2015年5月24日日曜日

「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」

2015年5月24日  ペンテコステ礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章5節~13節


聖霊の満たしを
 今年も聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えました。毎年祝うこの日は今から約二千年前の教会の誕生、そして教会の宣教の開始を記念した祝祭です。教会がどのように誕生したのか、そして宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 そこには大変不思議なことが書かれていました。明らかに私たちの日常の経験とはかけ離れています。しかし、毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。そこには私たちが毎年思い起こさなくてはならない大切なことが書かれているからです。それは教会が神の霊の働きによって始まったということです。教会の宣教は聖霊のお働きなのです。教会が今日に至るまで、しかもエルサレムから遠く離れた日本にまで存在しているのは、聖霊のお働きなのです。ただ人間の知恵と力によるのではないのです。ただ人間の営みによるのではないのです。神は今この時代においても生きて働いておられます。聖霊は今もなお変わることなく働いておられるのです。

 教会はあの時弟子たちが聖霊に満たされたところから始まりました。ならば大切なことは、あの時弟子たちが聖霊に満たされたように、私たち自身もまた聖霊に満たされることなのでしょう。聖霊に満たされるために必要なことは、ただ求めることです。今日の福音書朗読の中で、イエス様がこう言っておられました。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。

 そうです。必要なことは求めることです。私たちの信仰生活においても、教会を形づくることにおいても、往々にして欠けているのは努力ではないのです。頑張りでもないのです。求めることなのです。恐らく頑張り過ぎるくらい頑張っているのです。努力は十分なのです。それでも上手くいかない時に、「ガンバレ、ガンバレ」と言って思うようにならない自分を鞭打っても仕方ないのです。本当に欠けているのは求めることだからです。

 ですから、イエス様はもっと頑張れと言っているのではなく、求めるようにと励ましていてくださるのです。主は言われました。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。今日の説教題はここから取りました。今年の聖霊降臨祭においては、このイエス様の励ましの言葉をしっかり受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。

求めなさい
 イエス様は「求めなさい」と言われました。しかし、これは一回求めてそれで終わり、という意味合いではありません。イエス様が用いているのは継続を意味する表現です。「求めていなさい」あるいは「求め続けなさい」という意味です。それはその直前のたとえ話からも分かります。真夜中に友人の家に行きパン三つを求め続けた人の話をイエス様はなさったのです。その他のところでも、イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを教えています(18:1)。

 どうして、イエス様はこのようなたとえ話をされたのでしょう。それは求め続けるということが現実には難しいからです。もしそれが容易なことならば、イエス様がそんなことを言わなくても人は求めるでしょうし、求め続けるのです。ここにいる私たちも、あえて「ここから新たに求め始めましょう」などと言わなくても、求め続けているはずなのです。しかし、現実にはそういきません。真剣に祈り求めたことのある人は知っています。祈り求めることを阻むようなことが時として起こるということを。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエス様は言われます。しかし、時として「求めても与えられないではないか」と思えるようなこともあるのです。このたとえ話のように「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と言われているかのように感じることがあるのです。拒絶されているように思えるようなことが起こるのです。信じたのに裏切られたように感じるようなこと、信じたのに騙されたように感じるような出来事に直面することは時としてあるのです。

 もちろん、求めて与えられるということもまた私たちの祈りの経験ではあります。求めて与えられる時、私たちの心は喜びで満たされます。しかし、祈りにおいて失望や落胆を経験する時、もはやかつて求めて与えられたことなど、すっかり忘れ去られているのです。

 そのように失望と落胆は祈りを遠ざけます。それゆえにイエス様はわざわざこの話をなさって「求め続けなさい」と言われたのです。そして、人間の経験には失望や落胆がいくらでもあることを重々承知に上で、なおもこう言われたのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と。そう言って求め続けるよう、励ましていてくださるのです。

探しなさい。門をたたきなさい
 それゆえにまた、イエス様はさらにこう続けられたのでした。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 求めにおいて失望落胆する時、拒絶を感じる時、神がどのような御方であるか見えなくなってくるのでしょう。その意味において、神に求め続けることは大事ですが、神を尋ね求め続けることはもっと大事なことです。

 イエス様はその御方を「天の父」と呼ばれました。そして、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と言われました。 子供たちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父、その天の父を探すのです。尋ね求めるのです。そうするならば「見いだす」とかつてエレミヤを通して語られ、そして、父を本当の意味で知る独り子もまた「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われたのです。

 そして、さらにイエス様は「門をたたく者には開かれる」と言われました。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。閉ざされた扉を開いてくださる。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉が、向こう側から開かれるのです。イエス様は言われるのです。こちらのすべきことはたたくこと。たたき続けること。扉をこじ開けることができなくても、たたき続けることならばだれでもできます。

 そのように、だれでもできることを信じて続けたらよいのです。尋ね求めて、見いだすべき御方を見いだしたなら、それができるのでしょう。良きものを与えてくださる天の父を見いだしたなら、諦めないで、「こんなことして何になる」などと言わないで、安心してたたき続けることができるのでしょう。

一つになって
 そのように、イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。そして、弟子たちに何よりも求め続けて欲しかったのは聖霊に満たされることだったのでしょう。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主は言われたのです。

 だから弟子たちは求め続けたのです。さらに言うならば、彼らは一つとなって求め続けたのでした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…」(使徒言行録2:1)と書かれていたとおりです。そして、「すると、一同は聖霊に満たされ」と書かれているのです。

 かつて「誰が一番偉いのか」と競い合い、争っていたあの弟子たちもまた、一つになって集まっていたのです。それはある意味では当然のことでしょう。人間の姿にしか目がいかなければ、人間が行うことにしか目が向かなければ、互いの違いばかりが気になります。互いを比較し、あるいは互いを批判しあい、互いを斥け合うことも起こります。共に聖霊を求めるならば、共に神のなさることを求めるならば、そこで初めて一同は一つになることができるのでしょう。

 そのようにして、弟子たちが共に聖霊を求め、聖霊に満たされることによって教会は始まりました。その教会が、試練と迫害の中にあっても常に「良きものを与えてくださる天の父」を常に見いだし、門をたたきつづけ、そして、その御方によって開かれ得ないと思われた扉が次々に開かれていった。それが使徒言行録の伝える教会の歩みです。そして、その教会の歴史の中に、ここにいる私たちもまた集められているのです。

 私たちも共に、この時代に生きて働いておられる神の御業に思いを向けましょう。今も生きて働いておられる神の霊に満たされることを共に求めましょう。求め続けましょう。主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉をしっかりと受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。

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