2015年7月26日日曜日

「穏やかに、敬意をもって」

2015年7月26日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 3章13節~22節


「正しくない者たち」のために
 今日はペトロの手紙を読みました。この手紙が書かれたのは、既に教会に対する迫害が激しくなり初めていた頃です。今日の朗読箇所の少し前にはこう書かれています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。このように書かれているのは、現実に悪意をもって苦しめられたり侮辱されたりすることがあったからです。

 そのような中で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(15節)ということもまた語られているのです。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人」というのは信仰を求めている人のことではありません。迫害の中での話です。そこで説明が要求される。それは個人的に悪意に満ちた嘲笑的な問いかけかもしれませんし、公的な裁きの場に引き出されて訊問されるような場合かもしれません。

 いずれにせよ、そこでペトロは、「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言い、そして、こう続けるのです。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。

 「敬意をもって」と訳されているのは、驚くべきことに、神を畏れ敬うという意味で使われるのと同じ言葉です。そのように悪意をもって向かって来る人に対しても「穏やかに、畏れ敬って」弁明しなさいというのです。もちろん、そう勧めるのは、自然にはそうならないからです。相手の敵意によって自分の内にも敵意が引き出されてしまう。相手の怒りによって自分の内にも怒りが引き出されてしまう。常日頃不当な苦しみを強いられているならば、なおさらそのような負の感情が引き出されてしまうものです。だからこそペトロはあえて「穏やかに、敬意をもって」と念を押すかのように付け加えるのです。

 しかし、それは難しいことです。ペトロの勧めの言葉は正しくても実行は極めて困難です。ペトロはさらに言います。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(17節)。それはそうです。もっともです。しかし、だからと言って「善を行って苦しむこと」を簡単に受け入れられるかと言えば、それはとても難しい。悪を行って苦しむ方が受け入れやすいのです。自分に原因があれば納得も行く。善を行って苦しむことは、明らかにそれは不当な苦しみなのであって、それが「不当である」というだけで苦しみは増すのです。それを受け入れることは難しい。ましてや、そのような中で穏やかに敬意をもって語ることはなんと難しいことか。それはペトロも分かっているはずです。

 だからこそ、そのような話の流れの中でペトロはキリストについて語り始めるのです。目を向けるべき御方に目を向けさせるのです。キリストに目を注ぐことなくして、本当の意味で不当な苦しみに打ち勝つことはできないからです。彼らが聞かなくてはならなかったのは次のことでした。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。

 不当な苦しみと言うならば、キリストこそまさに不当な苦しみを受けられた方でした。しかし、主はその苦しみを受け入れられたのです。神の御心として受け入れたのです。そして、耐え忍ばれたのです。その意味でキリストは苦しみを負うことにおける模範です。

 しかし、聖書が言いたいのはそれだけではありません。「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と語られています。「正しくない者たち」とは誰のことでしょうか。迫害者たちでしょうか。敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストが苦しまれたのは「あなたがたを神のもとへ導くためです」と言うのです。すなわち、その「正しくない者たち」とはあなたたちだ、とペトロは言うのです。キリストの苦しみは、他ならぬそんなあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と。

 自分を「正しい者たち」の側に置き、相手を「正しくない者たち」の側に置く時、もはや「穏やかに、敬意をもって」語ることは不可能になります。そして、「正しくない者たち」によって苦しみを負わされることは耐え難いものとなります。しかし、十字架の前に立つ時、そこにいるのはもはや「正しい者たち」と「正しくない者たち」という二者ではなくなります。そうではなくて、ただ一人の「正しい方」と残りの「正しくない者たち」になるのです。そこにはキリストに罪を負っていただいた者たちがいるだけなのです。迫害する者も迫害される者も同じところにいることを見る時に、語り方もまた違ってくるのでしょう。

陰府に降られたキリスト
 しかし、ペトロはただキリストが苦しまれたことを語るに留まりませんでした。ペトロは私たちの罪のために苦しまれたキリストを指し示して、直接21節の「復活」および22節の「昇天」に話を進めることはしませんでした。その間に語っていることがあるのです。彼はあえて「陰府に降ったキリスト」について語るのです。ここでは「捕われていた霊たちのところへ行って宣教された」(19節)と表現されています。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなかったのです。これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われています。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今日お読みした箇所なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、この箇所が一つの問いを背景にしていることは考えられます。恐らく誰もが抱く問いです。「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いです。今日の箇所はその問いに対する一つの答えでもあったと考えられるのです。実際、キリストが陰府にまで降って、キリストが来られる以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからあって、それは紀元2世紀まで遡ります。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではないでしょう。もっと大きな理由があるはずです。もう一度20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、わざわざ「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 そうです。神はノアの箱舟製造を通して警告を与え、彼らの悔い改めを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。そのような人々の話です。そこで洪水となった。これは明らかに神の裁きです。神の裁きによって死んだということになります。ならば彼らはそれで終わりであるはずです。しかし、そのような人々のところにまで行ってキリストは宣教されたのだ、と言っているのです。

 ノアの箱舟に乗り込んで救われた8人はバプテスマを受けて救われる人を予表しているとペトロは語ります。すると箱舟に乗らなかった人々に宣教するため陰府にまで降られたキリストは、すなわちバプテスマを受けていない人々のところに行って宣教しようとしておられるキリストをも意味することになるのでしょう。

 それがたとえキリストを侮辱し、教会を迫害する人であっても、キリストは彼らのところに行こうとしておられるのです。あの最後まで悔い改めなかった人たちのところにまで行かれたキリストですから。実際、私たちはその実例を知っているではありませんか。かつて教会の迫害者であったパウロです。キリストはパウロのところにまで行ってパウロに出会われた。語られた。宣教されたのです。実際、キリストがそのような御方であるからこそ、私たちもまたここにいるのでしょう。本来ならば神に裁かれて終わりであったはずの私たちが、今ここにいるのです。陰府にまで降られたキリストが、私たちのところにまで来てくださったから。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と言われているのか、なぜ、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言われているかが分かってきます。キリストはただ苦難を耐え忍んだ方として模範であるだけでなく、宣教においても模範である御方だからです。どんなに私たちを苦しめている人であっても、それはキリストが語ろうとしておられる人であり、出会おうとしておられる人なのです。

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