2015年11月22日日曜日

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」

2015年11月22日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 1章4節~8節


今おられる御方
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるための手紙です。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。そして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉が続きます。これはもう一度8節で繰り返されます。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。

 主なる神は、「やがて来られる方」として語られています。「やがて」という言葉は原文にはありません。ですからこれは「いつか遠い未来に来られる」という意味ではありません。いわば刻々とこちらに向かって近づいて来ているということです。神の足音が近づいて来るというイメージでしょうか。もちろん救いのために近づいて来られるのです。

 迫害の中にある教会にとって、この言葉がどれほど大きな慰めであったかを思わされます。彼らの集まりは常に脅かされていました。いつでも近づいて来るものに脅かされていました。それこそ誰かが近づいて来る足音に脅かされていたでしょう。さらに言うならば常に死の足音が近づいて来るのが聞こえるということでもある。しかし、そのような教会に対して、本当に意識すべきは死が迫り来ることではなくて、「神が近づいて来られる」ということだとヨハネは語るのです。そちらの方が死の迫りよりも重要なのだということです。

 そして、そこには不思議なことが書かれているのです。「やがて来られる」ならば、論理的に考えるならば「それまではいない」ということになるではありませんか。しかし、その前には「今おられ、かつておられ」と書かれているのです。

 艱難の時は永遠に続くのではありません。死の迫り来る足音に怯える時は永遠に続くのではありません。神が到来するのです。救いの時が来るのです。まさに神が神として御自身を現される時が来るのです。しかし、救いが実現した時になって初めて主なる神が共にいてくださるのではないのです。そうではなくて、実はその神が「かつておられ」たと知ることになるのです。すなわち過去もまた神と共にあったと知ることになるのです。

 想像して見てください。迫害の中にあって、仲間が捕らえられて殺されてしまったとなったらどうですか。それこそ、まさに神が不在であったとしか人間の目には映らないではありませんか。この世の悪の力だけ、死の力だけが支配している。神はおられなかった、と。しかし、そうではないのです。「かつておられ」とヨハネは言うのです。

 私たちもそうでしょう。過去の悲しい出来事。なんであんなことになったのか、と思うこと。神様はあの時おられなかった。そう思えるようなことがあるでしょう。しかし、そうではなかったと知る時が来るのです。確かに神はおられた。そして、その時には見えなかったけれど、確かにわたしは神の愛の支配の内にあった。そう知る時が来るのです。「かつておられ」とはそういうことです。

 だからそれを信じて、今を生きるのです。それゆえに最初に「今おられ」と書かれているのです。ヨハネは苦難の中にある教会に、まず「今おられ」と宣言するのです。神である主は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでない。そうです、「今おられる!」。このヨハネの黙示録は、ただ未来についての予告を書き記したような手紙ではありません。そうではなくて、大事なことは、最後を握っておられる方、その御方が「今おられ」と信じて生きるための手紙なのです。

真実な証人
 そのように私たちは主なる神が「今おられる」と信じて、共に集まって礼拝し、その御子イエス・キリストを主として生きていくのです。その御支配の中にあると信じて生きていくのです。その御方についてはこう書かれています。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト(から恵みと平和があなたがたにあるように)」(5節前半)。

 私たちが仰ぐその御方こそ「証人」です。「証人、誠実な方」はまた「真実な証人」とも訳せます。またヨハネの黙示録が書かれた頃、「証人」という言葉はまた「殉教者」という意味をも持っていました。命をかけた証人です。その意味では、イエス様こそ、命をかけた第一の証人でしょう。

 イエス・キリストこそ、私たちに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なる神を証ししてくださった御方です。神が不在と思えるような苦難の中にあってなお、この御方は命をかけて、「神はおられるよ、あなたを愛しておられるよ、あなたと共におられるよ」と身をもって証ししてくださった御方です。

 その御方は「死者の中から最初に復活した方」だと語られています。そう訳されていますが、本当は「死者の中から最初に生まれた方」あるいは「死者の中からの長子」と書かれているのです。同じ表現はコロサイ書にもあります。これは実は重要な言葉なのです。イエス様は死んで葬られたのだけれど、そこに閉じ込められてはいませんでした。死の中に閉じ込められていませんでした。ちょうど母の胎から生まれるように、そこから出て来られたのです。そのようにして、イエス様は死の意味を変えてしまいました。イエス様によって、死は新しい誕生をもたらす母の胎とされたのです。

 考えてみてください。「神はおられない」という叫びが最も悲痛なものとなるのは人の死に際してではありませんか。死に直面するときに、特に悲惨な死に直面する時に、「ああ、神なんておられない。あるいはおられたとしても、わたしと共にはいてくださらない」と思うわけでしょう。それこそ肉の目から見れば、イエス・キリストの死こそ、あの理不尽な死こそ、神不在のしるし以外の何ものでもないでしょう。しかし、イエス様は死を新しい誕生にしてしまって、「神は共にいるよ」と証ししてくださったのです。「神はあなたと共にいるよ。そして、死を新しい命への誕生に変えてしまわれたよ」と。

王として、祭司として
 そのような御方を私たちは信じているのです。そのような御方に栄光を帰し、共に礼拝を捧げているのです。ヨハネも次のような言葉をもってキリストを讃えます。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

 まず、キリストは「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。私たちは愛されているのです。救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。迫害さえもある。そのような現在において、私たちは既に愛されているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかしやがて私たちは完全な勝利の中で完全に罪の力から解放された自分自身を見ることになるのです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。

 しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは王として、キリスト以外の何ものにも支配されない王として生きたらよいのです。真に畏れ従うべき御方を知るとはそういうことなのです。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは他者の上に罪の赦しを求めることができる。この世の上に罪の赦しを求めることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことでしょう。そして、なんと光栄に満ちた務めを与えられていることでしょう。それはただキリストのゆえなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

 これが私たちの信じるキリストです。私たちが礼拝を捧げている御方です。私たちもヨハネに声を合わせて主を讃えたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

以前の記事