2015年8月2日日曜日

「善をもって悪に勝ちなさい」

2015年8月2日 平和主日礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節~21節


せめてあなたがたは
 今日は平和主日です。平和を祈るために私たちはここに集まりました。後で私たちは「すべての人の平和を願い、すべての人の平和を祈る」(*)という歌を共にうたって祈ります。

 私たちが平和を願い、祈るのは、平和が失われている現実があるからです。国家的な規模においても、身近な人間関係においても、平和が失われている現実があるからです。そこで私たちが平和を願い、平和を祈るとき、私たちの念頭を去らないのは平和を妨げている人々の存在でしょう。平和を壊している人々の存在なのでしょう。

 平和を願い、平和を祈る時、私たちは《そのような人々がいなくなるように》と願い、祈っているのかもしれません。しかし、そのような私たちに今日の聖書朗読では次のような御言葉が与えられていました。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)。

 「せめてあなたがたは」と言われているのです。まずは私たち自身なのです。平和を壊し、あるいは妨げる他の誰かではないのです。まず私たち自身について考えなくてはならないのです。平和を願い、祈る私たち自身が、まずすべての人と平和に生きようとしているのかどうか。それは私たちが日々接している人々との間における話です。あるいは今ここに集まっている教会の中での話です。

 もちろん、そこで聖書は「できれば」と言うのです。それは難しいことを知っているからです。また、私たちはそのつもりでも、私たちの側からはどうにもならないことがあることを知っているからです。実際、この箇所には「あなたがたを迫害する者」(14節)ということも書かれています。迫害する者に対しては、どんなにこちら側としては「平和に暮らしたい」と思っていても、そうできないことはあるでしょう。

 しかし、「できれば」という言葉はそのような消極的な側面のみにおいて語られるべきではありません。もう一方において、それは「できるかぎり」という意味でもあるのです。そうしようと思わなければ、そして、実際にやってみなければ、そして最善を尽くしてみなければ、聖書が「できれば」というその限界は見えてこないからです。ですから実際、ある翻訳聖書では「あなたがたは最善を尽くしなさい」と訳されているのです。

善をもって悪に勝ちなさい
 それでは、どのように最善を尽くすのでしょう。こちら側からできる最善はなんでしょう。続けてこう書かれています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)。まずは自分で復讐しようとしないことです。仕返しをしようとしないということです。

 しかし、聖書が語ることはそれに留まりません。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)というのです。相手に対して復讐を放棄するだけでなく、むしろ積極的に善を行いなさいと言うのです。その目指すべきところは非常にシンプルに次のように表現されています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。今日の説教題はここから取りました。

 ここに至って、「すべての人と平和に暮らしなさい」と言われていたことの内容が見えてきます。さらに言うならば、私たちがすべての人のために平和を願い、平和を祈るということが何を意味するのかが見えてくるように思えるのです。

 平和とは何でしょうか。平和を願い、平和を祈るとき、私たちは何を求めているのでしょう。それはただ争いのない状態でしょうか。戦いを回避することによって実現される状態でしょうか。いや、今日の箇所を読む限り、平和とはそのようなものではなさそうです。先にも見たように、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉は、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉に行き着くのです。

 「悪に勝ちなさい」ということは、そこには勝つか負けるかの戦いがあるということです。平和を願い、平和を祈るということは、戦いを極力回避することではありません。ある意味では戦いの中に入って行くということです。それは悪との戦いです。悪に打ち勝つための戦いです。

イエス様の戦いに加えられて
 それはいかなる戦いであるのか。「善をもって悪に勝つ」とはどういうことなのか。その戦いを身をもって見せてくださった方がおられます。イエス様です。パウロがイエス・キリストを念頭に置いてこれを書いていることは明らかです。今日の朗読の中に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」という勧めがありましたが、これはイエス様が、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43‐44)と言われたことを思い起こさせます。

 最終的に重要なのは人間との戦いではないのです。悪そのものとの戦いなのです。どのようにして悪そのものと戦うのですか。どのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。悪を行う人間を憎んで、悪を行う人間と戦って、悪を行う人間を力によって支配して、あるいは悪を行う人間を取り除いて、そのようにして悪そのものを取り除くのでしょうか。そのようにして悪を取り除けるならば、敵を憎んだら良いのです。敵と戦ったらよいのです。人間相手の戦いを勝利するまで繰り広げたらよいのです。

 しかし、イエス様はそうは見ていませんでした。イエス様は明らかに敵を滅ぼす力を持っていたのでしょう。にもかかわらず、イエス様は敵を滅ぼすどころか、御自分を守ることにさえ、御自分の力を用いようとはされませんでした。悪が取り除かれるのは人間との戦いによるのではないことをご存じだったからです。悪が取り除かれるのは悔い改めによるのです。人間が謙って神に立ち帰ることによるのです。

 そして、明らかなことは、悔い改めは人間との戦いによっては起こらないということです。相手を叩きのめしても悔い改めは起こらないということです。相手を力づくで支配しても、悔い改めは起こらないのです。悔い改めが起こるとするならば、それは愛によってなのです。

 ですからイエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。そして、本当の意味で敵を愛されたのはイエス様御自身です。その敵とは誰ですか。わたしでありあなたです。もしイエス様が私たちの内にある悪ではなく、私たち自身を憎まれたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの悪にそのまま悪をもって返されていたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。私たちの内にある悪が明らかにされ、そのまま断罪されたならば、私たちは既に滅ぼされているでしょう。

 しかし、イエス様は私たちを愛してくださいました。私たちを滅ぼすのではなく、私たちのために十字架にかかってくださいました。イエス様御自身が私たちの内にある悪と戦ってくださいました。私たちが形づくっているこの世界の悪と戦ってくださいました。血みどろの戦いをしてくださいました。悪を取り除くために。真の平和をもたらすために。

 そのようにイエス様によって愛され、赦された私たちです。その私たちがイエス様の戦いの中に招かれたのです。人間相手の戦いを繰り広げてきた私たちが、悪との戦いへと招かれたのです。私たちは人間相手に憎しみをもって戦っている時点で既に悪に負けていたのです。そのような私たちが、本当の意味で悪そのものに勝つために、キリストによって立ち上がらせていただいたのです。

 そのような戦いの中で私たちは語られているのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と。そして、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と。キリストの勝利に共にあずかるために。そのような私たちとして、今私たちはここにいます。そのような私たちとして全ての人の平和を願い、全ての人の平和を祈りましょう。


*この礼拝では、「とりなしの祈り」の時間に皆で共に「すべての人の平和を」をうたいました。

「すべての人の平和を」(詞・曲Sr.山本きくよ) 

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