2015年10月25日日曜日

「目に見えない神の目に見える姿」

2015年10月25日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節


御子は、見えない神の姿
 初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。実に壮大なキリスト賛歌です。当時の人たちはこの信仰を高らかに歌いあげていたのです。これこそまさにパウロ自身も知り、経験していたキリストです。私たちが信じているキリストを思い描く時、このようなキリストを思い描いているでしょうか。

 その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。

 人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子・キリストなのです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。

 いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。そうです、罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。

 皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿として神が啓示されているのは、そのような姿としてしか神を知り得なかったのは、人間に罪があるからです。人間と神との関係が歪んでいるからです。壊れているからです。

 そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子なる神なのです。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。

 そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。私たちはそのような方を指して、「われらの主、イエス・キリストを信ず」と言っているのです。

 「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのように実に大きな御方です。はたしてそのような意識を持って信仰生活を営んでいるだろうか。そのような意識をもってキリストと共に歩んでいるだろうかと考えさせられます。私たちはしばしば見える現実の方がキリストよりも大きいと考えているのです。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのです。この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。しかし、キリストよりも大きいわけではありません。所詮は被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方です。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じているのです。

 そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。

 私たちが創造主の目的とするところを離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはありません。人間の手を離れて部屋の隅に転がっているボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。

 逆に言えば、私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態になっても、大丈夫なのです。御子に向いているならば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。

十字架の血によって
 さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。

 先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということであります。こうして、御子は父なる神を現わされたのです。

 しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。

 ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような大変な出来事であることが分かります。その言葉にいつのまにか驚きも感動も覚えなくなっているとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。小さくなってしまっているのです。

 神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。万物をご自身と和解させるためでした。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているかと申しますと、人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。本日はそのことにはこれ以上触れません。ローマの信徒への手紙8章19節以下をお読みください。今日は特に人間、すなわち私たち自身のことのみを考えたいと思います。

 御子の血が注がれることを良しとされた神の目的は、御子によって私たちを御自分と和解させることでした。正しい関係を回復し、交わりを回復するためでした。とは言っても、もともと責任は神様にあったのではありません。人間にあったのです。人間の罪が問題でした。先にも申しましたように、私たち人間の罪が神との交わりを壊したのです。人間が神に背を向けていたのであってその逆ではありません。

 しかし、神がその交わりを回復しようとしてくださいました。交わりの回復のためには罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。どのようにでしょうか。御子を十字架にかけ、血を流すことによってです。「十字架の血によって」とはそういうことです。

 万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。私たちの小さな頭で把握することのできないほどに大きな事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えた恐ろしく大きな出来事なのです。

 実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、そして粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。

 そして、御子は、「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるだけでなく、「死者の中から最初に生まれた方」と語られています。そこで表現されているのはキリストの復活です。キリストは復活されて今も生きておられます。私たちの救いを為し遂げてくださった方は今も、教会の頭として生きておられます。私たちはその御子の支配下に移されたのです。今もその御方のもとに生かされているのです。それが私たちに与えられている信仰生活です。

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