2015年7月19日日曜日

「イエスに従った女性たち」

2015年7月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章1節~3節


悪霊を追い出していただいた女性たち
 今日の福音書朗読では、神の国を宣べ伝えるイエス様とその一行の宣教旅行のことが書かれていました。そこには当然のことながら「十二人も一緒だった」と書かれています。イエス様が夜を徹して祈って選んだ十二人です。イエス様が「使徒」と名付けた十二人です。その名前は既に6章14節以下に記されていました。宣教旅行に彼らが同行していたのは当然です。実際にはその他の弟子たちも大勢伴っていたものと思われます。

 しかし、今日の箇所ではその他の弟子たちのことには触れずに、あえて一緒にいた女性たちのことを伝えています。彼女たちもまた宣教旅行に加わっていました。しかし、それは決して当然のことではありませんでした。女性が低く見られ軽んじられていた時代の話です。特に宗教的な領域においてはそうでした。普通のユダヤ教のラビならば、道で会った時でさえ自分から女性に声をかけたりしない。そのような時代において、当たり前のように女性たちと行動を共にするイエス様は人々の目にどれほど奇異に映ったことでしょう。しかし、男性だけではなく女性もまた神の御前にある一人の人間として共にいることはイエス様にとっては当たり前のことだったのです。

 そのような多くの女性たちの中でも、特にここでは「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(2節)について言及されています。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」とありますが、厳密に言いますと、悪霊を追い出されることと病気をいやされることは並置されているのであって、病気の原因が悪霊であったという意味ではありません。ですから、マグダラのマリアについては病気とは関係なく「七つの悪霊を追い出していただいた」とだけ書かれています。要するに彼女たちには病気だけではなく、悪霊に支配されていた過去があったということです。言い換えるならば、神に背いて生きてきた生活があったということです。

 実際にマグダラのマリアについては「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれているわけですが、彼女はいったい何者なのでしょう。いったいどんな悪いことをして、いったいどんな罪を犯して、生きてきた人なのでしょうか。この聖書の表現はこれまで多くの人々の想像をかき立ててきました。そして、マグダラのマリアの人物像について多くの理解が生まれることとなりました。

 その中には7章に出てきた女性と同一人物であるとする見方があります。その町で「罪深い女」として知られていた人です。「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7:37‐38)と書かれているあの女性です。イエス様から「あなたの罪は赦された」と宣言していただき、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言っていただいた、あの女性です。

 確かに今日の聖書箇所は「すぐその後」という言葉から始まっていて、前の章とはっきり結びつけられています。章で区切られていますが続けて読まれるように書かれているのです。ならば、あの女性がマグダラのマリアなのでしょうか。しかし、もしそのことを伝えたいのなら、7章でマグダラのマリアという名前を出したに違いありません。

 ルカはあえて名前を記しませんでした。それが誰であるかは重要ではなかったのです。伝えたかったのはイエス様がどのように出会ってくださったか、どのように関わってくださったかということですから。彼女の姿はある意味ではイエス様と出会った全ての人の姿であり、特にイエス様によって救われた全ての女性たちの姿でもあったということでしょう。

 ですから今日の箇所に出て来るマグダラのマリアもヘロデの家令クザの妻ヨハナもその他の女性も並べて書かれているのです。マグダラのマリアを7章の「罪深い女」と結びつける人は彼女が娼婦であったと考えます。実際、そうだったのかもしれません。一方、次に出て来る「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」は明らかに娼婦ではありません。「ヘロデ」とはガリラヤを治めていた領主であるヘロデ・アンティパスのことです。彼女はいわば高級官僚の妻です。社会的に見れば娼婦の対極にいる女性であったと言えます。しかし、彼女もまた悪霊から解放された人としてここに書かれているのです。彼女は娼婦ではなかったでしょう。ふしだらな女でもなかったかもしれない。しかし、そこにはまた異なった形での悪霊の支配があったということです。彼女は彼女として神に背いた生活があったということです。

 しかし、そのように恐らく全く異なる人生を歩んできたマグダラのマリアもクザの妻ヨハナも、また名前しか書かれていないスサンナも、それぞれがイエス様に出会ったのです。あの7章の女性のように。いわば、それぞれがあの7章に出てきた「罪深い女」だったとも言えます。彼女のように、神の赦しの愛に出会い、罪の赦しをいただいて、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言された人たちだったのでしょう。

イエスを愛し共に仕える女性たち
 ですから、彼らは並べて書かれているのです。マグダラのマリアも、ヘロデの家令クザの妻ヨハナも区別なく並べて書かれているのです。この世においてどのような立場にある人かはもはや重要ではありません。それぞれが過去にどのような罪を犯し、どのように神に背いてきたかということすら重要ではありません。ルカは彼女たちの過去の生活については一言も触れていないのです。

 マグダラのマリアについては様々な人物像が描かれてきたと申しました。しかし、「七つの悪霊」とだけ語って、あとはすべて沈黙しているということは意味のないことではありません。その内容は誰にも知られる必要はないということです。彼女が何に支配され、何をしてきたのかは、もはや重要ではないのです。同じことはその他の女性たちについても言えることです。それ以上に重要なことがあるからです。

 それは何か。今、イエス様を愛して仕えているということです。そうです、それだけが重要なのです。あの7章の「罪深い女」についてイエス様はこう言っていました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(7:47)と。そうです、聖書は今日の箇所に出て来る女性たちについても詳細な人物像を伝えません。ただイエス様を愛し、その愛をもって共に仕えている人たちとして伝えているのです。7章からの流れで言うならば、彼女たちが多くの罪を赦されたことは、イエス様に示した愛の大きさで分かる、ということなのでしょう。

 それはこの福音書を読み進んでいくとよく分かります。私たちは、キリストの十字架刑の場面、そして復活の場面において、これらの女性たちの姿に出会うことになるのです。一方において、男の弟子たちが皆イエス様を見捨てて逃げ去ってしまう中で、彼女たちはどこまでもキリストのもとに留まろうとした人たちとして描かれているのです。

 例えば、キリストが十字架にかけられて、ついに「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで、そして息を引き取られたという場面には、こう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。この「ガリラヤから従って来た婦人たち」とは、今日の箇所に出て来た女性たちのことです。その後にもこう書かれています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有り様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55‐56)。

 そして、日曜日の朝、墓に行くわけですけれど、墓は空になっていた。そこで天使から告げられるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。そこに彼らの名前が明記されています。「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24:10)。マグダラのマリア、ヨハナの名前は、今日読んだ箇所に出て来ましたでしょう。そして、イエス様を愛した彼女たちこそが主の復活についての最初の証人となったのです。

 そのようなイエスを愛して従った女性たちのことがこうして二千年後にまで伝えられているのです。繰り返しますが、女性が著しく軽んじられていた時代の話です。しかし、聖書はしっかりと彼女たちに目を向けています。イエス様を純粋に愛した人たちとして。イエス様に従い、仕える人たちとして。

 具体的にはどのように仕えていたのでしょう。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(3節)と書かれていました。「持ち物」とありますが、それはただ金品だけを意味するのではありません。自分の「持っているもの」ということで、自分の能力や資質も含まれます。もちろん「持ち物を出し合う」ということもあったでしょうが、さらに広く彼女たちが自分のできることを出し合って、分かち合って、共に仕えたということなのです。

 マグダラのマリアとクザの妻ヨハナは、できることも差し出せるものも異なっていたに違いありません。しかし、それぞれ持てるものを出し合って、一緒に仕えていたのです。それこそがイエス様に救われた者たちの感謝の応答でした。それこそがイエス様を愛して仕えるということでした。誰から強いられたわけでもない。ただ罪を赦され救われた感謝とイエス様への愛によって。

 そうです、あの日も、彼女たちのある者は、持てるものを出し合って、できることを出し合って、一緒にイエス様の墓に向かったのです。ただイエス様への愛によって。そして、そのようなマグダラのマリア、ヨハナたちにキリストの復活のメッセージは伝えられたのです。逃げて隠れていた弟子たちに主の復活を最初に伝える役割が与えられたのです。主は確かに彼女たちを最後まで共に宣教の旅をする人たちとして見ていてくださったのでした。

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