2015年11月8日日曜日

「祝福を受け、祝福となる」

2015年11月8日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 12章1節~9節


あなたは祝福となれ
 今日は「子ども祝福礼拝」です。私たちは皆、心を合わせて子どもたちの上に神の祝福を祈り求めます。「祝福」とは何か。それは命の満ち溢れた状態です。命が満ち溢れ、溢れ流れて未来を開くのです。ですから、旧約聖書においては、例えば農作物の豊作、家畜の多産、一族の子孫が増え広がることが神の祝福の現れとして語られます。もちろんそれらが神の祝福の全てではありません。神様が人間に与えようとしているのは、目に見えるものを越えて限りなく豊かなものです。

 新約聖書においてパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)と言っています。神が与えようとしている祝福は、神の命の満たしは私たちの思いを越えて豊かなものとして、万物を与えられるに等しいものとして与えられるのです。それは最終的には神の国における救いの完成にまで至ります。そのような未来を開く命の満たしを神からのものとして求める。それが祝福を祈り求めるということです。

 今日の聖書箇所には、神御自身から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人物が登場してきます。アブラハムです。その時点ではまだ名前はアブラムでした。主はアブラムにこのような約束の言葉を与えられたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神は開かれるべきアブラハムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。しかし、神には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。イスラエルの民が見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない開かれた未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源となるように」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「あなたは祝福となれ」と書いてあるのです。祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は他者にとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そのように神が子どもたちを祝福するとするならば、それは子どもたちがこの世界の祝福となるためです。祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となるような未来が開かれることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

信仰によって
 そのように、神はアブラムを祝福するとの約束を与え、その目的はアブラムが祝福となるためでした。しかし、私たちはその前に主が次のように語られたことを心に留めなくてはなりません。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。

 アブラムの生まれ故郷はどこでしょう。アブラムが生まれたのはカルデアのウルでした。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこからアブラムの父テラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移住しました。アブラムが主の呼びかけを聞いたのは、そのハランにおいてでした。ですから、厳密に言えば、アブラムは既に生まれ故郷は離れていることになります。

 実は、「生まれ故郷」と訳されているこの言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳なのです。ですから、必ずしもウルのことではないのです。「あなたの地」と言われているのは、寄留者ではないということです。彼には「わたしの地」と言えるものがあるのです。そこでは安心して生活できるのです。しかし、主はそこから旅立つようにと言われたのです。

 それは父テラがウルからハランに移住した時のように、ただ別の地が「あなたの地」になるということではありません。ここにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるということは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。

 ここからは主に導かれ、主に従って生きていくのです。主に信頼して生きていくのです。ただ別の地を「わたしの地」として生きることではないのです。それは人生の根本的な転換です。それを「信仰」と呼ぶことができるでしょう。アブラムは「わたしの地」から踏み出して信仰によって生きる新しい生活へと招かれたのです。

 その招きに続いて先に読んだ祝福の約束は語られているのです。祝福を与えてくださるのは神ですが、祝福には受け取り方があるからです。4節には何と書いてありますか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。実際に、神に信頼し、現実に一歩を踏み出したのです。旅立ったのです。彼は信仰によって生き始めたのです。そのようにして祝福の約束を受け取ったのです。これが受け取り方です。

 アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単に善い人間になることでも有能な人間となることでもないのです。私たちは「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と思うのでしょう。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かった。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

祭壇を築いた
 その具体的な姿は「旅立った」と表現されていますが、それだけではありません。その続きがあります。旅立ったアブラムはどうしたでしょう。アブラムはハランからカナン地方に向かって旅立ち、やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先住民がいるということは、そこで寄留者になるということです。「わたしの地」に住んでいた時にはなかった困難がそこにはあったことでしょう。しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」。

 彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。祭壇とは礼拝の場所であり祈りの場所です。祭壇を築きつつ旅をするということは祈りながら生きていくということに他なりません。信仰生活とは祈りの生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように信仰は観念ではありません。ただ神について考えることではありません。信仰は具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、私たちにとっても目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があるのです。今日、私たちが祝福を祈り求めた子どもたちが、そして、私たち自身が、そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、祝福を受けて祝福となることを信じて、これからも主と共に歩み続けてまいりましょう。

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