2015年4月19日日曜日

「決して無駄にはなりません」

2015年4月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章36節~43節


主に結ばれているならば
 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(1コリント15:58)。本日の第2朗読において読まれた言葉です。

 私たちはこのような言葉に励まされます。力づけられます。しかし、このような言葉が手紙に書かれているのは、これが必ずしも自明なことではないからとも言えます。普通に考えれば無駄に潰えたとしか思えない苦労はいくらでもあるのでしょう。意味があるとは思えない苦しみを負わなくてはならないことはいくらでもあるのでしょう。

 ですから、時として「動かされないようにしっかり立つ」ということは困難になります。重荷を背負おうにも、その足元が揺らぐのです。主に仕えることですら、足元が揺らぐのです。しっかり立てなくなるのです。こんなことして何になるのか。いったい何の意味があるのか、と。そう言えば、かつて旧約の預言者も言っていました。「わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と」(イザヤ49:4)。そのようにただ空しく「疲れた、疲れ果てた」とつぶやくことは誰にでもあることなのでしょう。

 だからこそ、パウロは書いているのです。そのような人間の弱さも、しばしば味わう人間の悲哀も重々承知の上で書いているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。

 「知っているはずです」。パウロは何を思って「知っているはずです」と言っているのでしょう。それはキリストです。「主に結ばれているならば」と彼は言うのです。また、この直前にパウロはこう言っているのです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(同57節)。そのように、パウロが思いを向けているのはキリストなのです。さらに言うならば、十字架にかけられて死んで三日目に復活されたキリストなのです。

霊魂の不滅ではなく
 今日の福音書朗読では、復活されたキリストが弟子たちに現れたことを伝えている箇所が読まれました。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)。そう書かれていました。明らかにドアをノックして入ってきたのではありません。彼らの真ん中に忽然と現れたという書き方です。ですから皆は亡霊を見ているのだと思いました。彼らは恐れおののきます。

 するとイエス様はこう言われたのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38‐39節)。

 このような言葉はまことに今日の読者には飲み込みにくい言葉であろうと思います。しかも、この後に復活したキリストが焼き魚を食べたという話が続くのです。そこまでいくと滑稽とすら映ります。しかし、この言葉が受け入れ難いとするならば、それは現代人にとってだけでなく、当時のギリシア・ローマ世界の人々にとってもそうだったのです。これがイエス様の亡霊であったならば、ずっと受け入れやすかったのです。イエス様の肉体は死んでも霊魂は生き続けていましたという話なら、ずっと伝えやすかったし受け入れやすかったに違いないのです。

 しかし、どれほど奇妙に思われようが、滑稽に思われようが、教会はそれが単なる霊魂不滅ではなかったことにこだわったのです。そうではなく、キリストは体をもって復活したのだということにこだわったのです。キリストの体の復活を伝えるために、弟子たちはこのようなイエス様の言葉をあえて伝えたのです。それはなぜなのか。霊魂不滅と体の復活では意味するところが決定的に異なるからです。《体の復活》でしか表現できない信仰的な内容があるからなのです。

 そこで重要なのは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」という言葉です。私たちは普通こういうことは言いません。自分であることを示すのには、「わたしの顔を見なさい」と言うでしょう。手や足は誰のものであっても、それほど違わないからです。しかし、イエス様は「手や足を見なさい」と言われました。キリストの手や足には釘の跡があるからです。それは十字架上で死んだしるしです。つまり、キリストの体の復活は、《十字架で死んだ体》の復活なのです。十字架で終わった生涯を生きた体の復活なのです。

 十字架上での最期。それは人の目から見るならば、全てが無に帰した最期であったと言えます。それは全ての愛の労苦も報われることなく、無駄に潰えてしまったとしか見えない最期でした。しかし、十字架の死は終わりではありませんでした。そのような一生を生きたその体を、計り知れない苦しみを背負って生き、そして死んだその体を、まさに《その体が》神は復活させてくださったのです。栄光の姿によみがえらせてくださったのです。

 そのようにして人ではなく神が報いてくださいました。十字架をもって終わったその一生も、神が生かしてくださいました。そのすべての働きも愛の労苦も十字架上の苦しみもすべて、神が生かしてくださいました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」。そうです、復活されて栄光の姿で現れたキリストの手足には釘跡がありました。それは十字架における苦しみも死でさえも決して無駄ではなかったことをはっきりと物語っていたのです。

罪の贖いにより
 しかし、私たちは単純にキリストと私たちを重ね合わせて考えることができないことをも知っています。キリストに起こったことが単純に私たちの希望とはなりません。キリストと私たちは違うからです。決定的な違いは、キリストには罪がなかったけれど、私たちは罪人であるという事実です。キリストは神への完全なる従順をもって生きられた御方であるけれど、私たちはしばしば心においても行いにおいても神に背いて生きてきた者だ、ということです。神が復活させたキリストの体は苦難を負った体ではありましたが罪のない体でした。私たちの体は罪が宿った体です。神がキリストを復活させたからと言って、どうして神が罪人である私たちをも復活させてくださると言えるでしょう。

 先ほど、キリストについて「人ではなく神が報いてくださった」と言いました。しかし、「神が報いてくださる」という言葉は、決して単純ではありません。もし、キリストにではなく、罪ある私たちの一生に神が正しく「報いてくださる」ならばどうなるでしょう。むしろそれは私たちにとって救いではなく、裁きと滅びしか意味しないでしょう。このように、キリストの復活は、単純に私たちの希望とはならないのです。

 しかし、私たちはここでもう一度、キリストの復活が十字架にかけられて死んだ体の復活であったことを思い起こさねばなりません。キリストは復活して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。あの釘の跡はイエス様が負った苦しみの傷跡ですが、それはただの苦しみではなく、私たちの罪の贖いのために苦しみだったのです。あの十字架の死は、私たちの罪を贖うための死であり、苦難のメシアの死に他ならないのです。

 罪を贖うために私たちに苦しみを背負われたあの御方の体を、あの釘の跡と共に、神は復活させられました。神はキリストの苦難と死を、罪の贖いの犠牲として完全に受け入れてくださったのです。ある人は「キリスト者にとって、復活は十字架におけるイエスのわざに貼られた神の証印なのである」と表現しました。このように、キリストの体の復活が示しているのは、キリストによる罪の贖いの御業が完全に有効であるという事実なのです。

 ですから、復活されたキリスト御自身、ただ御自分の苦難について語られたのではなくて、罪の赦しについて語られるのです。傷跡のある手をもって魚を食べられた主は、さらにこう続けられたのでした。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(44‐48節)。

 そのとおり、罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス・キリストの名によって宣べ伝えられました。パウロにも宣べ伝えられました。そして、パウロを通してコリントの人たちにも宣べ伝えられました。パウロは共に罪を赦された者として、キリストの復活を私たちすべての者の復活の希望として語るのです。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(1コリント15:20)。キリストの復活は「初穂」なのです。その復活に私たちの復活が続くのです。

 キリストにおいて十字架が終わりでなかったように、その先に栄光の姿があったように、私たちにおいてもこの体をもって生きた一生は死をもって終わるのではありません。神が栄光の姿によみがえらせてくださいます。救いが完成した姿において復活させてくださいます。すべては神によって生かされるのです。それゆえに私たちにもこう語られているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

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