2015年8月30日日曜日

「報いを受けなくても幸いです」

2015年8月30日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 14章7節~14節


お返しができない人を招きなさい
 ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は招いてくれた人にこんな話をなさいました。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 これを聞いた人たちはどう思ったでしょう。もしかしたら、イエス様を招いた議員は多少不愉快になったかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反対しなかっただろうと思います。ファリサイ派の人たちは、決して自分たちのことしか考えない我利我利亡者ではありません。彼らの大切にしている善行の中には「施し」も含まれているのです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには同意したと思うのです。

 さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。ファリサイ派の人たちは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においてサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したと思うのです。

 それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人も恐らくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて「神の国」を思ったのです。イエス様の話を聞いて、神の国における神からの報いを思ったのです。

 そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではとても分かりやすい。ファリサイ派の人がそのまま聞いても理解できて「なんと幸いなことでしょう」と声を上げるような話だったのです。

上席を選ぶ様子を見て
 しかし、私たちはイエス様の教えだけでなく、それが語られた場所、そこに集まっていた人々にも目を向けたいと思うのです。イエス様はどのような場面においてこのことを語られたのでしょう。

 最初に申しましたように、イエス様は食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになりました。食事に招かれたのはイエス様だけではなかったようです。他にも招待客がおりました。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子だったのです。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。しかし、たかが食事の席の話ではないかとも思えます。イエス様があえて食事の場で戒めることでもないでしょうに、と。そんなことは昔からイスラエルで言われてきたことでもあるのです。旧約聖書の箴言に、「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と書かれているとおりです。

 にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、「たかが食事の席の話」ではないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさったのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。遠回しにあてつけたのではありません。ことさらに「婚宴」あるいは「祝宴」と訳しても良いのですが、そのような「祝いの宴」のたとえ話をしたのは、「祝宴」が神の国を表す表象でもあるからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。

 上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありませんでした。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。招待客の一人は言っていました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。

 そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。

罪人のわたしを憐れんでください
 そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、神との関係における話です。実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてまいります。次のように書かれているのです。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 高ぶったり卑下したり、人をほめそやしたり見下したり、自分と人との比較、人と人との比較の意識、「上席・末席」の意識は神との関係においてこそ入ってきやすいものです。しかし、徴税人は人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。

神の国への招きとは
 そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。それは単なる分かち合いの勧めでも善行の勧めでもないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話しでもないのです。

 イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた宴会こそが、神の国を映し出すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す宴となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招いてくださるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。

 お返しができない人の招かれた宴会。その意味するところは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人の姿をさげすんで、見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。

 そこから、お返しができない人たちの招かれた宴会を見るならば、そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。

 実際、イエス・キリストによって救われるというのはそういうことでしょう。私たちが既に神によって受け入れられ、神の国に招かれているとは、そういうことではありませんか。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれる。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。

 やがて神の国において、私たちはその事実に驚くことになるでしょう。まったくふさわしくない、全くお返しのできないような私たちを神は招いてくださった。その恵みの大きさを目の当たりにして愕然とすることでしょう。そして、改めて、人から報いを求める必要などなかったのだ、ということを知るでしょう。そう、すべてが完全に報われている。ただこんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われていることを知るでしょう。「あなたは報われる」とイエス様の言われたように。そうです。誰から報いを受けずとも、本当は既に幸いなのです。

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