません
 それゆえにパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と勧めます。話の流れからすると、これは特に自分を裁くことについてパウロは語っているのでしょう。繰り返しますが、あくまでも「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きていくことです。最終的に主が裁いてくださるのです。それを待たずに、先走って自分を裁いてはならないのです。

 先走って自分を正しい者としてはなりません。主がすべてを明らかにされるのです。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と書かれています。闇の中に隠されていることは、時として自分の良心にさえ隠されているものです。「自分には何もやましいところはない」と言っていたとしても、最終的に主がすべてを明らかにされた時に、ただ自分が罪であると気づいていなかっただけのことだったと知ることになるのでしょう。その意味では、「先走って何も裁いてはいけません」。

 しかし、もう一方において、先走って自分を断罪して救いから除外してもなりません。キリストの血によってさえも贖われないかのように自分を断罪することをしてはならないのです。最終的に私たちを裁くのは、私たちのために十字架におかかりくださった方なのです。その方が裁かれる前に、「先走って何も裁いてはいけません」。

 「わたしを裁くのは主なのです」。このことが分かるときに、今日読まれた最後の言葉もまた意味を持つのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。普通に考えるならば、この言葉が続くのはおかしいでしょう。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおしかりを受けるでしょう」と続くのが本当でしょう。いやそれどころか、最後の一文は「そのとき、おのおのは神によって地獄の火に投げ込まれるでしょう」となるはずであるとも言えます。すべてが明るみに出されるのですから。

 しかし、そこでなお私たちはキリストによって裁かれた者として神の前に立つのです。すなわち、キリストによって贖われ、義とされた者として神の前に立つのです。その時、神は私たちをそのキリストの僕として、そのキリストに仕えてきた管理者として見てくださるのです。罪ある者であるにもかかわらず、間違いだらけの働きをしてきた者であるにもかかわらず、それでもなお僕として主人を愛して行ってきた一つ一つのことを神は見てくださるのです。表に現れなかったことも含めて一つ一つのことを神は評価してくださるのです。そして、この世の人々からのいかなる賞賛にまさる神からの賞賛をいただくことができるのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは主の裁きによって実現する特別な出来事です。ですから、その時を待つことなく、「先走って何も裁いてはいけません」。

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