2015年8月16日日曜日

「神の御業を見て共に喜ぶ」

2015年8月16日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節


 ある安息日の会堂に、ひときわ喜びに溢れて神を賛美している女性がいました。その人は、つい先ほどまで腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。そのような姿で18年間も暮らしてきた人でした。「病の霊に取りつかれている女」と表現されていますから、高齢によって腰が曲がったのではなく、病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。しかし、その日会堂に来られたイエス様が側に呼び寄せてくださいました。そして、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置いてくださったのです。するとたちどころに腰がまっすぐになり、まっすぐになった体をもって喜びに溢れて神を賛美していたのでした。

 しかし、そこにはまた、腹を立てている人もいました。会堂長です。彼はイエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この人の怒りもこの人の言葉も、ある意味では私たちにピンと来るものではありません。ユダヤ人ではない私たちには安息日律法そのものが馴染みのないものですから。しかし、怒っているこの人の姿を見つめていると、だんだん私たち自身の姿がそこに見えてまいります。そして、イエス様がなさったことの意味も見えてくるのです。今日お読みしたのは、そのような聖書箇所です。

安息日の律法の意味
 会堂の中で怒っていた会堂長。彼の怒りには正当な理由がありました。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の規定です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については細かい議論がありました。何がこの「仕事」に当たるのか。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、会堂長からすれば、イエスのしたことは律法違反なのです。ところが当の本人はいささかも悪びれた様子もない。反省の色もない。しかもその横には違反行為によって癒されて喜んでいる女がいる。しかも群衆もまたイエスのしたことを見て喜んでいる。だから怒ったのです。責任感に駆られて怒ったとも言えます。こんなことが野放しにされてはならない、と。

 そのように彼が怒るのには正当な理由がありました。しかし、そもそも安息日に《働くこと》がなぜ問題なのでしょう。もともとイスラエルの民はエジプトの奴隷でした。「働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。その意味で「仕事をしてはならない」という命令は当初十戒が与えられた時には実に奇妙に響いたに違いありません。なぜ神様はそんなことを命じられたのでしょうか。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、創世記に記されている天地創造物語です。神様がこの世界をお造りになった。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

立ち止まらねば神の御業は見えない
 私たちは実際、神様の御業に包まれて存在しているのです。しかし、私たちが動き続け、働き続けているとそのことが分からなくなります。人間のしていること、人間の成し遂げることがすべてを支えているかのように思ってしまう。人間がしなくてはならないことで頭がいっぱいになってしまいます。だからこそ、あえて人間の業を中断して、立ち止まって、休むことが必要なのです。そして、意識的に神の御業に思いを向けるのです。そこに神様への讃美、神様への感謝が生まれます。それゆえに安息日は礼拝の日ともなるのです。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず神を賛美したのです。その意味では、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしていると言えるでしょう。彼女は確かに神の御業を見て喜んでいるのです。

 そして、同じことを会堂長も見ているはずなのです。しかし、彼は神の御業を見て喜ぶことはありませんでした。どんなに奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ない。本当は神の創造の御業の中に存在しているのですから、私たちの人生もまた神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。会堂長はどうして見ることができなかったのでしょう。――立ち止まっていないからです。休んでいないからです。自分がしなくてはならないことで頭がいっぱいだからです。人間がすべきことで頭がいっぱいだからです。

立ち止まらねば隣の人も見えない
 いや、立ち止まることがなければ、休むことがなければ、神の御業が見えなくなるだけでなく、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなります。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないでしょう。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。神の御業の内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるのです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿をいつも目にしていたはずなのです。

 「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と彼は言いました。確かに一日待てば律法違反にはなりません。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうに。辛いだろうな。いやされるといいのに」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映っても、本当の意味で苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。

キリストは束縛から解いてくださる
 このように会堂長の姿を見つめていると、そこに私たち自身の姿が見えてきます。神の御業を見て喜ぶべき時に喜べない。また神の御業を喜んでいる人と共に喜べない。むしろ怒りに燃えてそこにいる人。身に覚えがあります。身につまされます。しかし、だからこそイエス様があえてこの癒しの業を安息日に行った意味も見えてまいります。

 イエス様は今日の箇所において、ただ癒し主としてではなく解放者として御自分を現されました。イエス様があの女性に「婦人よ、病気は治った」と言われましたが、本当は「解放された」という言葉が使われているのです。そして、後にイエス様はこう言われています。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。

 確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、イエス様は彼女をその束縛から解放されました。しかし、縛られていたのは彼女だけだったのでしょうか。解放されなくてはならなかったのは彼女だけだったのでしょうか。そうではないでしょう。まさに縛られている不自由な姿をさらしていたのはあの会堂長ではありませんか。そして、それは私たちの姿でもあるのでしょう。

 だからこそ解放してくださる方が必要なのです。この女性に起こった解放は実に象徴的な出来事であったと言えます。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとです。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神を誉め讃えているのです。彼女は神の御業の中に安らぎ、前の人とも、隣の人とも一緒に神を誉め讃えて生きていくのでしょう。

 そのように解放されてまっすぐになった姿をあの会堂長も必要としていたし、私たちも必要としているのです。そのような私たちのためにイエス様は来てくださいました。イエス様はサタンに縛られている者を解放してくださる御方として来てくださいました。イエス様が真の安息日を私たちに与えてくださいます。事実、彼女において現された解放の御業は、既に私たちの内にも始まっているのです。私たちが礼拝の場所に共に集められているとはそういうことです。主の霊による全き解放、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできる真の自由、サタンから解き放たれてまっすぐにされた姿を求めてまいりましょう。

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