2015年5月3日日曜日

「キリストの喜びが共に」

2015年5月3日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章11節~17節


あなたがたを友と呼ぶ
 イエス様は弟子たちに言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。イエス様は弟子たちに対して心の内にあったものを全て開いて示されました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、人がその友に心を開くように、弟子たちにその心を開いて語られたのです。

 イエス様の心の内にあったのは「父から聞いたこと」でした。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と主は言われました。それは父なる神から聞いたこの世の救いの計画でした。この世が救われるためにイエス様が十字架にかからなくてはならないことでした。世の罪が赦されるために「世の罪を取り除く神の小羊」」として死ななくてはならないことでした。そのようにして多くの実を結ぶために「一粒の麦」として地に落ちて死ななくてはならないことでした。イエス様は御自身に関わるすべてを弟子たちに語られました。そう、友として。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」。だから主は言われるのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。

 あの弟子たちに語られた言葉が、代々の教会によって伝えられてきました。それは、代々の教会もまた、このイエス様の御言葉を、自らへの語りかけとして聞いてきたからに他なりません。父の救いの計画が私たちにも伝えられた。イエス様の十字架の意味が私たちにも伝えられた。それはとりもなおさず、イエス様が私たちを友と見てくださった、ということなのだ。そのように、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という語りかけを、福音が宣べ伝えられたという事実の中に聞いてきたのです。

 その言葉を私たちもまた聞いています。私たちがこうして毎週呼び集められていること、私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストの友とされていることの目に見えるしるしです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は私たちにも語っておられるのです。

あなたがたのために命を捨てた
 そして、細かいことですが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と訳されていますが、意味合いとしては「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」という表現が使われているのです。既に友と呼んでいるのです。その前に書かれている13節、14節の御言葉もまた、既に友と呼ばれている者に対して語られている言葉です。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様は愛についての一般論を語っているのではありません。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉なのです。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。そのようなイエス様の言葉です。「これ以上に大きな愛はない」とはどういうことですか。これ以上愛しようがないということでしょう。イエス様は友をこれ以上愛しようがないほどに愛されたのです。そして、イエス様は言われたのです。「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」。――あなたがたこそ、わたしが愛している友、命を捨てるほどに愛している友なのだ、と。

 そしてその翌日、弟子たちはイエス様が十字架にかけられた姿を見ることになりました。さらに、やがて十字架の意味を知ることになりました。イエス様が心開いて語ってくださった父のご計画を本当の意味で知ることになりました。その時に、あたかも外から眺めるかのように、「イエス・キリストは全人類の罪のために死んだのだ」と言えなかったことは明らかです。言えるわけないでしょう。「あなたがたはわたしの友だ」と言われてしまったのですから。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われてしまったのですから。キリストの十字架の出来事は、自分に対する直接的な語りかけとして聞かざるを得なかったはずなのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。これ以上愛しようがないほどにあなたを愛しているから。あなたはわたしの友だから」と。

あなたがたは友である
 そして主はさらにこう言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエス様の命じることとは、12節と17節に語られていることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。つまり、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われたのです。

 「友と呼ぶ」ことは一方通行でも成り立ちます。友としてかかわることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。仮に相手が友達だと思っていなくても、こちらが友達として接することは可能でしょう。しかし、友達同士という関係は、一方通行では成り立ちません。友としての交わりは、一方通行では成り立たないのです。わたしが誰かを「友と呼ぶ」ことと、その人が本当に友であるかどうかは、別な話です。その人は友だちだと思っていないかもしれませんから。

 イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。ならば、私たちも本当の意味でイエス様の「友」になりたい。イエス様も、ただ一方的に友と呼ぶだけでなく、私たちが本当に友であって欲しいと願っておられるのです。

 イエス様の友であるとはどういうことでしょう。イエス様を愛するということでしょう。イエス様が私たちを友として愛してくださった。その愛に応えて私たちもイエス様を愛することでしょう。それがイエス様の友であり、イエス様の友として生きるということであるに違いありません。ではどのようにしてイエス様を愛するのか。イエス様が願っていることを行うことによってです。相手の願いに無頓着であるなら、本当の友とは言えません。では、イエス様は何を望んでおられるのか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そう主は言われるのです。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

あなたがたが実を結ぶために
 そして、私たちがイエス様の友とされ、イエス様の友として生きるということは、ただ私たち自身にのみ関わることではないのです。主はこう言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 イエス様の関心は、ここにいる私たちに対してだけでなく、広くこの世界に向けられています。イエス様は私たちがこの世界に出て行って実を結ぶことを望んでおられます。そのために私たちを友としてくださり、またイエス様の御名によって父に祈ることができるようにもしてくださったのです。出て行って、実を結ぶためです。

 「わたしには何もできません。わたしはそのような者ではありません」などと言う必要はありません。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエス様は言われるのですから。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。わたしたちに能力があるかないか、関係ありません。わたしたちが強いか弱いか、関係ありません。わたしたちが若いか年老いているか、関係ありません。男か女か、関係ありません。わたしがイエス様を友にしたのではなく、イエス様が私たちを友と呼んでくださったのです。わたしたちが実を結ぶために!

わたしの喜びがあなたがたの内にあるように
 さて、これらのことを語られたのは、先にも述べましたように、最後の晩餐においてでした。イエス様は間もなく自分が捕らえられることを知っていました。弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまうことを知っていました。見捨てられた者として、不当な裁きを受け、鞭打たれ、辱められ、十字架にかけられて殺されることを知っているのです。しかし、イエス様は悲しみながらこれらのことを語っておられるのではありません。そうではなくて、大きな喜びをもって弟子たちに語っておられるのです。今日の朗読の冒頭はこのような言葉でした。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 そう、確かにイエス様は「わたしの喜び」について語っておられるのです。人々の憎しみも敵意も裏切りも、そして迫って来る死の力さえも、イエス様の喜びを奪うことはできませんでした。いや、イエス様は喜びを失わなかったどころか、それを弟子たちにも与えようとしておられたのです。「あなたがたの喜びが満たされるために」と。

 イエス様は弟子たちもまた奪われることのない喜びに生きて欲しいと願われました。満ち溢れる喜びに生きて欲しいと願われました。なぜですか。イエス様の友だから。イエス様はそのように、私たちにもイエス様の喜びが宿るように、喜びが満ちるようにと願っておられます。イエス様の友だから。

以前の記事