2015年9月20日日曜日

「大きな利得の道」

2015年9月20日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙Ⅰ 6章1節~12節


愛する機会に
 初期の教会には奴隷の身分の人たちが少なくありませんでした。新約聖書に度々奴隷の身分の人たちへの勧めが記されているのはそのような事情によります。今日お読みしたのもそのような箇所の一つです。

 ここでパウロは、まず1節において、主人が信者でない場合について、次のように勧めています。「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」(1節)。

 もともと尊敬できる主人の下にいるなら何の問題もありません。こんな勧めも必要ないのです。しかし、往々にしてそうはならない。自分を不当に扱う主人にも仕えねばなりません。粗野で教養のかけらもないような主人であっても仕えねばなりません。するとどうなるか。表面的には恭しく主人に仕えているように見えながら、その心の内において主人を軽蔑するということが起こります。そのような心情は私たちも経験することがありますから、よく分かります。

 ただでさえそうなのですから、そのような奴隷がキリスト者になった場合、不信心な主人をいよいよ見下すようになるということは起こり得ることでした。私は救いの真理を知った。主人は偉そうにしているけれど、最も大切な真理を知らない。私はキリストによって救われた。主人は救いのなんたるかを知らない。神の国も永遠の命も知らない、と。

 しかし、そのように人を見下す思いがあると、それは行動の端々に出てしまうものです。鼻持ちならない態度として出てしまうものなのです。主人は思うでしょう。「この教えは人を生意気にさせる教えだ。この教えは実に鼻持ちならぬ人間を作り出す教えだ」と。そして、キリストを罵るようになるかもしれません。どうでしょう。すると本来は福音を証しするはずのキリスト者が、このようにして人に神の御名と教えとを冒涜する機会を与えてしまうことになるのです。

 だからパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」(1節)と言っているのです。

 さらに2節において、主人がキリスト者の場合について書いています。そこでは別の問題が起こってまいります。主人と奴隷は主の食卓においてはまったく平等な兄弟となるのです。主人がキリスト者となるまでは、打ち叩かれることを恐れて働いていたかもしれません。主人はもう打ち叩かなくなるでしょう。すると、恐れが従順に働くことの動機であった人は、その動機を失うことになります。彼はもはや従順に働かなくなるかもしれません。

 だからパウロは言うのです。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」(2節)。そうです、むしろ今こそ主人を重んじて熱心に仕えるべきだというのです。なぜでしょうか。主人は「神に愛されている者だから」だとパウロは言うのです。

 つまり主人に仕えることの意味が変わったのです。かつては恐れのゆえに渋々と不平を心に抱きながら仕えていたかもしれません。しかし、今は違うのです。今や仕えることは「神に愛されている者」である信仰の兄弟に、神の愛を現す機会となるのです。奴隷が主人を愛して仕える時、その奴隷はいわば通路となるのです。兄弟となったその主人を神が愛するための通路となるのです。同じ仕えるにしても、そのような存在として仕えることができるのです。

 信仰を持ったからと言って、キリスト者になったからと言って、この世における立場が変わらないことはいくらでもあります。いや、通常はそうなのでしょう。置かれている環境が全く変わらないこともあります。しかし、その意味が変わるということは起こり得るのです。そこで何かを行うことの意味は変わり得るのです。人は置かれている環境に不満を抱き、不平を言いながら生きることもできます。しかし、神はその時と場所を神の愛を現す機会に変えることができるのです。

利得の道としての信心なら
 そして、パウロは言います。「これらのことを教え、勧めなさい」と。「これらのこと」が何を指しているのかは必ずしも明確ではありません。しかし、そう語る理由ははっきりしています。3節にありますように「異なる教え」を説いている教師たちがいるからです。彼らは5節では「信心を利得の道と考える者」と表現されています。すなわち、彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということです。

 恐らくパウロが具体的に念頭に置いていたのは「お金」の話です。9節以下に語られているようにです。「金持ちになろうとする者は」と彼は言います。そこにあるのは「金銭の欲」です。実際に彼らは信心を金持ちになる手段と考え、そして教えていたのかもしれません。あるいはもっと広い意味での「利得の道」として教えていたのかもしれません。

 いずれにせよ、「利得の道」は多くの人々の心を惹きつけたと思います。特に先に触れた奴隷の身分の人たちや様々な形で社会において抑圧されている人、不当に扱われている人の心を惹きつけたに違いないのです。小さいから、弱いから、持っていないから軽んじられるのだ。大きくなれたなら、強くなったなら、持っている側の人間になれたなら、仕えるのではなくて仕えさせる側の人間になれたなら、支配する側の人間になれたなら――。見下されていた人たちならば、なんとしてでもこの「利得の道」によって、いつか見返してやりたいとも思ったに違いありません。

 しかし、そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。もしかしたら、本当に儲かるかもしれません。豊かになれるかもしれません。強者の側になれるかもしれません。それはあり得ることなのです。現代においても成功の道を説く多くの人が語っているように、人間の強烈な願望が成功や富をもたらすことはあり得ることなのです。実際に彼らの語る「利得の道」が結果を出していなかったら、放っておいても消えていったことでしょう。恐らくは結果を出していたのです。しかし、改めて問います。そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。

 パウロはこう書きました。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。これが彼の見ていた現実です。確かに、自分が何を得るかということにしか関心がなければ、そして、その欲望が果てしなく増大していくだけの「利得の道」であるならば、そうなるのも無理はないと言えます。少なくとも、先に見た「奴隷の身分の人」に対する勧めは絶対に出てこないでしょう。

真の利得の道
 そこでパウロは言います。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)。パウロは信心が利得の道であることを否定しないのです。彼は言います。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(7節)。

 それは誰もが知っていることです。確かに何も持っていくことはできません。ならば残るものは何かということも明らかです。それは裸のわたし自身です。この世の命を生きてきたわたし自身です。神との関わり、そして人との関わりの中に生きてきたわたし自身です。ならば、この世に置いていくものをどれだけ得たかということよりも、どう生きてきたかということの方が遙かに重要なことなのでしょう。神と共にどう生きてきたのか。人と共にどう生きてきたのか。それだけが残るのです。

 そして、もう一つのことも明らかです。何も持っていくことができないならば、本当に得なくてはならないものは、向こう側にあるということです。こちら側で得るものは全て置いていかなくてはならないのですから。私たちが本当に求めなくてはならないもの、得なくてはならないもの、それを聖書は「永遠の命」と表現します。そうとしか表現できない、しかしまたそれでもなお表現できてはいない、私たちが思い描くことさえできない、神が与えてくださる最終的な救いです。それこそが、それだけが人間にとって真の利得なのです。だからこそパウロは「大きな利得の道です」と言うのです。

 そこでパウロはテモテに言います。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(11‐12節)。

 「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。自分の行為や努力と引き替えに「永遠の命を手に入れよ」と言われているわけではありません。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かってスタートしたのです。

 しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。競技をする者の完走を妨げる諸々の力が働くのと同様です。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜こうとするならば、そこには戦いがあるのです。

 だからこそ、この世においても追い求めるべきものがあるのです。それはあの教師たちが追い求めていた利得とは異なります。それとは異なるものを追い求める必要があるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語られているのはそういうわけです。それこそが、信仰の戦いを戦い抜くために必要だからです。

 そして、私たちがひたすら求めていくときに、誰が与えてくださるかも知っています。それは永遠の命を与えてくださる神御自身です。その意味においても、信心は大きな利得の道なのです。

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