2015年3月22日日曜日

「捨てられた石が隅の親石に」

2015年3月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 20章9節~19節


力を行使できる神
 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)とイエス様は語り始めました。この話は二つの意味で彼らに身近な話でした。一つは生活上の経験として。彼らはぶどう園を生活圏内にいくらでも目にすることができたでしょうし、オーナーが遠くに住んでいて農夫たちに管理が任されているぶどう園をいくつも知っていたことと思います。そして、もう一つは聖書の知識として。旧約聖書において、特にイザヤ書とエレミヤ書において、イスラエルが神のぶどう園として繰り返し語られていることを彼らは知っていたはずです。ですから、一方において彼らは現実にあり得る身近な話として、もう一方において神について語るお馴染みのたとえ話として、イエス様の話を聞いていたに違いありません。

 話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10節)。今日の私たちの感覚からするとあり得ないような話に思えますが、治安維持のシステムが確立されていない社会においてはいくらでも起こりえることなのでしょう。そこでは力関係がモノを言うのですから。

 主人がある程度の力を持っていれば問題は起こらないのです。しかし、農夫たちの集団の方が強ければ、このようなことは起こります。僕は主人から権威を与えられてこそぶどう園の収穫を納めさせることができるのです。その背後の主人が侮られてその権威が認められなければ袋だたきにされて追い返されることはあり得ます。

 さらに話は続きます。「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(11‐12節)。こういう展開になりますと、力関係ははっきり見えてきます。明らかに農夫集団の方が強い。主人は自分が作ったぶどう園をあきらめて不当に占拠されたままにするか、それとも説得を続けるかしかありません。主人は僕を送り続けます。しかし、弱いから繰り返し侮辱されることになるのです。

 そこで主人はある決断をします。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。これが賢い決断であったかどうかは別としまして、主人が農夫よりも弱くて、あくまでも力による解決ができないなら、これも交渉のための選択肢として考えられなくもありません。

 しかし、そこに主人の無力さを見た農夫集団はぶどう園を一気に自分たちのものにしようと目論みます。「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14‐15節)。当時の社会において、農園の持ち主が跡取りのないまま死んだ場合には、その農園が農夫のものになるということは実際にあったようです。彼らの言っていることは根拠のないことでありません。

 いずれにせよ、このような話は誰が聞いても不快なものです。力ある者たちの暴力によって正義がねじ曲げられ、正しくない者が得をして勝ち誇る。そんな結末で良いはずがないと誰もが思います。この悪い農夫たちをなんとかせねばならない!そこでイエス様は話を続けます。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15‐16節)。

 なんと、弱いと見えた主人は、実は弱くはなかったという話です。彼は武装集団を配下に持っていた。そして、悪い農夫たちは成敗されるのです。このような話が好まれるのは古今東西変わりません。「水戸黄門」にせよ「遠山の金さん」にせよ結論は初めから分かっているのに喜んで見ますでしょう。それはイエス様の話を聞いている人たちも同じなのです。恐らくこのたとえ話、聞いている人には結論が見えているのです。農夫は滅ぼされる。悪い奴は滅ぼされなくてはならない。

 ですから人々が言った「そんなことがあってはなりません」というのは、農夫たちが成敗されたことについてではないのです。彼らに言わせればそれは「あって然るべきこと」なのです。「そんなことがあってはなりません」というのは、農夫たちが息子を殺して農園を手に入れて勝ち誇ることです。主人が侮られたままであることです。そんなことがあってはならない!絶対にあってはならない!悪い連中は皆殺しにされて当然だ!そのように彼らは義憤にかられて叫んでいるのです。

 そうです。これは「主人は侮られたままではない」という話として聞こえているのです。主人は力を行使することができる。そして、先にも言いましたように、彼らはこれを神についての「たとえ話」としても聞いているのです。ぶどう園と言えばイスラエル。ぶどう園の主人と言えば神様です。神は侮られる御方ではない。力を行使することのできる神である。実際、彼らは神をそのような神として信じているのです。例えば、神が力を行使してファラオをやっつけて、奴隷であったイスラエルを解放してくれた話などは、彼らが子どもの時から聞かされてきたお気に入りの話だったはずなのです。

力をあえて行使しない神
 しかし、「そんなことがあってはなりません」と言う彼らをイエス様は見つめて、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」(17節)。これは詩編118編3節の引用です。イエス様は問われます。それは何を意味するのか。イエス様の問いは、このたとえ話を前提としています。その問いに答えるためには、先のたとえ話をもう一度思い巡らす必要があるようです。

 実はあの主人は弱くなどなかった。主人は侮られたままではないという結論。そこからこの「たとえ話」をもう一度思い返してみますと、このストーリーはそもそもあり得ない話であることが見えてきます。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。この時点で農夫たちは既に反乱を起こしているのです。そして、主人は武力をもって反乱を鎮圧することができるのです。にもかかわらず彼はほかの僕を送るのです。その僕が袋だたきにされれば、三人目を送ります。

 それはこの世においては起こりえないことです。しかし、これが神のなさってきたことだとイエス様は言われるのです。滅ぼす力を持ちながら、それでもなお力を行使せずに僕を送るのです。馬鹿にされようが、侮られようが、見くびられようが、それでもなお忍耐強く呼びかけ続けるのです。そして、実際にイスラエルの歴史において神が預言者を送り続けたことを聴衆は知っているのです。

 しかし、イエス様の話はそこに留まりませんでした。主人は言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。直ちに滅ぼすことのできる力を持っているとするならば、この主人の行動はあり得ません。この主人の行動は常軌を逸して愚かだとさえ言えます。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。

 にもかかわらず、主人は息子を送るのです。もはや結末を知りながらあえて送ったとしか言いようがありません。息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるかも知れないことを承知の上で送ったとしか言いようがない。そうです、イエス様はそのように送られた息子としてこの「たとえ話」を語っておられるのです。「これがわたしを遣わされた父なる神だ」と。

 そうです、イエス様は分かっておられるのです。御自分がこの息子のように、外に放り出されて殺されること。御自分が詩編に歌われている「家を建てる者の捨てた石」であること。そして、確かにイエス様はそれから間もなくして十字架につけられることになるのです。私たちも知っているとおりです。

 しかし、捨てられた石はそのままでは終わらないのです。詩編は「これが隅の親石となった」と続くのです。イエス様は御自分が捨てられるところまでしか見ていないわけではありません。その先を見ておられたのです。独り子さえこの世に送られた神の忍耐と寛容は十字架によって無に帰してしまうのではありません。そこから新しいことが起こるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と書かれていることが実現するのだ、と主は言われるのです。

 そして、そのとおりになったと聖書は私たちに教えているのです。キリストを隅の親石とした新しい家が建てられました。それが教会です。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストは、無に帰したのではなくて私たちの罪を贖う犠牲となりました。キリストは復活して隅の親石となられました。そこからイエス・キリストが宣べ伝えられ、罪の赦しの福音が宣べ伝えられるようになりました。ですから、これを書いているルカは、第2巻をも書くのです。「使徒言行録」――教会の物語です。

 主は言われました。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。これは単なる裁きの言葉ではありません。その向こうに救いが見えているのです。

 教会の宣教によって、人はキリストに出会います。十字架にかけられて復活されたキリストに出会うのです。隅の親石となったキリストに出会うことになるのです。そして、そこで自分こそまさにあの農夫たちの一人であることが見えてくる。神を侮って生きてきた自分自身であること、神の忍耐も寛容も軽んじてきた自分の罪深さを知ることになるのです。

 そのようにして、ある人はキリストという石の上に落ちる。ある人はキリストという石の下敷きとなる。砕かれたり押しつぶされたりすることになる。しかし、そこにこそ人間の救いがあるのです。神を侮ったままで人が救われることはないからです。これを書いているルカは、そのように砕かれ押しつぶされ、そして救われた人を少なくとも一人、身近に知っています。ルカが宣教の旅を共にしたパウロです。隅の親石なるキリストとの出会いは、パウロの救いでした。そして、私たちの救いもそこにあるのです。

 このように、このたとえ話は、神は侮られる方でないこと、最終的な裁きを行う力をお持ちの御方であることを語っているだけではありません。その神が限りない忍耐と寛容を示していてくださること、今も私たちに呼びかけてくださっていること、そして、その神が私たちの救いのためにキリストという隅の親石をしっかりと据えてくださったことを指し示しているのです。

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