2015年12月20日日曜日

「キリストがこの世に来られた日」

2015年12月20日 クリスマス礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節


クリスマスの物語
 先ほど朗読された聖書箇所にこう書かれていました。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2章6節‐7節)。
その場面を想像してみてください。聖書は事も無げにさらりと書いていますが、考えてみれば、これは世にも悲惨な出産場面です。極めて不潔な場所で、出産に必要なものが何一つそろっていない場所で、もちろん助産婦などいようはずもないところで、マリアはまるで馬か牛のように赤ん坊を産み落とさなくてはならなかったのです。

 さて、これが聖画になりますと、実に美しい場面として描かれることになります。マリアは美しい顔で幼子を見つめています。しかし、どう考えてもそれはあり得ない。マリアの顔は、疲れ果てやつれた顔をしていたに違いないのです。生まれた赤ん坊の安全をなんとか確保して、ぐったりしているマリアがそこにいただろうと想像します。

 ではヨセフはどんな思いでその傍らにいたのでしょう。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することを望む人はいません。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。ありとあらゆる手立てを尽くしたのでしょう。しかし、結局、ここまでしかできなかったのです。

 どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただ見守るしかない。そのような時が確かにあることを私たちもまた知っています。その意味でここに描かれているのは私たちの現実でもあります。

 それはマリアにしても同じです。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょう。親は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。彼女は彼女なりにできる限りのことをしたに違いないのです。しかし、結局彼女は飼い葉桶に自分の子を寝かせたのです。頑張ったけれど、そこまでしかできなかったということです。親の悲しみがそこにあります。

 その悲しみは今日の私たちも知っています。子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会の中に、子どもたちを置かなくてはならないのです。どう考えても解決のつかない放射性廃棄物に汚染された世界に、子どもたちを置かなくてはならない。その他、ありとあらゆる問題が山積した世界の中に、子どもたちを置かざるを得ないのです。ヨセフとマリアの姿が私たちの姿と重なります。その意味でも、ここに描かれているのは、この世に生きる私たちの現実でもあります。

 それだけではありません。そもそも臨月の妻がいるのに長い旅に出なくてはならなかったこと自体が異常です。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120キロはあります。普段の生活を後にして、どうしてそんな長旅に出なくてはならなかったのか。それは皇帝が勅令を出したからだと聖書は伝えます。

 自分の願いや意志とは関係のないところで勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。自分の願いや意志とは関係なく、それまでの生活を後にしなくてはならない。ある意味では私たちも同じです。今日、勅令は皇帝が出すのではありません。ある人にとっては企業の体制再編によって、職を失うことによって、それまでの生活を後にしなくてはならない。またある場合には突然の天変地異によって、そして、ある場合には突然の病気の宣告によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。マリアとヨセフに起こった事は私たちにも起こりえることを知っています。それがこの世に生きるということです。

 これが聖書の伝えるクリスマスの物語です。クリスマスの話は美しいおとぎ話ではありません。辛く悲しい人間の現実です。マリアとヨセフが身を置いている家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴しているとも言えるでしょう。

 そのようなこの世界に生きている人が、他にも登場してまいります。羊飼いたちです。今年は、私はページェントで羊飼いの役をやらせていただきました。羊たちは教会の一番幼い子どもたちがやることになっています。それは実にかわいい羊たちです。ですから羊飼いの役は楽しい。実に楽しい。

 しかし、現実の羊飼いとなったらそうはいきません。ここに描かれているのは牧歌的なのどかな情景ではないのです。彼らは「野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。彼らは羊の所有者ではありません。雇われているのです。夜通し羊の群れの番をしているというのは、今日で言えばブラック企業による過重労働です。いや、彼らは月100時間以上の残業をしているだけではありません。獣が襲ってくることもあるのですから、所有者の羊を時としては自分の命と引き替えに守らなくてはならないのです。これは過酷な労働です。

 しかし、彼らには選択の余地はないのです。辛かろうが苦しかろうが、そうしなければ生きていけないのです。そう、どんなに苦しかろうが逃げることはできない。生きていくためには留まらなくてはならないことがある。それもまたこの世に生きる私たちの現実の描写であると言えます。

天使の賛美に加わって
 しかし、話はそれで終わりません。ここに天使が登場するのです。そのような羊飼いのところに天使が現れてこう言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。そして、天使の大軍が現れてこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

 天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を讃美していた。天使たちの持ち場は天の世界です。しかし、彼らは天において神を讃美しているのではありません。わざわざ辛い現実にある羊飼いたちのところに来て、現れて神を讃美したのです。どうしてですか。羊飼いたちも天使と共に賛美できるようにでしょう。そうです、人間が加わることができるように天使は歌うのです。天においてではなく地上において。

 これは何を意味するのでしょう。神を讃美する歌というのは、辛く苦しいこの世の現実の中で歌われるべきものだ、ということです。神を讃美する歌は天国に行って初めて歌うものではないのです。苦しみが取り去られて初めて歌うものではないのです。私たちがここでしているように、あるいは日曜日にしているように、苦難に満ち、悩みに満ちているこの世界において歌われるべきものだということです。

 それはどうしてか。それは、この世界に既に救い主が来てくださったからです。
 
 家畜小屋の場面を思い浮かべてみてください。先にも申しましたように、この汚い家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴していると言えます。しかし、そこにはヨセフとマリアだけがいるのではないのです。そこには幼子もいるのです。神によって与えられた幼子イエス、神が与えてくださった救い主が悪臭漂う家畜小屋の中におられるのです。

 ということは、その悪臭漂う家畜小屋の中にさえ、神が与えてくださる喜びがあるということでしょう。羊飼いにこう語られていたではありませんか。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びが家畜小屋の中にさえ与えられているのです。だからそこから神を誉め讃えるのです。そこにおいて神を礼拝するのです。


 今から五年前のちょうど今頃ですが、五十代の女性が教会を訪ねてこられました。重い病気を負った方でした。彼女は残された短い人生をどう生きたら良いのか、「生き方」を求めて聖書を学び始められました。しかし、彼女が聖書を通して知ったのは「生き方」ではなくて、生きておられる神様であり、救い主であるイエス・キリストでした。半年後、彼女はイエス・キリストを信じ、キリストに自分自身をおゆだねし、病床にて洗礼を受けられました。彼女の人生に、救い主イエス・キリストが入って来られました。

  私は当時を思い起こしながらこう思うのです。彼女が信じたキリストは、ある意味では家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスであったと言えるだろうと。

 依然として家畜小屋の現実はあります。それは彼女にとっては病気という現実でした。病気と闘い、病気と折り合いをつけながら、生きていかなくてはなりません。しかし、そこには彼女と御主人だけがいるのではない。そこには救い主がいるのです。救い主がおられるならば家畜小屋の意味は違ってくるのです。そこで人は神と共に生きることができる。神が与える喜びにあずかることができる。そこで人は神を讃美して生きることができるのです。

 彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。「いと高きところには栄光、神にあれ」。あの天使の讃美に彼女も確かに加わっていたのです。そして初めてお会いした時からちょうど一年後の12月、彼女は救われた人として、天使の歌声に加わっていた人として、天に召されていきました。毎年クリスマスが近づくと、いつでもその方のおだやかな笑顔が思い出されます。

 救い主は来られました。この世界に来られました。そして、私たちの人生の中にもおいでくださいます。私たちが身を置く家畜小屋の中にイエス様が共にいてくださいます。私たちはそれゆえに、そこから神を賛美して生きることができるのです。

2015年12月13日日曜日

「先走ってはなりません」

2015年12月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節


魅力的な言葉?恐ろしい言葉?
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロそう語ります。これはある面、魅力的な言葉であり、同時に恐ろしい言葉でもあります。

 私たちは、往々にして人から裁かれること、ジャッジされることを恐れて行動しています。人からどう見られているのか、自分についてどう言われているのかがとても気になります。自分はこうしたいと思っても、人の目や言葉によって曲げざるを得なくなることもあります。

 ですから、人の裁きを恐れない強さ、人の目や人の言葉によって左右されない強さは、時としてとても魅力的に映ります。人の言葉によってぶれない人、人が何を言おうと自分自身を曲げない人、そのような人は時としてとても魅力的に映ります。不安の満ちる時代にはそのような指導者が求められるものですし、多くの人はそのような強さについていきます。

 そのような強さは、時としてこの世の法廷における裁きさえ恐れません。有罪とされようが投獄されようが節を曲げない人はいるものです。そのような人物によって時代が大きく動かされることもあります。記憶に新しいところでは、たとえば有罪とされ27年間も投獄されていたネルソン・マンデラ氏のような人物を思い起こすことができるでしょう。

 しかし、先の言葉は魅力的であると同時に恐ろしい言葉でもあります。人間が他の人間の裁きを全く恐れなくなることは恐ろしいことです。人間がこの世の法廷で裁かれることについて「少しも問題ではありません」と言い始めることは、ある意味ではとても恐ろしいことでもあります。

 今から6年前、アメリカにおいて、ジョージ・テイラーという医師が教会の礼拝中に射殺されるといういたましい事件がありました。射殺されたのは妊娠後期の中絶手術を行っていた医師でした。射殺したのは中絶反対の活動を熱心にしていた人でした。犯行に及んだ人物は、まさに「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と考えていた人でした。

 そのように、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という言葉は、一面において魅力的ではあるけれど、同時に恐ろしい言葉でもあります。

自分で自分を裁くことすらしません
 しかし、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この言葉によって、意味合いは大きく違ってまいります。

 「自分で自分を裁く」ということについては、ある意味ではよく分かります。自分自身を厳しく断罪すること、自分自身を責め立てることは、確かにあるからです。断罪し責め立てるだけでなく、実際に処罰することすらあります。「自分が赦せない」と言って、自分をあえて苦しめるようなことをするのです。自分の良心が責め続ける限り、処罰を続ける。そのように自分で自分を裁くことは確かにあります。

 しかし、「自分を裁く」ということは、ただ「断罪する」ことだけを意味しません。それは事柄の一面です。ここで語られているのは自分をジャッジすることですから、断罪するだけでなく、無罪を言い渡すことも含まれます。自分を正しいと見なすことも含まれるのです。そして問題は、自分で自分を断罪することよりも、むしろ自分を正しいと見なすこと、自分を義とすることにあります。

 自分を正しいと見なす時、自分に反対する者は「正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいと見なすなら、自分に反対する者は「絶対的に正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいとジャッジした自分が、今度は他者を絶対的に正しくないとジャッジするようになるのです。その場合、さらには「絶対的に正しくない人間は存在してはならない」という裁きにすらなります。そのような人が「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言い始めるなら、先のテイラー医師射殺事件のようなことが起こります。

 パウロがそのように自分で自分を裁く人であり、しかも自分を正しい者と見なす人であったなら、先ほどの「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という発言はとても怖い発言になります。実際、彼はかつてそのような怖い人でした。パウロは、かつて教会の迫害者であった時のことを次のように語っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。彼はそのようなことを行う自分を正しい人と見なしていたのです。そのように自分で自分を裁いていたのです。

 しかし、今や彼は「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言うのです。そして、その意味するところを彼はこう続けます。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4節)。

 「自分には何もやましいところはない」とパウロは言うのです。自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、普通は「わたしは正しい」という主張になるものです。特にパウロにとってはコリントの教会という具体的な相手があるのです。その間に生じている問題があるのです。パウロはコリントの教会から裁かれているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと…少しも問題ではありません」と言わざるを得ない状況があるのです。そのような時に、自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、「わたしは正しい」という主張が出て来るのが当然でしょう。

 しかし、パウロは「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と言うのです。以前のパウロなら絶対に言わなかった言葉です。「義とされる」とは、主から「正しいと見なされる」ということです。つまり、自分から見たら何もやましいところはないのだけれど、主から見たら正しい人とは見なされない、とパウロは言っているのです。主から見たら罪人だということです。そして、パウロにとっては主がどう見られるかの方が重要なのです。「自分で自分を裁かない」とはそういうことです。パウロは言うのです。「わたしを裁くのは主なのです」。

 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言い、「わたしを裁くのは主なのです」と言う。信仰に生きるとはそういうことなのです。それは喜ばしいことでしょうか。どんなに正しい人であっても、それこそパウロのように「自分には何もやましいところはない」とまで言い得る人であったとしても、それでもなお主から見れば義とされない、正しいとは見なされない、ということです。「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きることは、喜ばしいことでしょうか。

 そうです。それは喜ばしいことなのです。少なくともパウロが悲しむべきこととして語っていないことは明らかです。なぜならパウロが「わたしを裁くのは主なのです」と言う時、その「主」がどのような御方であるかを知っているからです。

 それはこの世に来られて十字架にかかってくださった御方なのです。神の御前においてはどうあがいても罪人でしかない、そのような私たちを救うために来てくださった御方です。私たちの罪を代わりに負って十字架にかかって死んでくださった御方です。その方が最終的に裁いてくださると言うのです。私たちの正しさのゆえにではなく、「自分には何もやましいところはない」からではなく、ただ十字架のゆえに義としてくださるのです。主が裁いてくださるとはそういうことなのです。だからこそ喜びをもって「わたしを裁くのは主なのです」と言って、信仰者は生きていくのです。

先走ってはなりません
 それゆえにパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と勧めます。話の流れからすると、これは特に自分を裁くことについてパウロは語っているのでしょう。繰り返しますが、あくまでも「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きていくことです。最終的に主が裁いてくださるのです。それを待たずに、先走って自分を裁いてはならないのです。

 先走って自分を正しい者としてはなりません。主がすべてを明らかにされるのです。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と書かれています。闇の中に隠されていることは、時として自分の良心にさえ隠されているものです。「自分には何もやましいところはない」と言っていたとしても、最終的に主がすべてを明らかにされた時に、ただ自分が罪であると気づいていなかっただけのことだったと知ることになるのでしょう。その意味では、「先走って何も裁いてはいけません」。

 しかし、もう一方において、先走って自分を断罪して救いから除外してもなりません。キリストの血によってさえも贖われないかのように自分を断罪することをしてはならないのです。最終的に私たちを裁くのは、私たちのために十字架におかかりくださった方なのです。その方が裁かれる前に、「先走って何も裁いてはいけません」。

 「わたしを裁くのは主なのです」。このことが分かるときに、今日読まれた最後の言葉もまた意味を持つのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。普通に考えるならば、この言葉が続くのはおかしいでしょう。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおしかりを受けるでしょう」と続くのが本当でしょう。いやそれどころか、最後の一文は「そのとき、おのおのは神によって地獄の火に投げ込まれるでしょう」となるはずであるとも言えます。すべてが明るみに出されるのですから。

 しかし、そこでなお私たちはキリストによって裁かれた者として神の前に立つのです。すなわち、キリストによって贖われ、義とされた者として神の前に立つのです。その時、神は私たちをそのキリストの僕として、そのキリストに仕えてきた管理者として見てくださるのです。罪ある者であるにもかかわらず、間違いだらけの働きをしてきた者であるにもかかわらず、それでもなお僕として主人を愛して行ってきた一つ一つのことを神は見てくださるのです。表に現れなかったことも含めて一つ一つのことを神は評価してくださるのです。そして、この世の人々からのいかなる賞賛にまさる神からの賞賛をいただくことができるのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは主の裁きによって実現する特別な出来事です。ですから、その時を待つことなく、「先走って何も裁いてはいけません」。

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