2015年9月27日日曜日

「関心を向けておられる神」

2015年9月27日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 16章19節~31節


人間の無関心・神の関心
 今日の福音書朗読で読まれましたのはイエス様のたとえ話でした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。

 何のためにイエス様はこのような話をなさったのでしょう。実はこの類いの話はユダヤ人社会においては珍しくなかったと言われます。似たような話がいくつも知られていたのです。恐らくイエス様はそのような中から題材を取られたと思われます。何のためだったのでしょう。金持ちの贅沢を戒めるためでしょうか?金持ちに対する施しの勧めでしょうか?

 実は、イエス様が語りかけている相手は金持ちではないのです。この話を聞いているのはファリサイ派のユダヤ人です。少し前を見ると「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と書かれています。これは実に微妙な表現です。ファリサイ派の人ならば金に執着しているとは思われたくないはずです。金に執着して阿漕なことをしている徴税人たちがもう一方にいるからです。彼らは金持ちです。ファリサイ派の人たちは、そんな金持ちを軽蔑しているのです。だから彼らと我々は違う、と言いたい。でも本心を言えば、金は欲しい。そんな感じでしょうか。

 実際、表向きにはファリサイ派の人は金に執着などしていないのです。律法にかなった正しい生活をしているので悪い金は入ってこない。だから一般的には貧しいのです。その貧しさの中から、敬虔な業として施しもするのです。イエス様の話を聞いているのは、そんな人たちです。そんなファリサイ派の人たちに「金持ちに対する戒め」を語っても意味がありません。「施しの勧め」などしなくても、既に彼らはしているのです。

 ではイエス様がこの話をなさったのは何のためでしょう。これを聞いているファリサイ派の人たちに、イエス様は先にこんなことを言っておられます。「あなたたちは自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(15節)。そうです、イエス様が問題にしているのは「心」なのです。このたとえ話においても大事なのはその「心」なのです。

 金持ちなのが問題なのではありません。毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのが問題なのではありません。問題はその「無関心」にあります。この金持ちはラザロが門前にいたことは知っているのでしょう。「ラザロ」の名前さえ知っているのですから。しかし、その苦しみに関心を寄せることはありませんでした。その存在に関心を寄せることはありませんでした。ラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。

 これが「無関心」の話ならば、それは私たち全ての人に関わっている話です。金持ちであろうがなかろうが関係ありません。貧しい人が他の貧しい人に無関心ということもあり得ますから。マザー・テレサがしばしば口にしておられたように、愛の反対は憎しみではなく「無関心」なのです。罪の本質が愛の欠如にあるとするならば、この金持ちの描写は極端に描かれてはいますけれど、実は誰の内にもある罪深さの描写であると言えるでしょう。その意味でこの金持ちの姿は私たちと重なります。

 しかし、ここに語られているのは人間の愛の欠如と無関心だけではありません。そうではなく、神の関心と憐れみもまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに関心を寄せている方がおられたのです。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。

 死の手前までしか見なければ、ラザロは誰からも顧みられず神からも見捨てられて死んでいった惨めな人と見えるでしょう。しかし、そうではなかったと言うのです。神はラザロを知っておられた。そして、その神が憐れんでくださった。報いてくださった。ラザロは正しい人であったからではありません。貧しかったけれど敬虔な人であった、罪のない人であったなどと、どこにも書かれていません。これはラザロがどうであったかではないのです。そこにあるのは人間の苦しみに関心を寄せておられる神の憐れみなのです。

 ここにおいて、金持ちの姿が私たちに重なるだけでなく、ラザロの姿もまた私たちと重なってくるのです。私たちの中に、ラザロのように死んでいく人はいないかもしれません。しかし、誰からも関心を向けられることのない私たちの苦しみ、生きている間には誰からも分かってはもらえない、誰からも顧みられることのない私たちの痛みというものは、人それぞれ違えどもあろうかと思うのです。しかし、神は関心を向けていてくださる。そして、神は憐れんでくださる。報いてくださるのです。

聖書に耳を傾けよ
 しかし、このたとえ話は人間の無関心と神の関心を描き出すに留まりません。さらに話は続きます。そして、イエス様が本当に伝えたかったことは後半部分にあるのです。

 27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか。聖書の言葉が既に与えられているではないか、ということです。

 これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の裁きと苦しみを語るなら、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言っているのであり、このたとえ話をしているイエス様もそう言っておられるのです。

 そもそも死後の世界から誰かが生き返って語らなくても、この話を聞いているファリサイ派の人たちは死後の世界を既に信じているのです。最初に申し上げたとおり、イエス様は彼らにとっても馴染み深いような話をあえて題材として用いているのです。ここに語られているように、神の裁きがあること、人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。

 しかし、そのようなところから他者への関心、他者への愛は生まれたのでしょうか。いいえ、そうならなかったのです。宗教的な義務として施しをしたとしても、その他の善行を積んだとしても、考えているのは自分の救いのことだけだったのです。ですから、救われるために宗教的な義務は果たすのですけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても一緒に喜べないのです。悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても一緒に喜べないのです。神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。彼らの苦しみにも彼らの救いにも関心がないからです。

 他者への関心や愛は、死後の世界に対する恐怖などから生まれることはありません。たとえ死後の世界から人が戻っても、死後の世界をリアルに語ったとしても、それによって真の悔い改めが起こることはないのです。イエス様がなさっているこの話にしても、イエス様は恐怖を煽るために話しているのではないのです。死後の苦しみをどんなに描き出しても、それによって悔い改めが起こらないことは、イエス様が一番ご存じだからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいなのです。

 では大事なことは何でしょう。この話の中でアブラハムは言っていました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。

 聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。「死んだらどうなる」という話は全くと言っていいほど書かれておりません。そうではなくて、聖書が語っているのは人間の罪と神の愛なのです。人間がどれほど神に背いているのか。そして、それにもかかわらず神がどれほど人間を愛し、赦して救おうとしておられるのかということです。その神は、最終的には独り子さえもこの世に遣わして、私たちを赦して救うために御子を十字架にかけられたのです。その神の救いの御業を指し示しているのが聖書なのです。

 聖書に耳を傾けなさい。イエス様はこのたとえを通してそう語っておられます。それはさらに言うならば、その聖書の語っていることが私において実現していることを知りなさい、罪人を憐れんでくださる神の愛が私において完全に現れされていることを知りなさい、ということでしょう。

 そのイエス様の思いは、弟子たちにしっかりと手渡されたのでした。この福音書の最後の部分にこう書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(24:44‐48)。

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