2015年1月11日日曜日

「神は人を分け隔てなさらない」

2015年1月11日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 10章34節~48節


皆同じ人間だからではなく
 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)。ペトロの言葉です。コルネリウスというローマの軍人の家に招かれて、彼とその親類や友人たちを前にして語られた言葉です。

 「神は人を分け隔てなさらない」。この言葉を聞いて、私たちは皆、何の抵抗も覚えないだろうと思います。神が人を分け隔てなさらないことは当然であって、そうでなければおかしいと誰もが思っているのです。しかし、ユダヤ人であるペトロにとってはそうではありませんでした。「よく分かりました」と言っているということは、それまでそうは思っていなかったということでしょう。

 実際、ペトロだけではありません。ユダヤ人にとって、ユダヤ人であるか異邦人であるかは決定的な違いなのです。ユダヤ人からするならば、異邦人は神の律法を知らない汚れた人々なのです。ですから、その両者を神が「分け隔てなさらない」ということは、ユダヤ人からすればあり得ないことだったのです。

 ではなぜそのペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言うようになったのでしょう。それは神がペトロにそう示されたからです。コルネリウスの家に入ったとき、集まっていた人々にペトロがまず語ったのは次のようなことでした。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28節)。

 神がペトロにお示しになられたことは、今日の私たちからすれば至極当然のことのように思えるでしょう。「ユダヤ人であろうが外国人であろうが、皆同じ人間ではないか」と。しかし、ペトロが示されたのは、そのようなことではないのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも皆同じ人間ですから」とは言っていないでしょう。ペトロはこう言っているのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34節)。

 神は国籍や民族によって分け隔てはなさらない。ユダヤ人であろうが外国人であろうが分け隔てはなさらない。どうしてか。もっと重要なことがあるからなのです。「神を畏れて正しいことを行う人」であるかそうでないか、ということです。神に対するあり方、そして人に対するあり方です。神との関わり、そして人との関わりにおいてどう生きているのか、ということこそが神の目には決定的に重要なことだということです。

 イエス様も言われました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28‐31)。

 さて、今日の私たちにとっては、ここで話題になっているユダヤ人か異邦人かの区別は遠い話のように思えます。あるいは日本人であるかそうでないかを彼らほど大きく考えている人はいないでしょう。しかし、私たちは私たちで、様々な点において自分と他者との違いを非常に大きなこととして見ているかもしれません。性別の違い。世代の違い。経済的状態の違い。社会的な立場や地位の違い。家庭環境の違い。健康であるか病気であるか。順風満帆に生きてきたか、多くの苦しみを経てきたか。時として私たちの感じる他者との違いが大きくて、共に身を置くことを困難にさせるかもしれません。

 しかし、そのような私たちを神は分け隔てなさらない。私たちから見ると大きな違いがあるように見えるけれど、神は分け隔てなさらない。それは「違いがあっても皆同じ人間だから」ではありません。神にとってもっと重要な違いというものが別にあるからです。神との関わりにおいて、そして人との関わりにおいて、どう生きているのか、ということです。

この方を信じる者はだれでも
 そのように神の御前においては、ユダヤ人か異邦人かではなく、生き方そのものが重要なこととして問われている。それゆえに、ペトロはかつてユダヤ人に向かって話したように、ここでも同じことを、すなわちイエス・キリストのことを、異邦人である彼らに話し始めます。しかも、ペトロはここでイエス・キリストを「すべての人の主」として語っているのです。36節からお読みします。

 「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 つまり、ナザレのイエスのことです」(36‐38節)。

 神は、ユダヤ人だけでなく「すべての人の主」として、イエス・キリストを遣わしてくださいました。そのキリストによって何をしてくださったのか。「平和を告げ知らせて」くださったのだというのです。

 神の側から「すべての人」に対して、平和を告げ知らせてくださいました。神は私たちとの間に平和を宣言してくださいました。神は私たちに敵対する方ではなく、私たちの味方として御自身を現してくださったのです。それは私たちにとってまことにありがたい良き知らせではありませんか。

 先に読みましたように、ペトロはこう言いました。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」それを聞いて、「ああ、ならばわたしは受け入れてもらえる」と思った人はどれくらいいますか。「ああ、わたしはだめだ」と思った人はどれくらいいますか。国籍や民族ではなく、純粋に生き方が問われるとするならば、そこで確信をもって神から受け入れられていると言える人はどれくらいいるでしょう。

 しかし、そのような私たち「すべての人の主」としてキリストを遣わされ、神の側から平和を宣言してくださったのです。「神は聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」と書かれていました。そのようにして神はキリストにおいてその力を現されました。人々が見たのはどのような力だったでしょうか。人々が目にしたのは神の怒りの鉄拳ではありませんでした。そうではなく、神の癒しの御手だったのです。

 人々は怒りをもって敵対する神を見たのではなく、悪魔に苦しめられている者を憐れんでくださる神を見たのでした。そう、ペトロも確かに見たのです。だからペトロは言うのです。「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」(39節)。

 しかし、そのキリストを人々は十字架にかけて殺してしまいました。それは人間の罪の方が神の憐れみよりもはるかに大きいことを実証するような出来事でした。しかし、そうではなかったのです。神の憐れみの方が人間の罪よりも大きいのです。神は人々が十字架にかけて殺したキリストを復活させられました。罪の贖いを成し遂げた苦難の僕として復活させられたのです。まさにそのようにして、神は平和を告げ知らせてくださいました。ペトロはその事実を証人として語ります。

 そして、復活されたイエスについて、彼らにこう言ったのです。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」(42節)。

 キリストが最終的な審判者なのだ。これが、神がキリストを通して与えられた最終的な言葉です。私たちが毎週告白している使徒信条では「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表しています。確かに「審判者」とは実に恐ろしい響きを持った言葉です。しかし、他の誰かではなくキリスト御自身が最終的な審判者であるということは、本当はこの上なく喜ばしいことなのです。最終的な審判者は、神が平和を告げ知らせるために遣わしてくださったメシアだということですから。

 その方が最終的に罪に定める権威を持っておられる。ということは最終的に罪を赦す権威をも持っておられるということです。そして、その御方が罪の赦しを宣言してくださるならば、もはや何者も罪に定めることはできないということなのです。ですからペトロはさらに言うのです。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(43節)。そうです、そこで求められているのはこの方を信じるということだけです。ただ信じて受け取ることだけなのです。

 このように神は分け隔てをなさいません。ただ神に対して、そして人に対しての生き方そのものを問われるということについて、神は分け隔てをなさいません。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。それゆえにまた、平和を告げ知らせてくださるということについて分け隔てをなさいません。イエス・キリストは「すべての人の主」です。そして、その方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる。信じる者は「だれでも」です。そこに分け隔てはありません。

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