2015年7月12日日曜日

「赦しの心」

2015年7月12日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 7章36節~50節

    ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~5節

互いに重荷を負いなさい
 聖書の中にこんな話が出てきます。ペトロがイエス様に尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。するとイエス様が答えます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

 「赦しの心」が大事なことは、私たちも知っています。憤ってばかりいる人よりは、心の広い寛容な人になりたいと思います。人を裁いてばかりいる人よりは、人を赦して受け入れることのできる人になりたいとも思います。別なところでイエス様も「人を裁くな」と言っておられますし。

 しかし、イエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われるのです。七の七十倍になったら、もう実際的には数えられません。要するに何回赦したか「数えるな」ということです。数えないで赦しなさい、ということです。

 どう思われますか。「赦しの心」は大事だと思っている人でも、やはり「それは絶対に無理だ!」と思われるのではないですか。赦しがたい人々の顔がちらちらと思い浮かんできた人もあるかもしれません。そんな人たちを何度も赦すなんて絶対に無理!それが自然な反応でしょう。

 いや、これは単純に《できるかできないか》の問題ではありません。「そもそもそれは正しいことなのか」という問いが生じてくるからです。赦しているだけでよいのか。その人が同じことを繰り返すだけではないか。赦してやるのではなくて、二度と同じ過ちを犯さないように、むしろ一度徹底的に酷い目に遭わせてやったほうが、本人のためなのではないか。

 いずれにせよ、酷い目に遭わせるかどうかは別として、人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならない。それは誰もが普通に考えていることでしょう。実際、今日の第二朗読において、パウロもまたこう言っていました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(1節)。「正しい道に立ち帰らせなさい」というのは「正しなさい」が直訳です。

 パウロも、誰かが罪に陥ったなら、その人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならないと言うのです。ただ、「もう二度としないように痛めつけて正しなさい」とは言わない。「柔和な心で」と言うのです。どうも、これがとても大事なことのようです。

 そこであえて「柔和な心で」と言うのは、実際には柔和になれない状況があるからでしょう。考えてみてください。教会内の人間関係においても、この社会の人間関係においても、問題になるのは一般的な意味で「だれかが何かの罪に陥ったら」という場合ではないのです。そうではなくて、ペトロが言っているように「わたしに対して罪を犯したなら」という場合なのです。つまり誰かによって自分が苦しい思いをする、痛い思いをする、理不尽な重荷を負わされる。そんな場合なのです。あるいは直接的に自分が被害を受けなくても、間接的に不快な思いを強いられる。共同体全体が不利益を被る。そんな場合もあるでしょう。

 自分に重荷がやってこない「だれかの罪」の話なら、恐らくいくらでも柔和になれるのです。おだやかに対処もできるのです。しかし、現実には恐らくそうならない。私たちが気づく罪というのは、私たち自身にも関わってくるから気づくのです。私たちの重荷にもなるから気づくのです。ですからパウロもまたこれを一般的な話にしないで、すぐさま続けてこう言うのです。「互いに重荷を担いなさい」(2節)。

 他人の罪や悪に気づくのはそれほど難しいことではありません。その罪に怒りを向けることも難しくはありません。人を裁くことは簡単です。非難することは簡単です。断罪することは簡単です。場合によっては酷い目に遭わせることも簡単なことなのかもしれません。しかし、本当の意味で正すことはとても難しいことです。「互いに重荷を担いなさい」とあるように、それはあえて重荷を背負うことでもあるからです。重荷を背負うつもりがなくても、人に怒りを向けることはできます。人を裁くことはできます。非難することはできます。断罪することもできます。重荷を背負うつもりがなくても、酷い目に遭わせることはできるかもしれません。しかし、重荷を背負うつもりがなければ、正すことはできないのでしょう。

 ちなみに「正す」が直訳だと言いましたが、これはまた「修繕する」という意味の言葉でもあるのです。破れたところを繕う。ボロボロになってしまったものを繕う。誰かが罪を犯すなら、その人に必要なのは、ただ怒りを向ける人でも、裁く人でも、非難する人でも、酷い目に遭わせる人でもないのです。そうではなく、重荷を負うつもりで、こつこつと修繕する人、ボロボロになっているところを繕ってくれる人、そのように関わり続けてくれる人こそが必要なのでしょう。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、修繕しなさい」とはそういうことなのです。その意味では、やはりそこで必要になってくるのは「赦しの心」なのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたイエス様の言葉を改めて思い起こします。

私たちの重荷を負ってくださった神
 しかし、それはとても難しい。なんと難しいことかと思います。しかし、だからこそ私たちは、そのように生き、そのように私たちに関わってくださったイエス様に目を向け続けなくてはならないのです。「赦しなさい」と言われたあの御方は、私たちのちっぽけな「赦しの心」とは比較にならない、とてつもなく大きな神の「赦しの心」をその身をもって現してくださった方でしたから。

 今日の福音書朗読は、食事の席に着いておられたイエス様のところに、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきたという話でした。彼女は後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めたというのです。食事の席に赤の他人が入って来ること自体は当時の社会において決して珍しいことではありませんでした。また、食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではなくて、横になって肘をつきながら食事をしていますから、足元に近寄ったということも、さほど不自然な行動ではありません。

 しかし、それらを差し引いても、やはりこれは本来起こりえない話です。それはファリサイ派のシモンの家でしたから。神の律法を厳格に守り、清く敬虔な生活をしているファリサイ派の一人として知られているシモンの家に、罪深い女として知られている人が入ってくることはまずあり得ない。断罪されるに決まっていますから。そのあり得ないことが起こったのはなぜか。イエス様がそこにおられたからでしょう。

 つくづくイエス様という御方は不思議な方だと思います。シモンが「先生」と呼んでいるように、イエス様は一面においてはユダヤ教の一教師です。しかし、普通の教師になら絶対に近づかないような罪人や徴税人たちがイエス様に引き寄せられるように集まってくるのです。なぜですか。イエス様の言葉、行動、その存在そのものに、神の大きな大きな「赦しの心」が現れていたからでしょう。

 そして、この場面では罪深い女として知られている女性が近づいてきた。この女性にとってもイエス様は、罪深い自分をそのまま持って行くことのできる御方だったのです。罪深い者が自分の罪に泣きながらでも安心して近づくことのできる御方だったのです。そこには神の赦しがあるから。大きな神の「赦しの心」が現れているから。イエス様は彼女に宣言してくださいました。「あなたの罪は赦された」と。そして言われたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

 しかし、そう言われたイエス様は、重荷を背負うつもりでおられたのです。私たちすべての者の罪の重荷を背負うつもりでおられたのです。苦しみを自ら引き受けるつもりでおられたのです。そのように神は重荷を負うつもりで私たちとかかわってくださったのです。罪ある私たちを断罪するのではなく、滅ぼすのではなく、大きな赦しの心をもって、自ら重荷を負うつもりで、私たちとかかわってくださったのです。この世に御子を遣わされ、十字架にかけられたとは、そういうことなのです。

 私たちもまた、今ここにおいて、キリストに現れた大きな神の「赦しの心」に触れています。そこから、私たち自身に必要な小さな「赦しの心」をいただくのです。それはすぐに失われてしまうようなものですから、繰り返し福音の言葉と共に受け取らなくてはならないのです。そのようにして、神によって重荷を負っていただいた者として、互いに重荷を負いながら生きていくのです。裁き合いながらではなく、柔和な心をいただいて、お互いの破れを繕いながら共に生きていくのです。

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