2015年6月14日日曜日

「ただ一つの御名、ただ一つの救い」

2015年6月14日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 4章5節~14節


聖霊に満たされて
 「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(5‐6節)と書かれていました。サンヘドリンと呼ばれる最高法院が招集されました。なんのためにでしょう。ペトロとヨハネを尋問するためでした。「そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(7節)。

 アンナスとカイアファという名前には見覚えがあります。イエス・キリストが裁かれた時に出てきました。彼らはイエス様を尋問した人々です。イエス様を断罪し、死に定めた人々です。その同じ場にペトロとヨハネは立たされることとなりました。それは重大な危機を意味しました。それだけではありません。まだ教会は産声を上げたばかりなのです。その大事な時に柱ともいうべきペトロとヨハネが捕らえられたということは、教会にとっても重大な危機を意味ました。

 なぜそのようなことが起こったのか。その次第を簡単に振り返っておきましょう。

 その前の日、午後三時の祈りの時にペトロとヨハネは神殿に上っていきました。するとそこに生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。毎日、神殿の門のそばで物乞いをしていたのです。彼はペトロとヨハネに施しを乞いました。ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。すると彼は癒されて、躍り上がって立ち、ペトロたちと共に神殿に入っていったのです。

 民衆はかつて神殿の門で物乞いをしていた男が、歩き回って神を賛美しているのを見て大いに驚き、ペトロたちのところに集まってきました。ペトロはその大群衆にイエス・キリストを宣べ伝えます。ペトロは復活して今も生きておられる救い主を伝え、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」(3:19)と勧めたのでした。

 そのようにペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいてきました。彼らは二人がイエスの復活を宣べ伝えているのにいらだって、彼らを捕らえて牢に入れました。そして、翌日、最高法院が招集されたのです。

 これが簡単な話の流れです。しかし、考えてみれば、ただ神殿で話をしていただけで、翌日に最高法院が招集されるというのはあまりにも大げさです。普通では考えられないことでしょう。なぜこんなことになったのか。一つ考えられることは、群衆がペトロたちの予期せぬほどに巨大化したということです。「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4節)と書かれているとおりです。

 それほどにペトロたちの影響力が大きくなっていった。それはかつてイエス・キリストを十字架にかけた人々にとってはまことに恐るべきことだったのです。やっとのことでイエスを抹殺して全て終わったと思っていたのに、そのイエスの復活を宣べ伝える人々の群れが見過ごせぬほど膨れあがりつつあった。その結果、彼らは最高法院まで招集せざるを得なかったのです。なんとしてもこの動きを封じなくてはならないと思ったからです。

 ユダヤの最高法院が動き出しました。イエスが捕らえられたあの時と同じです。今度は使徒たちを、教会を、この世の巨大な権力が支配するために動き出しました。この世においては力関係がものを言います。力ない者は力ある者に支配される。弱い者は強い者に支配されることになるのでしょう。この場面においてはこの世において何の権威も力もない二人が、権威と力を持つ人々のただ中に立たされています。ペトロとヨハネは支配される側の人間として立たされているのです。

 しかし、そこで聖書は次のように語ります。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)。「満たし」が意味するのは支配です。ペトロを支配しているのはアンナスやカイアファではありません。「聖霊」なのです。神の霊なのです。

 私たちの肉の目にはこの世の力しか映りません。この社会においては、人間が行うことしか見えないのです。そうです、この世界は人間が動かしているように見える。人間の支配関係がすべてを決定しているように見えるのです。

 しかし、もう一つの支配があるのです。それは神の支配です。目に見えるところにおいては、ペトロとヨハネは圧倒的に大きな人間の力のもとにあるのでしょう。しかし、今日の聖書箇所が伝えているのは支配された人間の姿ではありません。ペトロはこの世の力に支配されてはいません。この世の力によって生じた悪い状況にも支配されてはいません。そうではなく、ペトロは聖霊に満たされていたのです。ペトロを支配しているのは「聖霊」なのです。

 信仰に生きるとはこういうことなのでしょう。あの時、ペトロを満たした聖霊は、私たちの内にも働いておられます。私たちもまた、もう一つの支配のもとに生きているのです。共に集まって礼拝をささげる場は、まさにその事実が目に見える形で現れている場だとも言えます。私たちは今ここにいます。私たちがここに集まっているのは、人間の支配によるのではありません。神の支配によるのです。神の霊の働きによるのです。だから私たちは人間の権威や力、人間の行いを誉め讃えるのではなく、目に見えない御方に向かって一緒に歌をうたって賛美をささげているのです。それはこの世の目からは滑稽に見えるかもしれません。しかし、私たちは目に見えない御方の支配を信じているのです。そして、目に見えない御方に自分自身を献げて、新しくここから歩み出すのです。

神の愛の支配が内に
 そして、この世界に厳然として目に見えない御方の支配があるならば、その御方のなさることは必ず現れてくるのです。目に見える形で現れてくるのです。力ある者は力ない者を支配し、自分の思い通りにコントロールしようとするのですが、人間の思ったとおりにはならないのです。それよりももっと大きな支配があるのですから。

 ペトロとヨハネには何が起こりましたか。アンナスやカイアファたちは、ペトロとヨハネのために尋問と断罪の場所を用意しました。その中にペトロとヨハネを置きました。彼らは二人をその中に強制的に置くことができました。しかし、聖霊はそこでペトロとヨハネに神の言葉を語る大胆さと、福音宣教の機会を与えられました。目に見えない神の霊は、尋問と断罪の場所を福音宣教の場所に変えてしまいました。

 聖霊に満たされたペトロは言いました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(10‐12節)。そのように、救いのために与えられた一人の御方、ただ一つの御名について語るのです。

 その姿を見て議員や他の者たちは驚いたと書かれています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。そこに現れたのは聖霊の支配であり、聖霊の御業でした。

 いや、聖霊は彼らに大胆さを与えただけではありません。聖霊の支配はまた神の愛の支配でもありました。アンナスやカイアファをはじめ、ペトロとヨハネをとりまく人々は、かつてイエス・キリストを死に定めた人々です。ペトロははっきりと彼らに対しても「あなたがたが十字架につけて殺し」たのだと語っているのです。しかし、その上でペトロは彼らに対する神の裁きについて語るのではないのです。そうではなく、救いについて語るのです。

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。このような言葉は極めて排他的に聞こえなくはありません。抵抗を覚える人もあるいはいるかもしれません。しかし、ペトロは他を「排する」ために語っているのではないのです。宗教論争として語っているのではないのです。彼は「わたしたちが救われるべき名」と言うのです。彼らはペトロたちに敵意の目を向けているのでしょう。彼らはかつてキリストを十字架にかけただけでなく、あわよくばペトロたちをも亡き者にしてしまおうと思っているのでしょう。しかし、その彼らに対して「わたしたちが救われるべき名」と言って語っているのです。そこにはアンナスも含まれているのです。カイアファも含まれているのです。

 聖霊に満たされたペトロの内にあったのは神の愛です。御自分を十字架につけた者をも救おうとされるキリストの愛です。ペトロはその愛によって自分もまた救われたことを知っているのです。自分もまたアンナスやカイアファと変わらない。ただイエス・キリストによって救われた罪人であることを知っているのです。だから「わたしたちが救われるべき名」として語っているのでしょう。

 そのように彼らはもはや支配者たちの敵意の中にもいないのです。敵意や憎しみにさえも支配されていないのです。もう一つの支配のもとにあるからです。もっと大きな権威と力をもった一つの御名のもとにあることを知っているからです。その御名によって救われていることを知っているからです。そして、その御名は私たちにも与えられているのです。私たちもまた同じ御名のもとにあり、同じ救いにあずかっているのです。

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