2015年1月4日日曜日

「キリストによる新しい生活」

2015年1月4日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 12章1節~8節


心を新たにして
 新年最初の主日礼拝をこうして共にお捧げすることができることを嬉しく思います。実は、教会の暦からしますと、新しい年の初めはアドベントでありまして、既に私たちは11月30日から新しい年のサイクルをスタートしています。この教会では、その日から新しい式次第を使い始めました。しかし、この国に住んでいますとやはり生活感覚としての年の初めはどうしてもお正月になるようです。

 アドベントにせよお正月にせよ、年の初めの区切りあるということはありがたいことです。それは一年を振り返り、新しい生活へと歩み出す機会となるからです。そうでなければ何の反省も進歩もなく旧態依然とした生活を漫然と続けてしまうかもしれません。ということで、今日の説教題は「キリストによる新しい生活」となっています。

 与えられている聖書箇所はローマの信徒への手紙12章です。この手紙においてはここから新しい区分に入ります。この区分においてはキリスト者の生活について語られています。まさにキリストによって与えられる新しい生活について語られているのです。しかし、今日の箇所には直接的に「新しい生活」という言葉は出てきません。出て来きたのは「心を新たにして」という言葉です。2節にこう書かれていました。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。

 「心を新たにして」。原文では「心の一新」という言葉です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。まず必要なのは心の一新です。心を新たにすることなくして生活が新たになることはありません。

 しかし、「心の一新」と言いましても、いろいろな一新の仕方があるように思います。三ヶ月ほど前、わたしは二十代の頃から続けていた夜型の生活をやめて、健康的な生活をしようと思い立ちました。これもまた心の一新と言えなくもない。実際、そこから朝型の生活が生まれました。そのように「心新たに」とか「心を入れ替えて」などという言葉は私たちの日常でも時折用います。では、聖書が語る「心の一新」とはどのような意味合いなのでしょう。

 「心を新たにして」の前にパウロが言っていたのはこういうことでした。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」。そのように語られているのは、一方において「この世に倣う」という生き方があるからです。また、それを生み出す心の方向性があるからです。そして、それは教会の中にも入ってきており、私たちが知らず知らずのうちに、そのような心をもって、そのような生活をしているということがあり得るからです。

 それは教会がこの世に存在し信仰者の人生もまたこの世において営まれている限り避け得ないことなのでしょう。 だからこそ、「心の一新」が必要なのです。心の方向転換が必要なのです。そして、この世に倣わない生き方への転換が必要なのです。

この世に倣ってはなりません
 しかし、「この世に倣わない」とは何を意味するのでしょうか。これもまた人によって思い描くことは様々なのでしょう。

 あるキリスト者は「この世に倣わない」ということで真っ先に「禁酒禁煙」を考えるかもしれません。別な人は「この世に倣わない」ということで、弱い立場にある人に対する優しさや思いやりを持つということを考えるかもしれません。また他の人は「この世に倣わない」ということで、右傾化する社会の動きに対して抵抗することを考えるかもしれません。二人の人が教会やキリスト者に対して「これではこの世と同じではないか」と言ったとしても、その二人が必ずしも同じことを考えているとは限りません。

 ではパウロ自身はどのような意味において「この世に倣ってはなりません」と言っているのでしょうか。「この世に倣ってはなりません」とは否定的・消極的な表現です。彼はすぐにこれを肯定的・積極的な表現で言い換えます。《こうしてはならない》というだけでなく、むしろ積極的に《こうあって欲しい》というものがあるのです。彼は言います。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。この世に倣わないとは、こういうことです。

 そこには「何が神の御心であるか」と書かれています。当然のことながら、この世は「何が神の御心であるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは「何がわたしの望んでいることか」「何が私たちの望んでいることか」という人間の願望と願望です。同様に、この世は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」ということで動いているわけではありません。この世を動かしているのは「何がわたしたちにとって善いことで、わたしたちに喜びと満足を与えるのか」という人間の判断です。国家としてならば「何が国益となるのか」という判断になるのでしょう。

 そのようなこの世の姿といつのまにか同じ姿になってしまっていることは私たちにも確かにあります。この世と同じように、いつでも関心は「わたし」あるいは「わたしたち」のことでしかないことが起こります。そう、必ずしも「わたし」ではない。「わたしたち」を強調すれば、エゴイスティックに見えないこともある。しかし、関心はあくまでも人間の側のことなのでしょう。自分たちの望みが実現し、自分たちが喜び、自分たちが満足を得ることであり、望みが実現しなければ失望し、満足を得られなければ不平を言い、互いに相争うことにもなるのです。

 そのように、知らず知らずのうちにこの世に倣い、この世と同じ姿になっていることが、私たちにも確かにあるのでしょう。だからこそ、「心の一新」について語られているのです。それが必要なのです。「わたし」「わたしたち」とこちら側のことにばかり向いているこの心が、ぐいっと方向転換をして、神に向けられることが必要なのです。「何が神の御心であるのか」「何が善いことで、神に喜ばれることなのか」に心が向けられることが必要なのです。それこそが、「心を新たにする」ことなのです。

 心を新たにするところから、新しい祈りが生まれてきます。ただ自分たちの望みの実現を求める祈りではなく、自分たちの満足を求める祈りでもなく、「御心を教えてください」という祈りが生まれてくるのです。「何が善いことで、何があなたに喜ばれることなのかを教えてください」という祈りが生まれてくるのです。

 そして、御心に従って生きようと思うなら、自分が変えられなくてはならないこともまた分かるのです。だからパウロは「自分を変えていただきなさい」と言うのです。これは「変えられ続けなさい」という表現です。「むしろ、心を新たにして、自分を変えていただきなさい!」そこにこそ、本当の意味での新しい生活があるのです。

自分を過大に評価してはなりません
 しかし、今日は与えられた聖書箇所から、なお一つのことを心に留めたいと思います。パウロは続けてこう言っています。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(3節)。

 この後、信仰生活に関する具体的な勧めが15章まで続くことになるのですが、その初っぱなに語られていることがこれです。心を新たにして自分を変えていただき、神の御心をわきまえて生きようとする人が、最初に聞かなくてはならない言葉がこれなのです。「自分を過大に評価してはなりません」。むしろ「慎み深く評価すべきです」と言うのです。

 この言葉で何を言わんとしているのか、続く4節以下から明らかです。要するに、自分が体の一部に過ぎないことをわきまえなさい、ということです。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(5節)と書かれているとおりです。私たちは神の御心を行う大きな体の一部なのです。部分ならば部分としての働きで十分なのです。全てを為し得なくてもよいのです。自分を体の全てであるかのように評価してはならないのです。

 そうです。他の人ができることを自分ができないとしても、それで良いのです。部分なのですから。他の人を羨む必要も、自らを卑下する必要もないのです。自分に為し得ることを他の人ができないとしても批判する必要はないのです。自分は自分の与えられた務めに専念し、他の人は他の人の為し得るところを行ったらよいのです。

 「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから…」(6節)と聖書は言います。この世に倣って生きようとするならば、自分の願望の実現のために自分を用いて生きようとするならば、この能力が足りない、あのこともできない、とつぶやきながら、他人を羨み、自分を卑下して生きることにもなるのでしょう。しかし、心を一新して神の御心のために生きようとするならば、そのために必要な全ては既に賜物として与えられているのです。神の御心を求め、自分を献げて生きるならば、与えられている賜物が何であるかも見えてくるのです。また、自分が体のどの部分なのか、専念すべきことは何であるのかも見えてくるのです。

 新しい年を迎えました。このような区切りが与えられていることは幸いなことです。これまでこの世に倣い、この世と同じものを追い求め、この世によってこの世と同じ姿にされていたならば、この年の区切りは私たちの信仰生活を振り返り、心を一新する機会です。心を置き去りにして生活だけを変えることはできません。心を新たにして自分を変えていただきましょう。変えられ続けましょう。そして、キリストによって一つの体とされている私たちとして、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかに思いを向けて共に仕えてまいりましょう。

以前の記事