2015年2月8日日曜日

「あなたの罪は赦された」

2015年2月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章12節~26節


人よ、あなたの罪は赦された
 「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」(15節)と書かれていました。そんなある日の出来事が17節以下に記されています。

 その日も大勢の人々がイエス様のおられる家に詰めかけていたようです。マルコによる福音書には「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(マルコ2:2)と書かれています。多くは病気の癒しを求めてやってきた人々なのでしょう。そして、確かに病気の癒しの話が書かれている箇所です。しかし、この日の出来事が伝えられる時に、まず登場してくるのは病人ではないのです。ファリサイ派の人々と律法の教師たちなのです。

 「この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」(17節)と書かれています。彼らもまたうわさを聞きつけてやってきたのです。「イエスが教えておられると」と書かれていますように、その教えを調べるためです。律法にかなった正しい教えなのか、その言葉を聞いて判断するためです。彼らは宗教的な指導者たちですから、群衆を集めている男を律法的な観点から監視するためであったと言えるでしょう。

 そのような人々がまず登場してくる。そして、この先を読むと分かるのですが、彼らはあらゆる場面に登場してきて、その関わりが最後まで続くのです。物語全体を貫いているとも言えます。実際、今日の箇所で彼らはイエス様について「神を冒涜するこの男」と判断しているわけですが、その判断が最後まで貫かれることになるのです。罪状としては神を冒涜したというかどによってイエス様は処刑されることになるのです。

 さて、そのようにファリサイ派の人々もいるところに中風を患っている人が床に乗せられたまま運ばれてきました。しかし、先にも触れましたように、戸口の辺りまですきまもないほどですから、群衆に阻まれてイエス様の近くにお連れすることができません。

 そこで病人を連れてきた男たちは彼を屋根の上にかつぎあげます。多くの日本の家屋のような斜めの屋根ではありません。だいたいは平らであって、屋根に上がるための階段も家の外にあるので不可能ではありません。しかし、それでも人間ひとりを屋根に上げるのは大変な労力でしょう。しかも、それだけではありません。彼らは他人の家の屋根を破壊し始めたのです。瓦をはがし、大きな穴をあけ、イエス様の前に中風の人を床ごとつり降ろしたのです。驚くべき熱意です。このような友人を持った人はなんと幸いなことでしょう。イエス様のもとに連れていってあげたい一心で、人の家まで壊すのですから。

 しかし、そうまでしてつり降ろした病気の人に対して、イエス様が言われた言葉は「病気を癒してあげよう」ではありませんでした。イエス様は開口一番、その人に向かってこう宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)。

 もちろん中風であることは苦しいことでしょう。体が動かないことは辛いことでしょう。病気であったなら、治りたいことでしょう。しかし、イエス様には分かっているのです。病気を癒して欲しいという求めよりも、もっと深いところにある根源的な求めが何であるか。魂が最も深いところで切望しているのは何であるのか。それは罪の赦しだったのです。彼に最も必要だったのは罪の赦しだったのです。それゆえに主は彼に宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」。

 これは私たちすべての人に関わっていることであると言えるでしょう。病気の癒しが必要なのは病気の人です。ですから体が元気な人ならば、私には病気の癒しは必要ないと言えるかもしれません。しかし、神によって罪を赦していただく必要のない人はいないのです。聖書ははっきりと語っています。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と。

 しかし、罪の問題は体の健康の問題とは明らかに異なります。中風であったなら、病は自覚できるでしょうし、他の人の目にも明らかです。ですから、そこから病の癒しを求めるということも起こってくるでしょう。しかし、人間の罪は、神の目には明らかであったとしても、人間の目に隠されていることの方が多いのです。他の人々の目に隠されているだけでなく、自分の目にも隠されている。自分自身の罪を自覚できないことの方がはるかに多いのです。それゆえにまた、罪の赦しを求める魂の根源的な切望も自覚できないことの方がはるかに多いのです。

 実際、イエス様が「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言した時、そこに何が起こったのか。「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』」(21節)と書かれているのです。

 「いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というこの言葉は、自分は罪人であると思っている人の言葉でしょうか。罪の赦しを切望している人の言葉でしょうか。そうではないでしょう。神のみが罪を赦すことができるということは分かっています。罪の赦しについて教理的には知っています。罪の赦しに関わる祭儀として律法が何を定めているかも知っているのでしょう。しかし、それはあくまでも他人事です。罪の赦しについて語っていますが、神に裁かれるべき罪人として罪の赦しを切望しているわけではないのです。

どちらが易しいか
 ですから、イエス様は彼らにこう問わざるを得なかったのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(23節)。もちろんイエス様が言っているのは、ただ口で言うことの易しさの話しではありません。口で言うだけなら両方易しい。誰でもできます。しかし、実質を持つ宣言としてはどちらが易しいか、となると答えは単純ではありません。

 恐らく私たちが考えるならば、「起きて歩け」と言う方が難しいのでしょう。実際にその宣言をもって癒して歩かせるのは難しい。奇跡が起こらなくては無理です。私にはできません。それに比べたら「あなたの罪は赦された」と宣言するのは簡単そうです。

 しかし、ここで重要なのは、本当はどうなのかということなのです。イエス様から見るならばどうなのか。イエス様にとってどちらが易しいのか。罪の赦しを与えることと病気の癒しを与えることと、どちらが易しいのでしょう。

 イエス様は中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行ったのです。そのように、イエス様にとっては病気を癒すことは決して難しいことではないのです。罪の赦しを与えることよりも遙かに易しいことだったと言えるのです。

 なぜ病気の癒しを与えることの方が易しいのでしょう。病気の癒しを熱心に求める人は少なくないからです。人は病気を癒してくださる恵み深い神は熱心に求めるのです。そして、癒しを差し出されるならば、大喜びで、感謝をもって受け取るのです。いや究極的には、本人に受け取る意志がなくても、癒しは強制的に与えることもできます。そして、病気が癒されれば体は健やかになります。

 しかし、罪の赦しについてはそういかないのです。罪の赦しの本質は交わりの回復です。神との交わりの回復なのです。そして、神との交わりの回復ということは、神がいかに恵み深く臨んだとしても、一方通行では成り立たないのです。交わりとはそういうものでしょう。「あなたの罪は赦された」という言葉だけでは意味をもたない。ここで問題となっているのは実質的に意味を持つ宣言として、どちらが易しいかということですから。

 「あなたの罪は赦された」という宣言が真に意味を持つのは、その人が罪を赦された人として立ち上がり、感謝して神と共に歩いて行くときなのです。そのためには、人間の側の罪の自覚と悔い改めがどうしても必要なのです。 ですから、イエス様にとっては、自分は正しい人間であると思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者こそ、最も難しい存在だったのです。彼らと関わるより、おびただしい数の病人に関わって癒す方が、はるかに容易なことだったのです。

 イエス様には、癒すことのできない病気はありませんでした。追い出すことのできない悪霊もいませんでした。しかし、イエス様であっても、罪を認めさせることのできない罪人は数多くいたのです。人間の頑迷さは、イエス様の宣教の働きの前に、最後まで強固に立ちはだかっていたのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。イエス様にとっては、「起きて歩け」と言う方がはるかに易しいことでした。

 しかし、イエス様には分かっていたのです。その容易ならざることのためにこそ御自分来られたということ。人に罪の赦しを与え、人が神との交わりに生きるようになるためにこそ主は来られたということ。そのためにこそ、神の権威が与えられていたこと。そのためにこそ、命を捧げなくてはならないこと。十字架へと向かわなくてはならないこと。自ら苦しみ抜いて十字架の上で死ななくてはならないことを主はご存じだったのです。

 それゆえに、主は御自分のなそうとしていることを示すしるしとして、この中風の人を癒されたのでした。イエス様が言っておられるように、罪を赦す権威が与えられていることを示すためにです。すなわち、憐れみ深い神がイエス様を通して罪の赦しを与えようとしていることを示すためにです。その他の場面においてなされている癒しの奇跡もまた、そのことを指し示すしるしとして意味が与えられているのです。

 そのようなキリストが、今も生きて働いておられるのです。私たちの根源的な必要がどこにあるかを教え、示し、悔い改めへと導いてくださる。そして、今も罪の赦しを宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦された」と。教会はそのようなキリストの体なのです。罪の赦しを宣言し、神との交わりを回復させるために、今も働いておられるキリストの体なのです。





以前の記事