2015年6月7日日曜日

「心を一つに」

2015年6月7日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章37節~47節


聖霊によって
 今日お読みした箇所には、最初の教会の実に麗しい姿が描き出されていました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(44‐47節)。

 「一つ」という言葉が繰り返されています。そこに見るのは一つとなっている教会の姿です。彼らはなんと「全ての物を共有に」するほどに一つとなっていたのでした。それが単純化された極端な表現だとしても、それは驚くべきことでしょう。最初に洗礼を受けた人たちは、聖書の記述によれば約三千人です。裕福な人がいれば貧しい人もいる。様々な立場の人がいる。その彼らがそこまで一つとなっていたというのです。また、そこには恐らくファリサイ派もいればサドカイ派もいたでしょうし、物音を聞いて集まってきたのですから、そこには徴税人や罪人たちもいたかもしれません。しかし、そのような人々が、神殿での礼拝でも、家ごとの集まりにおいても、一つとなって礼拝し賛美を捧げていたというのです。

 明らかにそれは、「人間とはこうあるべき」「教会とはこうあるべき」という主義や理想から生じたものではありませんでした。誰かが「一つになるべきだ」と主張して一つになったのではありませんでした。ですからその前に「すべての人に恐れが生じた」ということが書かれていたのです。「恐れ」とは恐怖のことではなく、生ける神の御前にあるという自己認識です。また「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」ということもあえて記されているのです。彼らは力強い神のお働きの中にあったのです。彼らは聖霊によって一つとされていたのです。

 このことは特に強調されねばならないでしょう。聖霊によらずとも、人間は一体性を実現することはできます。「心を一つに」することができるのです。実際に世の支配者たちはそのような一体性を作ってきたのです。人間は共通の必要があるときに一体となります。共通の関心において一体となります。共通の敵によって、共通の恐れによって、一体となることもあるでしょう。恐らく人為的に一体性を造り上げるのに一番容易な方法は共通の敵と想定される恐れを提示することです。しかし、共通の敵と恐れによって作られた一体性ほど恐ろしい集団を造り上げるものはありません。歴史に見るとおりです。

 それゆえに、聖書はまた、人為的な一体性を神があえて破壊された実例を示しています。創世記11章に書かれている「バベルの塔の物語」です。人々はこう言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)。「有名になる」と訳されているのは「名を造る」いう表現です。つまり彼らは巨大な塔を建て上げているのですが、それは彼らの名前を偉大なものとして強大ものとして建て上げることを意味していたのです。それはもう一方に恐れがあるからです。だからこそ散らされる側ではなく支配する側に立たなくてはならない。そのために一致団結したのです。しかし、神は彼らの言葉を混乱させ、互いに通じなくされました。神はそのような一致団結を望まれなかったのです。

 神が教会に望んでおられるのは人為的に造り出された一体性ではありません。人間の必要を満たすために人間が造り出す一致団結などではありません。そうではなく神の霊による一体性です。それゆえに、そこでは「人と人との関係」だけでなく「人と神との関係」が重要になってくるのです。

めいめいが洗礼を受け
 そのことを今日の聖書箇所ははっきりと示しています。本日の朗読は37節からでした。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」(37節)。そう書かれていました。ペトロの説教を聴いて心を動かされた人々は具体的な指示を求めたのです。ペトロの答えは明快でした。「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」(38節)。

 ペトロは「悔い改めなさい」と言いました。それは自分の悪いところを悔いて改めることではありません。それは根源的な生の方向転換を意味します。どちらからどちらへ方向を転換するのでしょう。ペトロの説教の最後の言葉はこうでした。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。十字架につけて殺したのは、イエスが彼らにとって主ではなく、メシアでもなかったからです。そのような彼らにとって方向転換とは、イエスを主として、メシアとして受け入れるということに他なりませんでした。

 これこそがまず求められていたのです。イエスを主として、メシアとして受け入れるということです。そして、ペトロは言いました。「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。ここで注目すべきは、あえて「めいめい」と書かれていることです。個々の人間が強調されているのです。

 洗礼を受けるのは「めいめい」です。そこに三千人がいたとしても洗礼を受けるのは「めいめい」なのです。他の人がどうこうではありません。他の人が洗礼を受けたか受けないか、それは関係ありません。洗礼においては、神の御前において一人で立たなくてはなりません。

 そして、罪を赦していただくのも「めいめい」です。それは個々の人間において起こらなくてはならないのです。個々の人間が自らの罪を神の前に認め、個々の人間が罪を赦していただくのです。そこでは他の人の罪を問題にすることはできません。神の御前において一人の人間として罪が問われ、罪の赦しを受けるのです。そして、そのようにして罪を赦された者としてイエスを主として生き始める。イエスを「わたしの主、わたしの救い主」として生き始めるのです。その意味において、先の「悔い改め」もまた「めいめい」です。

 最初に一つとなってすべての物を共有している教会の姿、一つとなって礼拝を捧げている教会の姿を見ました。しかし、彼らは「めいめい」イエスを主として受け入れ、主と共に生き始めた人々なのです。そこには極めて個人的なイエスとの関係が生きているのです。後にパウロがこのイエス・キリストとの関係を次のような言葉で表現しています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。

 神の子は「わたしを愛し」てくださったのです。全人類のためではなく、この「わたしのために」身を献げてくださったのです。この「めいめい」を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。先にも触れましたように、そこには種々雑多な人々がいたことでしょう。しかし、その「めいめい」が明確に同じイエスを主として受け入れたのです。そうです、彼らには同じ主がいるというはっきりとした事実があるのです。その同じ主から同じ霊をいただいているのです。そこにおいて彼らは一つとされているのです。同じ霊によって一つとされたのです。そのように各個人の悔い改めと信仰を抜きにして、先に見た一つとなった教会の姿は語り得ません。各個人とキリストとの関係に目を向けず、ただ全体だけを問題にして一つとなることを求めるならば、それは極めて人為的な人間的な一致を求めることになるでしょう。

一つとされるために
 しかし、もう一方で逆のことも起こりえます。私たちが「めいめい」のことしか考えず、そこに終始してしまうということもあるのでしょう。悔い改めと洗礼と罪の赦しは「めいめい」のことに留まるために与えられているのではないのです。何と書かれていますか。洗礼を受けた人々は「仲間に加わった」と書かれているのです。

 彼らはそれぞれ各自としてイエス様と共に生きていくのではないのです。彼らは仲間に加わった人々として「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)と書かれているのです。彼らは交わりの中に身を置き、共に祈ることを大切にしたのです。そこからあの最初の教会の姿が生み出されていったのです。

 今日の朗読の最後にもこう書かれていました。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)。主は個々の人を救われます。主はあなたのため、わたしのため、一人一人のために十字架におかかりくださいました。赦しも救いも他ならぬあなたのためでありわたしのためです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」とパウロが言っていたとおりです。しかし、主は救われる人を仲間に「加えられる」のです。私たちは自分自身をそのように見、また新たに主を信じる人をそのように見なくてはなりません。バラバラではないのです。主は私たちが一つとなることを望んでおられます。

 「ひとりでいることのできない者は交わりに入ることを用心しなさい」「交わりの中にいない者はひとりでいることを用心しなさい」。そう言ったのはボンヘッファーでした。私たちはそれぞれ一人の人間として主に問われ、主に応え、主との関わりの中に生きるのです。そして、同時に私たちは一人ではなく交わりの中へと召されたのであり、聖霊によって一つとされることを求めていくのです。そのどちらが失われても、それは本来の姿とはならないのです。

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