2015年6月28日日曜日

「神によって一つとされて」

2015年6月28日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 11章4節~18節


異邦人のいる教会
 イエス・キリストの地上における最後の言葉は、使徒言行録によれば次のような言葉でした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。そして、イエス様の言葉の通り、弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生しました。その出来事を記念して毎年聖霊降臨祭を私たちは祝います。

 イエス様の言葉によれば、そのように誕生した教会はエルサレムに留まることなく、ユダヤとサマリアの全土に、さらには地の果てにまで広がっていきます。最初の教会のメンバーは全員ユダヤ人でした。しかし、サマリアにまで広がっていくならば、そこにはサマリア人がいます。地の果てにまで広がっていくならば当然異邦人の中に入っていくことになります。つまりイエス様は初めからサマリア人のいる教会、異邦人のいる教会を想定していたということです。

 さて、今日は使徒言行録11章をお読みしましたが、その直前の10章は異邦人の集団が洗礼を受けたという話で終わっています。つまり教会に異邦人が加わってきたのです。それはすなわちイエス様の想定通りに事が進んでいたことを意味します。聖霊の力によって進められるべき神の計画が進んでいたのです。神の御業が進んでいたのです。それは実に喜ばしい事ではありませんか。

 しかし、そのことを喜べなかった人たちがいたのです。ですから今日の箇所は「そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた」(4節)という言葉から始まっていたのです。喜べなかった人たちに説明しているのです。

 それまでユダヤ人しかいなかった教会に異邦人が加わるということはどういうことですか。異邦人と一緒に聖餐を行うようになるということです。今日のような小さなパンを食べる聖餐ではありません。通常の食事の形で行います。つまり異邦人と一緒に食事をするということです。

 ユダヤ人には異邦人と一緒に食事をするという習慣はありませんでした。ユダヤ人には食べて良いものと食べてはいけないものを定めた食物規定があるからです。ユダヤ人からすれば、異邦人は食べてはならぬ汚れたものを食べる人々なのです。律法に厳格な人々は異邦人の家にすら入りません。ですから、異邦人と一緒に食事をするということは、全く自分たちの習慣にないことをするということです。それは違和感を覚えることであり、さらには極めて忌むべきことですらあるのです。

 しかし、異なるものが一緒になるとはそういうことなのでしょう。そこにはこれまでの慣習にないこと、違和感を覚えるようなことが起こります。そこには葛藤が生じます。他の人のしていることは非難すべきこと、赦しがたいことに映ります。ですから異なるものが一緒になることは往々にして喜ばしくはない。そうです、彼らは異邦人がいる教会を喜べなかったのです。そこに起こっていた出来事のゆえにペトロを非難したのです。彼らは言いました。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(3節)と。

 そこでペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。それが今日の箇所に書かれていたことです。

 ペトロはまず自分がどうして異邦人の家に行ったのかを説明します。それはコルネリウスという百人隊長の家でした。ペトロはヤッファの町に滞在しており、一方コルネリウスの家はカイサリアにありました。直線距離で60キロ近く離れています。ペトロがそんな遠くに住んでいる異邦人やその親類、友人たちを訪ねる理由はもともと全くありませんでした。

 その彼らがなぜ出会ったのか。ペトロの説明で語られているのは、「幻を見ました」とか「“霊”がわたしに…言われました」とか「自分の家に天使が立っているのを見たこと」など、おおよそ私たちの多くには馴染みのないことばかりです。しかし、何を伝えたいかは分かります。要するに、これらは全て神によるのだということです。神がペトロたちユダヤ人とコルネリウスたち異邦人を出会わせられたのです。異なる者たちがその場に一緒にいることを他ならぬ神が望まれたのです。

 そして、ペトロは次のように話を続けます。「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(15節)。ここで「最初わたしたちの上に降ったように」というのは、ペンテコステの出来事です。使徒言行録二章に記されている事です。その時とまったく同じように、今度は異邦人の上に聖霊が降ったのです。

 その時にペトロは何を考えたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました」(16節)。ここでペトロがこのイエス様の言葉を思い出したということは実に大きな意味を持っています。というのも、当初イエス様が「あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」と言われた時、その「あなたがた」とはペトロにとっては「ユダヤ人」以外の何ものでもなかったからです。そこにはユダヤ人しか入っていないと思っていた。ところが、ここでもう一度その言葉を思い起こすのです。そして気づくのです。イエス様が言われる「あなたがた」に入っているのはユダヤ人だけではない。そこには異邦人も入っているのだ、と。

 神がそのことをはっきりと示されたのです。異邦人たちの上にはっきりと分かる形で聖霊が降ったのは、いわば神のデモンストレーションでありました。神は異邦人のいる教会を望んでおられること、神はそのように異なる者が同じ霊を受け、共に食卓を囲む教会であることを望んでおられることを、ペトロははっきりと示されたのです。そこでペトロは言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(17節)。

神の御業に目を向けて
 神の計画が進んでいること、神の御業が進んでいることを喜べなかった人々は、このペトロの言葉に心動かされました。次のように書かれています。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した」(18節)。

 彼らは喜べなかったことを喜べるようになりました。かつて喜べなかった出来事について、神を賛美できるようになりました。どうしてですか。神の御業に目を向けることができたからです。神のなさっていることを見ることができたからです。

 「異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」。「悔い改め」とは神に立ち帰るということです。彼らが神に立ち帰り、神を賛美し、礼拝する者とされている。神との永遠の交わりに入れられ、神の命に与っている。当初ペトロを非難していた人たちも、そこに神の御業を認めざるを得ませんでした。少なくとも彼らは自分自身について、「悔い改め」ということが神の賜物であることを知っていたからです。ならば、それがたとえ異邦人であっても、神に立ち帰り、神を礼拝している人々がいるならば、それは神から出たことであると認めざるを得なかったのです。だから神を賛美したのです。

 私たちもまた、同じ神の御業に目を向ける必要があるのでしょう。自分が今ここに身を置いて礼拝しているということ自体が神の奇跡であり神の驚くべき御業なのだと思える人は、他の人の中にも同じ驚くべき神の御業を見ることができるのでしょう。それは初代の教会においてユダヤ人も異邦人もいる教会が一つとなるために必要不可欠なことでした。それは今日の教会においても同じです。

 実際、教会には異なる背景を持ち、異なる感性を持ち、異なる価値観を持つお互いが集められています。ですから他の人について「なぜあんな人が教会に来ているのか」「なぜあんな人がクリスチャンなのか」と思うことは起こり得ることなのでしょう。だから一緒に礼拝などできない、だから一緒に教会生活はできない、と思ってしまうことはあり得ることです。

 しかし、「あんな人が教会に来ている」と言うならば、本当はそこに神の御業を見るべきなのでしょう。「あんな人が一緒に礼拝しているなんて、ほんとありえない!」と苦々しく思うなら、その「ありえない」ことが起こっていることに神の奇跡を見るべきなのでしょう。

 神はユダヤ人と異邦人とが共にいる教会を望まれました。神は異なる者たちが共にいる教会を望んでおられます。なぜなら神はキリストを通して「地の果てまでも」と言われた神ですから。実際、神がそのような神であり続けていたからこそ、異邦人であり距離的にも遠く離れており、文化的にも全く異なるこの国にも教会が存在しているのでしょう。

 確かに異なる者たちが共にいれば違和感た生じ、葛藤が生じ、時として極めて深刻な困難に直面することもあるのでしょう。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の問題も、この11章で解決したわけではありませんでした。使徒言行録では15章においてもっと深刻な形で現れてきます。後々まで問題を引きずることになりました。しかし、それでもなお神がなさっていることがそこにあるなら、それは良いことなのです。

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