2015年10月11日日曜日

「完成に向かって」

2015年10月11日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章1節~11節


わたしは感謝します!
 今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。

 この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。彼は獄中にいる未決囚としてこれを書いているのです。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に敵対する者たちが自らの勢力を拡張するために働きを進めていたのです。15節以下にはこう書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言います。彼が神に感謝を捧げているのは、単に彼の為していることが順調に進み、彼が望ましい境遇にあるからではありません。感謝の言葉など出て来ようはずもない状況において、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げているのです。

 彼はフィリピの教会を思い起こしながら、感謝を捧げます。それは彼自身は望ましい境遇になくても、フィリピの教会そのものは喜ばしい状態にあったからでしょうか。平和と調和を保った理想的な教会だったからでしょうか。いいえ、どうもそうではなさそうです。例えば、2章においてパウロは次のように書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)。つまり、現実にはそうなっていないということです。

 また、この教会も他の教会と同じように異端の教師たちが入り込んでいました。ゆえに、パウロはこの同じ手紙の中で、実に激しい言葉でこのように語っているのです。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。このようにフィリピの教会もまた他の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持っていたのです。

 それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言うのです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。彼はそのような状態にあってもなお喜びをもって祈ることができるのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。

 パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じました。彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らがスタートしたと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。

 ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。

最初の日から今日まで
 そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。ならばパウロの言わんとしていることは、彼らが「福音にあずかり続けている」ということでしょう。

 この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、共にパンを裂き、キリストの体と血とに与りつつ、その命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。そして、大切なことは、パウロのこの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉が「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているという事実です。「最初の日」だけが重要なのではないのです。

 この国においてキリスト教人口はいまだ1パーセントに過ぎません。そのような社会の中で洗礼を受けてキリスト者となるということは、一般的に大きな決断を伴います。洗礼を受けるまでに大いに悩んで考えて決心する人もいるのでしょう。そして、神の御前において畏れをもって洗礼を受けるのでしょう。そのように洗礼と入信、「最初の日」は大変重く受け止められるものです。

 しかし、その「最初の日」と同じほどに重要なのが「今日まで」ということなのです。今、ここにおいてキリストを信じる者として恵みにあずかっているという事実なのです。そのように信仰生活が継続されていることなのです。繰り返し変わることなく聖餐卓を囲んで礼拝を続けていることなのです。「洗礼」だけでなく、その後に繰り返しあずかることになる「聖餐」もまた同じように重く受け止められなくてはならないのです。実際どうでしょう。洗礼を受けた時と同じ思いをもって聖餐のパンと杯を受け取っているでしょうか。

 パウロにはその重さが分かっているのです。実際には問題が山積している教会かもしれない。パウロとの関係も常に良好であったわけではないかもしれない。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。

キリスト・イエスの日までに
 そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。6節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。

 神の始められた善い業が成し遂げられる。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるということです。具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。彼が何を考えてこのように語っているのかは、その祈りの言葉によく表れています。9節以下をご覧ください。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。

 彼はフィリピの教会のために、そこに生きる信仰者のために、このように祈るのです。神に祈るということは、当然のことながら信じて祈っているのです。そうなると信じて祈っているのです。キリストの日に備えて、本当に愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるようになり、清い者、とがめられるところのない者となり、義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れをたたえる者となる。私たちはそのような者に、本当になれるのでしょうか。他の人についてそう思えますか。信じられますか。自分自身について、そうなれると思いますか。なれると信じられますか。

 今、パウロが私たちと手紙のやりとりをしていたら、パウロは同じことを書いてくれるでしょうか。同じように祈ってくれるでしょうか。――わたしは同じように祈ってくれるに違いないと思います。なぜなら彼はこのように信じている人だからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。ならば私たちもまたパウロと共に信じて、共に祈るべきなのでしょう。教会のために、他者のために、そして自分自身のために。

 これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださることです。ならば、大切なことは何でしょうか。福音に与り続けるということです。「最初の日から今日まで」です。そして、明日も明後日もその次の日も、キリスト・イエスの日まで。現在は救いの完成に至るプロセスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。目に映るところはどのような状態であれ、パウロのように「わたしは感謝します!」と神に感謝を捧げながら、神の成し遂げてくださる御業を信じて共に祈り求め続けましょう。

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