日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節
キリストによって招かれて
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。イエス様が十字架にかけられて死んだ後、自分たちも同じ目に遭わないようにと逃げ隠れしていたあの弟子たちに、イエス様は婦人たちを遣わして言われたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
もはや「わたしはイエスの兄弟である」などと口が裂けても言えない弟子たちなのでしょう。弟子であることを自らの行動で否定してしまったのですから。イエス様に会わせる顔もない。しかし、イエス様はそんな彼らを弟子として見ていてくださいました。「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、彼らの兄弟としてガリラヤで待っていてくださると言うのです。彼らをみもとに招いていてくださるのです。「そこでわたしに会うことになる」と。
だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。ただイエス様に会いたいからではありません。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が弟子たちとして迎えてくださるから。イエス様が計り知れない赦しをもって兄弟として迎えてくださるから。
イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)。彼らはイエス様にまみえることができただけでなく、そこには彼らが「ひれ伏した」と書かれています。それは「礼拝した」という言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となったのです。
イエス様が招いてくださった山において礼拝している十一人の弟子たち。そこに見るのは教会の姿です。ここにいる私たちの姿です。招いてくだっているのは復活されたキリストです。私たちの罪のために十字架にかかられ、私たちが義とされるために復活されたキリストです。その御方によってまことに弟子に相応しくないような者たちが礼拝の山へと招かれている――それが教会です。
しかし、そこにはまた小さくこう書き添えられています。「しかし、疑う者もいた」。「疑う者もいた」というのは一つの意訳です。そこには「彼らは疑った」と書かれているのです。ですから、礼拝をしていながら全員がいくばくかの不信仰を抱えていた、と見ることもできるのです。
いずれにせよ、彼らの中には信仰と不信仰が混在していたということです。彼らの礼拝の中には不信仰と疑いがあったのです。それはとてもよく分かります。私たちの礼拝もまたそうですから。ここには信仰があり不信仰がある。しかし、キリストはその不信仰のゆえに彼らから離れたかというと、そうではありませんでした。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)と書かれているのです。イエス様は近づいてきてくださる。不信仰のあるところに近づいてきてくださるのです。そして、彼らの疑いと不信仰について語られたのではなく、御自分について語られたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。
そして、「天と地の一切の権能を授かっている」御方が最終的に信仰と不信仰が混在する彼らに対してこう言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。「いつも」というのは「すべての日々」という言葉です。昨日も今日も明日も、ということです。礼拝を捧げている時だけではありません。明日も明後日もその次の日も。いつまでですか?「世の終わりまで」です。ここに語られているのは、まさにあの弟子たちもまたここにいる私たちも受けるに値しない恵みです。礼拝へと招いてくださる復活の主の恵みです。
キリストによって遣わされる
そして、今日朗読された箇所においては、ちょうどその恵みに包み込まれるようにして、主が弟子たちに命じられる言葉が語られているのです。それはしばしば「大宣教命令」と呼ばれます。19節以下をお読みします。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19‐20節)。
主は礼拝の山に招いてくださいました。その御方は、そこから弟子たちを遣わされます。「あなたがたは行きなさい」と。何のために?「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と主は言われるのです。これがイエス様の命じられた言葉の中心です。
イエス様はすべての民がイエス様の弟子となることを望んでおられます。それはとてつもない話のように思えます。しかし、代々の教会はその言葉を文字通りに受け止めてきたのです。だから極東の日本にまで教会があるのです。ここまで伝えられてきたのです。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。その具体的な内容は「洗礼を授けること」と「教えること」でした。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われます。教会が洗礼を授けることを主は望んでおられます。すべての民が洗礼を受けることを主は望んでおられます。信仰をもって生きる上で洗礼が必要であるか、あるいは必要でないか。そのような話題を耳にすることがあります。しかし、大して意味ある話題とは思えません。洗礼を授けることはイエス様御自身が命じておられることだからです。イエス様は教会が洗礼を代々に渡って全ての国々において授けられることを望まれたのです。
洗礼についてはパウロが次のように語っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。
洗礼において何が起こるのか。「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあります。誰によって葬られるのですか。神様です。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのようにそれまでの自分が死んだ者とされ、葬られるのは何のためでしょう。「新しい命に生きるため」なのだ、とパウロは言うのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味で洗礼は新しい自分の誕生の式でもあります。
この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。その子はこの世での生活の仕方を覚えていくことでしょう。同じように、霊的に新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方、イエス様が見せてくださった天の父と共に生きる生活の仕方、イエス様の弟子として、また兄弟として生きる生活の仕方を伝えられねばなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。
主は言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。実際、このマタイによる福音書は、そのようにイエス様が教えられたことを伝えるために書かれたと言っても良いでしょう。また、パウロの手紙などにおいても具体的な信仰生活に関する勧めが書かれているのも、そのような理由です。イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。その言葉を二千年の時を経て、私たちもまたここにおいて聞いております。最初に「だから」という言葉があります。この命令が意味を持つのは、その御方が「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるからです。そうでなければ「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は意味を持ちません。それこそ他の民のところにまで行って「イエス様の弟子になるように」と伝えることは余計なお世話でしかないでしょう。
しかし、あの御方は「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるのです。その御方はいかなる意味においても相対化できない存在だということです。そのような御方を私たちは礼拝し、そのような御方の語りかけを聞いて、そのような御方によってこの世に遣わされるのです。そのことを本気で信じているのでしょうか。確かに代々の教会がそのことを信じてきたからこそ、今の私たちがここにいるのです。私たちはどうなのでしょう。
その意味においても、私たちが礼拝するこの礼拝の山には、信仰と不信仰が混在しているのでしょう。しかし、それでもイエス様は私たちに近寄ってきてくださいます。ここに招いてくださった御方は、私たちに近づいてきてくださいます。そして、なおもここから私たちを遣わしてくださるのです。「行きなさい」と言って。礼拝の最後が「派遣」となってとはそういうことです。そして、主は私たちにも約束してくださるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。