2015年3月29日日曜日

「誘惑に陥らないように祈りなさい」

2015年3月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 22章39節~53節


御心のままに
 イエス様は弟子たちとの最後の晩餐を終えると、オリーブ山へと向かわれました。こう書かれています。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」(39‐40節)。

 主は「いつものように」そこに向かわれました。「いつもの場所に」向かわれました。それが危険なことであることは分かっていたはずです。ユダが既に祭司長たちのもとに向かっていたのは分かっていましたから。ユダは祭司長たちと共に武装した人々を手引きして「いつもの場所に」連れてくることでしょう。イエス様が「いつものように」「いつもの場所に」向かうということは、「群衆に邪魔されないところでどうぞわたしを捕まえてください」と言っているようなものです。主は覚悟の上で、あえてそこに向かわれたのでした。

 イエス様は時が来たことを悟っておられたのです。天の父によって定められた時。捕らえられ、裁かれる時。十字架にかけられる時。――父から受けた杯を飲み干すべき時。主は時が来たことを悟って、「いつものように」「いつもの場所に」向かわれたのです。そして、そこで祈られたのです。いつものように。次のように書かれています。「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(41‐42節)。

 主は祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。しかも、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と書かれています。聖書に記されているのはただ一度だけ口にされた祈りではありません。繰り返し、繰り返し、いよいよ切に祈られたのでしょう、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。

 その姿はある意味ではとても奇異に映ります。イエス様はこれまでに繰り返し御自分の受難を弟子たちに予告してこられたのですから。しかも、最後の食事において杯を手にして主はこう言われたのです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)。十字架にかけられることを既に泰然と受け止めておられるように見えるではありませんか。それなのに、この期に及んで「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は切々と願い求めておられるのです。

 その姿は話の流れにそぐわない。確かにそうとも言えます。しかし、この度ここを改めて読んで思いました。私たちの罪のために十字架にかかられるとは、こういうことなのだ、と。私たちの罪を代わりに背負い、十字架において私たちの罪を贖うとはこういうことなのだ、と。

 私たちはやはり、自分の罪の重さを本当の意味では知らないのだと思います。私たちがどれほど神に背いて生きてきたかを本当の意味では知らない。本来ならどれほど恐るべき裁きを受けなくてはならなかったかを私たちは知らないのです。私たちの罪が赦されるとするならば、どれほど大きな苦しみをイエス様に代わりに負わせることになるのかを知らないのです。

 そうです。私たちは知らないけれど、イエス様には分かっていたのです。あの杯が何であるかを。その真実が見えていたのはイエス様だけなのです。私たちはむしろ、父から受けた杯を手にして苦しみもだえるお姿に、私たちが主に担っていただいた罪の重さ、その恐ろしさを見るべきなのです。

 そのように「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は祈られました。しかし、主はさらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。主が「いつものように」「いつもの場所に」おいて祈ったのは、自分の願いを聞き入れてもらうためではありませんでした。主は自分の願いではなく父の御心に従いたいのです。救い主として御自分を世に遣わされた父の御心に従いたいのです。だからこその祈りです。父の御心に従うことができるように、主は御父に向き続けたのです。

 父に向き続け、苦しみもだえながら祈られるイエス様に、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし、沈黙はしばしば言葉以上に雄弁に語ります。沈黙こそがイエス様に与えられた答えでした。イエス様は父の答えを得たのです。――わかりました。あなたの御心なのですね。――イエス様の心は定まりました。イエス様は祈り終わって立ち上がりました。イエス様は弟子たちのところに戻られます。

 眠り込んでいた弟子たちに語りかけておられると、ユダに手引きされた群衆が現れました。ユダはイエスに接吻しようと近づきます。主は言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。事の成り行きを見てとった弟子の一人が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その右の耳を切り落としました。しかし、主は彼を制して言います。「やめなさい。もうそれでよい」。そして、その耳を癒されました。イエス様が地上で行われた最後の癒しの奇跡でした。こうしてイエス様は捕らえられてゆきました。天の父の御心に従うために。

祈っていなさい
 さて、私たちはオリーブ山において祈られるイエス様の姿に目を向けてきました。しかし、今日の聖書箇所はイエス様の祈りの姿だけを伝えているのではありません。ちょうどイエス様の祈りを挟み込むようにして、弟子たちへの言葉が記されているのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。

 オリーブ山におけるイエス様の祈りの姿は、弟子たちに対する「祈りなさい」という言葉と共に伝えられてきました。弟子たちは眠りこけていた自分たちの姿と共に、このイエス様の言葉を伝えてきたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

 「誘惑」とは何でしょう。そう言えば、最後の晩餐の席においてイエス様がペトロに対してこんなことを言っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31‐32節)。

 サタンによってふるいにかけられる。それは具体的にはイエス様が捕らえられてしまうということです。しかし、それだけではありません。シモン・ペトロは三度イエス様を知らないと言ってしまう。そんな自分の弱さと醜さに向き合って大泣きすることになるのです。それは他の弟子たちも同じで、皆イエス様を見捨てて逃げ出すことになるのです。彼らが抱いてきた希望も、弟子としての自負も誇りもその一切が打ち砕かれてしまうのです。

 弟子たちは間もなく大きな試練を経験することになります。彼らは深い悲しみ知ることになります。深い絶望を味わうことになります。イエス様は分かっているのです。その悲しみも絶望も「誘惑」にもなるのだと。悲しみの中で、サタンはふるいにかけてくるのです。だからこそイエス様はペトロのためにも祈ったのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。その主がオリーブ山で言われたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。それはイエス様が捕らえられる時だけのためではありません。人を神から引き離す誘惑は常にあるのです。

 「誘惑に陥らないように祈りなさい」。主はそう言われて、「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた」と書かれています。「石を投げて届くほど」の距離とはどのくらいでしょう。よく分かりませんが、少なくとも遙か彼方でないことは間違いありません。主の祈る姿が遠くに見えるところ。激しく叫び祈るイエス様の声が聞こえるところ。そこで、イエス様と共に彼らもまた祈るのです。イエス様の御苦しみを思いつつ、彼らもまた「誘惑に陥らないように祈る」ことが求められているのです。

 しかし、実際には彼らは眠ってしまいました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)と書かれています。先にも申しましたように、弟子たちはイエス様の祈りの姿だけを伝えたのではなくて、眠り込んでいた自分たちの姿を一緒に伝えたのです。そのようなことが、あの時だけでなく常にあり得るからでしょう。

 「悲しみの果てに眠り込んでいた」と書かれていますように、試練の中にあって、悲しみの中にあって、まさに誘惑に陥らないために祈らなくてはならない時に、実際には祈ることをやめてしまうことはあるのです。眠り込んでしまったらイエス様の姿も声も聞こえないように、霊的に眠り込んでしまったならば、もはや私たちを救う父の御心に従うために苦しみもだえて祈られたイエス様の御姿を思うこともありません。

 あの弟子たちだけではありません。いつの世の信仰者の経験でもあるのでしょう。私たちも例外ではありません。しかし、眠っている弟子たちのところにイエス様は戻ってこられ、そしてもう一度言ってくださいました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。イエス様が起こしてくださいます。ならばそこから祈り始めたらよいのでしょう。

 ここにいる私たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」という言葉が伝えられています。眠っていたらイエス様が起こして私たちに語ってくださいます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。その御言葉がオリーブ山におけるイエス様の祈りの姿、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたイエス様の祈りと共に伝えられています。この御言葉を受け止めて、受難週の歩みを進めてまいりましょう。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。

2015年3月1日日曜日

「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

2015年3月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~26節


サタンとその支配
 「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」(14節)。このような言葉から今日の福音書朗読は始まりました。

 ここに書かれているのは、口の利けない人がしゃべれるようになったという話です。その人は口が利けないという苦しみから解放されました。口が利けなくなったという災いが取り除かれました。しかし、聖書はこれを単に苦しみと災いの除去として語っているのではなく、殊更に悪霊の追放として伝えています。イエス様も明らかに悪霊の追い出しを意識して事を行っているのです。

 この出来事を目撃したある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。

 イエス様はここでベルゼブルを「サタン」と言い換えています。イエス様はしばしば「サタン」に言及しています。ここではサタンについて語るだけでなく、「その国」について語っています。「その国」というのは正確には「その王国」という言葉です。イエス様はサタンとその王国を見ていたのです。

 「サタン」とはもともと「敵対者」を意味する言葉です。誰に敵対しているのか。神に対してです。イエス様はその人を苦しみから解放されました。しかし、イエス様が目を向けていたのは苦しみや災いそのものではありませんでした。そうではなくて、この世界に神に敵対する力が働いていることを見ていたのです。神に敵対する王国を見ていたのです。神に敵対する勢力が人間を支配しているのを見ておられたのです。

 サタンは神の敵です。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとはその交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 サタンは古代の迷信ではありません。サタンは目に見えませんが、サタンの支配は目に見えます。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ命の喜びがあることが分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいえ、そうではありません。愛なる神の御心に敵対する力が支配しているのです。そのようなサタンの支配する世界に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、そのようにサタンの支配する世界のただ中において、イエス様はもう一つの王国について語られます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今日の福音書朗読が伝えている悪霊の追放、福音書において繰り返し語られている悪霊の追放という行為は、まさに神の国が来ていることのしるしに他ならないということです。

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは何を意味するのでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。

 もうお分かりでしょう。この喩えにおいて「強い人」とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。イエス様は御自分について語っておられるのです。

 そうです。既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。イエス様がこの世に来られたとはそういうことです。イエス様は単に良い教えを携えて来られたのではありません。イエス様は単に良い模範を携えて来られたのではありません。そうではなくて、イエス様は「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国に生きるためです。

 イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。

 私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。神の国における生活は既に始まっているのです。

空き家にしてはなりません
 しかし、私たちはまた、信仰生活において経験するのは、神の国のごく一部分でしかないことを知っています。「私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです」と申しました。そうです、これはまだ始まりに過ぎません。神の国は来ています。しかし、サタンの支配がこの世から消え去ったわけではありません。私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。そのように信仰生活というものは、既に与えられているものと未来に約束されているものとの間にあるのです。

 そのような私たちの生活に関わることとして、イエス様はなお一つの短い話をなさいました。こんな話です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(24‐26節)。

 ここにはキリストによって与えられる信仰生活が《何でないか》がはっきりと現れています。この話の背景となっているのは、律法に従った清さと正しさが求められていたユダヤ人社会です。

 宗教的な生活という意味では、既に彼らの身近なところにファリサイ派の人々が実戦していた生活がありました。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちは既にいたのです。

 しかし、イエス様が与えようとしているのは、そのような生活ではないのです。ただ清さだけが求められるところには、別の汚れたものが満ちてしまうことをご存じだったのです。

 ルカによる福音書にだけ出て来るこんな話があります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(18:10-13)。

 ファリサイ派の人が言っていることに偽りはなかったでしょう。言っているとおりに生活していたのだと思います。しかし、きれいにしたその家に別のものが満ちているではありませんか。掃除して飾り付けた空き家には、さらに悪いものが入ってくるのです。

 ですから空き家にしてはならないのです。信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくることではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることなのです。私たちの心に、そして私たちの生活に恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家をつくることなのです。

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