2015年6月21日日曜日

「喜びに溢れて道を行く」

2015年5月21日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 8章26節~40節


サマリアから寂しい道へ
 「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)。そう書かれていました。不思議なことが書かれています。天使が現れたことではありません。神がフィリポを南の寂しい道へと導かれたということです。

 なぜこれが不思議なことかは、そこまでの経緯を考えると分かります。事の発端はエルサレムの教会に対して起こった大迫害でした。まだ形づくられたばかりのエルサレムの教会は散らされることになりました。しかし、そこには「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4節)と書かれています。彼らは散らされたことを嘆いていませんでした。むしろそれを福音宣教の契機として受け止めたのです。

 散らされた人々のひとりであったフィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えました。もともとユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲ですから、迫害で散らされることでもなければ、サマリアに下っていくことはなかったでしょう。その意味では神様によって隔ての壁の向こうに押し出されたとも言えます。ともあれ、下っていったフィリポによってキリストが宣べ伝えられ、そこに新しく教会が生まれました。「(しかし)、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」(12節)と書かれているとおりです。

 フィリポの宣教によって救われた人々です。フィリポの働きによってできた教会です。彼らはまだまだフィリポを必要としていたに違いありません。フィリポがなすべきことはまだ山ほどあったはずです。ところが神様はそこでフィリポの働きを中断させられるのです。彼をサマリアから出発させるのです。南へと向かわせます。わざわざ「そこは寂しい道である」と書かれていました。要するに荒れ野を通る道です。人の住んでいないところです。伝道者を人のいない所に送ってどうするのでしょう。聞く人間がいてこその宣教でしょう。

 神様のなさっていることは道理に合わないように見えます。サマリアに置いておけばより多くの人が救われるでしょうに。働きの絶頂において中断させて荒れ野へと向かわせるというのは宣教の効率から考えてもおかしい。その意味で、ここには不思議なことが書かれていると申し上げたのです。

 しかし、もう一方において、このようなことは違った形で私たちにも覚えがあるとも言えます。有意義と見えることが順風満帆に進んでいる時に思いがけなく中断させられることは確かにある。「神様、なぜですか?」と問いたくなるような回り道をさせられることがあるのです。それこそ伝道者が人のいない荒れ野の道へと向かわされるというような、どう考えても無意味としか思えない回り道をさせられることは確かにあるのでしょう。

 そこでフィリポはどうしたか。サマリアを発って南に行くのです。神の導きに身をゆだねるのです。なぜ有意義と思われることを中断させられるのか、なぜ無意味と見えることを強いられるのか。フィリポにはその時、分からなかったに違いありません。しかし、神の僕として神の導きを受け入れ、神に従うのです。人には分からなくても、神は分かっておられるから。そして、それで十分なのです。

 そして、神には分かっておられたのです。その時、その道をエチオピアの高官が通過することを。「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」(27‐28節)。その人こそ、フィリポが出会うべき人でした。人の目に無意味と思えても、神が備えていてくださっている出会いがあるのです。出会うべき人がいるのです。そこで神が望んでおられる、為すべきことがあるのです。

それは誰ですか?
 その人は馬車の上で預言者イザヤの書を読んでいました。聖霊はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリピが走り寄ると、朗読する声が聞こえました。「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は言いました。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。そして、馬車に一緒に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みます。フィリポは馬車に乗り込みました。

 その人が朗読していたのはイザヤ書53章でした。7節と8節がギリシャ語訳で引用されています。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」(32‐33節)。宦官はフィリポに尋ねました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)。

 羊のように屠り場に引かれていく人。卑しめられても、小羊のように口を開かない人。命を取り去られるところへと黙々と向かう人。その人の名前は聖書に書かれていません。ですから、確かに誰のことを言っているのか不明のまま残ります。しかし、その人がただ黙って死んでいく一人の人というだけならば、それが誰であるかはさして重要な問題ではないでしょう。世の中にそのような人はいくらでもいるのでしょうから。あの宦官は、どうして見ず知らずの人を馬車に乗り込ませてまで、それが誰であるかを尋ねたいと思ったのでしょう。どうしてあの宦官はそれほどまでにその答えが気になったのでしょう。

 それはイザヤ書53章を通して読むと分かるのです。預言者はただ黙々と死んでいく一人の人について語っているのではないからなのです。彼が読んでいたイザヤ書において、その直前にはこう書かれているのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)。神は私たちの罪をすべて彼に負わせられた。彼は私たちの罪をすべて背負って死んでいくのです。預言者はそのような人について語っているのです。

 彼が読んでいたのは、私たちが持っているような聖書ではありません。当時書き物として主流であったのは「巻物」の形態です。恐らく彼はイザヤ書の巻物を読んでいたのです。たまたまそこを開いて読んでいたということではないのです。そこを読んでいるならば、その前も当然読んでいるはずなのです。イザヤ書に何が書かれているかを知っているはずなのです。

 そこには罪に対する神の裁きが書かれているのです。神は聖なる神であり、罪を罪とされる神であることが書かれているのです。神は罪を正しく裁かれる神であることが書かれているのです。預言者イザヤが神と向き合った時、彼は恐れおののいてこう言ったのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(6:5節)。

 この宦官はエルサレムの帰りでした。エルサレムには礼拝のために訪れたのです。遠くエチオピアから礼拝のためにエルサレムにまで来た人。その人がどれほど神を求め、信仰を求めていたかがうかがい知れます。しかし、礼拝して戻る彼は考えざるを得なかったに違いないのです。自分は聖なる神を礼拝できる者なのだろうか。自分は神の御前に出られる者なのだろうか。自分は神に祈れる者なのだろうか。むしろ罪を罪とされる神から退けられ、捨てられ、罪を裁かれ、滅ぼされるべき者ではないだろうか。聖なる神を求めれば求めるほど、自らの罪を思わざるを得なかったと思うのです。

 しかし、そのイザヤ書にこう書かれていたのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」。そして、その人は私たちの罪を黙々と背負い、死んでいくのです。その「彼」とはいったい誰なのだ!本当にそのような人がいるのか。わたしの罪を代わりに背負ってくれる人が本当にいるのか。いるとしたら、それはいったい誰なのだ!

 その思いの丈を宦官はフィリポにぶつけました。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。

喜びにあふれて
 フィリポはそれが誰であるかを知っていました。私たちの罪を代わりに背負ってくださった方。卑しめられても、小羊のように口を開かなかった方。命を取り去られるところへと黙々と向かわれた方。そして、十字架にかかって死なれた方。ナザレのイエス。そうです、フィリポはつい先日までサマリアにおいて、その御方について宣べ伝えていたのです。

 フィリポはなぜ神がサマリアから荒れ野の道へ導かれたのか、そのわけを知りました。既に福音に向けて心を備えられた人がそこにいたのです。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)。

 この人は預言者が誰について語っていたのかを知りました。私たちが罪の赦しを受けるため、代わりに罪を背負って死んでくださった方を知りました。神の備えてくださった出会いの中で、あとは感謝して受け取るだけでした。罪の赦しと救いとを受け取るだけでした。宦官とフィリポは水の流れているところを通りかかりました。宦官は言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(36節)。

 彼は洗礼を受けました。神の前に立つことのできる正しい人間になったからではありません。神を礼拝するにふさわしい人間になったからではありません。そうではありません。人は神の御前に出るにふさわしくない自分であることを認めて、救われるにふさわしくない自分であることを認めて、神の国にふさわしくない自分であることを認めて、ただキリストに依り頼んで洗礼を受けるのです。私たちの罪のために死んでくださったキリストに依り頼み、罪を赦された人として主と共に生きていくのです。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」(39節)。

 主は私たちをどこに導いていかれるのでしょうか。私たちが望んでいないような、意味を見いだせないような道へと導かれるのでしょうか。それは起こりえることです。今、自分自身がいるところをそのように感じている人がいるかもしれません。しかし、主を信じましょう。主は既に出会うべき人々を備えていてくださいます。主が出会わせてくださる人々にも、このエチオピアの宦官と同じことが起こりますように。キリストと出会い、喜びにあふれて旅を続ける人となりますように。

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