日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 4章1節~13節
今日の聖書箇所は、イエス様が悪魔から誘惑を受けられたという話です。このような「悪魔」が出て来る話にリアリティを感じられないという人はいるかもしれません。しかし、「誘惑」の話を身近なことと考えられない人はいないでしょう。罪への誘惑を受けたことのない人はいないはずですから。今日は「誘惑」について聖書の語ることに耳を傾けたいと思います。
理に適った善いアドバイス?
今日の箇所は「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)というところから始まります。悪魔から誘惑を受けられたのは、そのような御方だったということです。
「誘惑を受けたことのない人はいないはず」と申しました。今、誘惑を受けている人、誘惑と格闘している人もいることでしょう。そのこと自体を恥ずべきことと考える必要はありません。キリストでさえ誘惑を受けられたのです。
また、「誘惑を受けるのは信仰が弱いからだ」と考える必要もありません。聖霊に満ちていたイエス様は誘惑を受けられたのです。神から愛されていないから悪魔から誘惑されるのだと考える必要もありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22節)と言われた方が誘惑を受けたのです。むしろ神の子として愛されているゆえに神の子として悪魔から誘惑されたのです。
宗教改革者マルティン・ルターは言いました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。キリストは誘惑を受けられましたが罪を犯すことはありませんでした。
今日の箇所では特に三つの誘惑について語られています。今日は特に最初の誘惑に注目しましょう。悪魔が言った言葉はこうでした。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。
これが語られたのは、荒れ野での期間も四十日となるときでした。その間、何も食べなかったと書かれています。イエス様は空腹を覚えられた。そこで悪魔が語りかけたのが先の言葉です。
空腹を覚えておられるイエス様に対するとても親切なアドバイスです。悪魔が私たちを憎んでいたとしても、必ずしも災いや苦しみを持ってくるわけではありません。むしろ親切なアドバイスをもってやってくるのです。「こうすれば苦しみから逃れられますよ」と。
もっともキリストに対して悪魔がただ個人的な苦しみから解放されるためのアドバイスをもってきたとは思えません。救い主であることを知っているのですから。個人的な飢えを解消するためならば、石をパンにしなくても、町に戻ってパンを買って食べたらよいのです。しかし、世の中の飢えた人すべての問題を解決しようとするならば、多くの石をパンにするというのは実に魅力的なアイデアです。
さて、ここに至ってもう一つのことが見えてきます。「この石にパンになるように命じたらどうだ」という言葉は、イエス様に対してだからこそ誘惑になるのです。私にとっては誘惑になりません。石をパンにする誘惑を受けたことは未だかつて一度もありません。できないからです。できない人にとっては誘惑にならないのです。
悪魔の誘惑はできることについて受けるのです。私たちはしばしば自分の弱さについて誘惑を受けるのではなく、自分の強さについて誘惑を受けるのです。力にせよ、立場にせよ、モノにせよ、持っていないものについて誘惑を受けるのではなく、持っているものについて誘惑を受けるのです。悪魔は「それを用いなさい」というアドバイスを持ってくるのです。
そこで「悪いことのために用いなさい」というならば、悪魔らしいので誘惑だとすぐにわかります。「自分の立場を利用して公金を横領しなさい」というのなら、悪魔らしいのですぐにわかります。しかし、悪魔は必ずしも悪いことのために用いよとは言いません。「この石にパンになるように命じたらどうだ」。そうすればイエス様自身の飢えを満たすことができるばかりでなく、多くの人の飢えを満たすことができるのです。それは善いことではありませんか。
このように、「この石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の言葉は、その能力を持っているイエス様に対して語られるならば、極めて理に適った勧めでありますし、しかも善なる目的に向かった非常に良いアドバイスに見えるのです。そうです、やっかいなことに悪魔の誘惑は必ずしも悪には見えないのです。
人はパンだけで生きるものではない
だからこそ、イエス様がなぜこの言葉を退けられたのかを知ることが重要になるのです。続きをお読みします。「イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4節)。「書いてある」というのは「聖書に書いてある」という意味です。イエス様が引用しているのは申命記8章3節の言葉です。
「人はパンだけで生きるものではない」。それをここにいる私かあるいは他の誰かが無前提で語ったら、「それはパンを持っている人の言い草だよ」と言われるかもしれません。あるいは「それは現実から遊離した精神主義だ」と言われるかもしれません。しかし、聖書を引用してこれを語っているのはイエス様なのです。イエス様の言葉として聞かなくてはならないのです。
これは私たちと同じように体を持つ人間として、飢えることがどういうことかを知っている方の言葉です。これは飢えている人々の間に生きられた方の言葉です。そして、その飢えを現実的に満たす力を持っている方の言葉です。 先週朗読された聖書箇所にもありましたけれど、男だけを数えても五千人にのぼる大群衆にイエス様がパンを与えられたという話が四つの福音書すべてに書かれているのです。
そのことはまた、そのような物語を伝えてきた教会が、現実的に人間の必要が満たされることを決して小さなこととは考えなかったことを意味します。パンは必要なのです。実際、イエス様も「パンは必要ない」とは言っていないのです。イエス様はパンを与えてくださったのです。
しかし、そのイエス様が申命記を引用して言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」と。そこには悪魔の誘惑があることを知っていたからです。「人はパンだけでも生きられる」と思ってしまう誘惑があるからなのです。「パンさえあれば」と思ってしまう誘惑がある。あるいは「パンさえ与えることができたなら」と思ってしまう誘惑があるからなのです。
実際、私たちは人間の様々な具体的なニーズさえ満たされればよいと思ってしまうものです。飢えている時にはパンのことしか考えられないように、何かを必死に求めているときには、その求めが満たされることしか考えられなくなります。具体的な欠乏のために苦しんでいる人を見たら、その求めを満たすことの重要性しか考えられなくなります。しかし、イエス様は言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」。そう言って、悪魔の誘惑を退けられたのです。
では「パンだけで生きるものではない」ならば、何が必要なのでしょう。イエス様が引用した申命記のもとの言葉はこうなっています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。
イエス様が思い起こしていたのは、かつて荒れ野において同じように飢えていたイスラエルの人々のことでした。イスラエルが荒れ野を旅していた時のことです。そのとき、神は「マナ」という食べ物を与えてくださいました。それはただ彼らの飢えを満たすためではありませんでした。そうではなくて、彼らが「マナ」を与えてくださった神と共に生きるためだったのです。神に信頼し、神に従って生きるようになるためだったのです。主の口から出るすべての言葉によって生きるためだったのです。
目に見える人間のニーズが満たされることは大事です。しかし、目に見える人間のニーズの満たしのことしか考えられなくなるところには誘惑があります。悪魔は私たちに石をパンに変えろとは言いません。できませんから。しかし、できることについて「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」と勧めてくるかもしれません。
しかし、そこで必要の満たしのことしか考えられなくなったら、誘惑に陥っていないか省みる必要があります。いつの間にか神とその御言葉から引き離されているかもしれないからです。レントに入りました。私たちにまず与えられているのは、「人はパンだけで生きるものではない」という主の言葉です。