2015年12月6日日曜日

「永遠の命を得るために」

2015年12月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章36節~40節


イエス様の自己証言
 ヨハネによる福音書において、イエス様は繰り返し御自分について語っておられます。イエス様は言われました。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)。
 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。

 イエス様はこのようなことを言われる御方です。単なる自己紹介ではありません。この世界にとって、そこに生きる私たちにとって御自分がどのような存在なのかを語っておられるのです。それは父なる神から遣わされた御方として、御自分のもとに招くためです。パンのもとに来るように、光のもとに来るように、救いの門のところに来るように、羊飼いのもとに来るように、復活の命のもとに来るように、神に至る道に来るように、実を結ばせるぶどうの木につながるように。そのように御自分のもとへと招くために語っておられるのです。言い換えるならば、信仰へと招くためにです。

 もちろん、このような事を語れば、つまずきも起こるのです。抵抗を覚える人、敵対する人、殺そうとする人も起こるのです。その意味において、イエスという御方は誰もが受け入れることのできる良い教えを説いた教師ではありません。イエス様が良い教えを説いていただけならば、弱い人の友となり病人を癒していただけならば、人はつまずかないのです。あるいはイエス様が「わたしが道を示そう」と言っているだけならば人はつまずかないのです。しかし、「わたしが道だ」と言うならばつまずくのです。実際、この方の言葉を聞いて多くのユダヤ人たちはつまずいたのです。

 それはイエス様の時代においてだけではありません。この御方について宣べ伝えられる時には、いつの時代においてもつまずきが起こったのです。イエス様が語っておられるのは、人がそれを聞いてつまずいても不思議ではない言葉なのです。信じなかったとしても不思議ではない言葉なのです。その言葉の前に立たされる時、私たちが問われているのです。それでもなおこの御方を信じますか。この御方のもとに行きますか。その御方に自分自身をゆだねますか、と。

 あなたはどうですか。私たちには根源的な飢え渇きを癒してくださる方がいると信じますか。どんな暗闇においても光となってくださる方がいると信じますか。私たちには開かれた救いの門があると信じますか。命を捨てるほどに愛してくださる羊飼いがいると信じますか。その方を信じるなら、死んでも生きると信じますか。その方を通って必ず父のもとに行けると信じますか。その方につながっているならば、豊かな実を結ぶことになると信じますか。――このイエスという御方は、私たちにとってそのような存在なのだと言われるのです。

ヨハネの証しにまさる証し
 これがイエスという御方です。私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしているのです。過激な言葉をもって御自分ついて語られる御方を前にしているのです。だからこそ、今日読まれた聖書の言葉は特別な意味を持つのです。

 主はこう言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(36‐37節)。

 繰り返しますが、私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしています。しかし、私たちはイエス様の自己証言だけに耳を傾けていてはならないのです。

 一般的な裁判においては、事が立証されるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされました。自分が自分について語る証言だけでは十分ではないのです。イエス様はそのことを念頭に置いて、こう言われるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。その意味合いは、自分自身について証しをしているだけならば真実と認められなくても仕方がないということです。だから他の証言にも耳を傾けなくてはならないのです。

 主は言われます。「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」(32節)。これを聞いた人々は思ったに違いありません。「ああ、洗礼者ヨハネを引き合いにだそうとしているのだな」。ヨハネは一世を風靡した説教者であり洗礼運動の指導者でした。当時の社会に大きな影響を与えた宗教家です。そのヨハネがイエスについて語っていたのです。「この方こそ神の子である」(1:34)と。

 なるほど、イエス様が自分で言っているだけでなく、ヨハネが語っていたとなれば、それはそれで大きな意味を持つでしょう。しかし、イエス様は言われたのです。「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」。イエス様が「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われた時に意味していたのは、ヨハネのことではなかったのです。

新約聖書の証し
 イエス様はまず御自分のなさっていることに目を向けさせます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。イエス様は御自分について語られるだけではありませんでした。イエス様は行動なさったのです。イエス様は事を起こされたのです。私たちはイエス様のなさっていることに目を向けなくてはならないのです。

 「わたしの行っている業」というのは、狭い意味においてはイエス様のなさった奇跡を指します。しかし、より広い意味においては、人々との関わりにおいてイエス様のなさった数々の事を指していると言えるでしょうし、さらにはイエス様が最終的に十字架において成し遂げられた救いの御業を指していると言えるでしょう。ですから「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」という言い方がされているのです。

 そのようなイエス様の御生涯とその意味するところが新約聖書において私たちにまで伝えられているのです。そのように新約聖書に書かれているのは、書かれる以前に、イエス様のなさったことを伝えた人々がいたからです。イエス様の言葉と共に、イエス様がなさった一つ一つのことが大事なのだと思って、懸命に伝えてきた人たちがいたのです。それが後々にまで伝えられるように、福音書として書き残した人々がいたのです。なぜですか。イエス様の御生涯、特に公生涯と呼ばれる最後の三年半になさったことそのものが、この御方が誰であるかを証ししているからでしょう。

 二千年後にまで、その証言が伝えられていることはなんと驚くべき恵みでしょう。四つの福音書や新約聖書におけるその他の文書が、言葉を尽くして、イエス様のなさったこと、成し遂げられた御業とその意味するところを今日の私たちにまで伝えてくれていることは、なんと感謝すべきことでしょう。キリストの御生涯の証言である新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

旧約聖書の証し
 そして、さらに主は言われます。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。

 細かいことを申し上げますが、実はこの「証しをしてくださる」は、「既に証しをしてくださっている」というニュアンスです。文法的には完了形で書かれているのです。どういう形で既に証しをしてくださっているのか。実は、イエス様が言っているのは「聖書」の話なのです。既にイスラエルの歴史の中において神は語ってこられ、そしてその神の証言が聖書として残されているのです。聖書において、父が既にキリストについて証ししてくださっているのです。

 ですから主はさらに聖書についてこう言われるのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。この場合の「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。

 ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚きます。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、ある意味では見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったのです。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」とは有名なラビであるヒレルの言葉です。

 しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、私たち人間に必要な救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまずかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。既に父なる神がこの世にお遣わしになるキリストを既に証ししていてくださったのです。

 そのように、私たちにキリストを証しする旧新約聖書が与えられています。日本基督教団信仰告白の中にも次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」私たちはこれからも、キリストを証しする神の言葉として、旧新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。

 主はあの時、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられました。それはなんとしても御自分のところに来て欲しいという主の願いの現れでもあるのでしょう。なぜなら、この御方は私たちにとって、命のパンであり、世の光であり、救いの門であり、良い羊飼いであり、死んでも生きる復活であり、父への道であり、実を結ばせるぶどうの木だからです。それを一言で表現すれば「永遠の命」となります。主はこの命へと招いておられます。与えられている父の証しを通して、イエス様のもとに行きましょう。そして、イエス様につながっていましょう。

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