2015年1月18日日曜日

「扉が閉ざされる時」

2015年1月18日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 16章6節~15節


二度の計画変更
 今日の聖書箇所において何よりも注目に値しますのは、パウロが計画を二度も変更せざるを得なかったということです。一度目については次のように書かれています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(6節)。

 パウロたちは、「アジア州」すなわち小アジア西部の地域に行って御言葉を宣べ伝えるつもりでいたようです。まずはその首都であるエフェソに向かおうと思っていたのでしょう。その計画自体は間違いであったようには思われません。というのもアジア州、特にエフェソは、後に福音宣教の一大中心地となっていくことになるからです。そこにパウロはいち早く注目していたということです。

 一世紀の終わり近くに書かれた書物に「ヨハネの黙示録」があります。その書物はまずアジア州にある七つの教会に宛てたキリストの言葉から始まるのです。パトモスに抑留されていたヨハネは次のように命じられたと書かれています。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(11節)。これはその頃のキリスト教会全体にとって、アジア州の諸教会がどれほど大きな意味を持っていたかを示していると言えるでしょう。

 そのような可能性に満ちた地域に目を留めて、そこで御言葉を伝えようと計画していたのがパウロでした。しかし、その彼らの計画は頓挫してしまったのです。聖書にはそのことについて「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」としか書かれてはおりません。

 それが具体的に何を意味するのかは分かりませんが、それにしても「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とはまことに不思議な言葉です。悪を行うことを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。利己的な企てを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。しかし、どう考えても悪ではないこと、神のために行おうとしていること、常識的に考えても正しいと思えることについて神からストップをかけられるというのは理解しがたいことです。実際にパウロたちにも理解できなかったのでしょう。だから「聖霊から禁じられた」としか書かれていないのです。神の霊は禁じる理由を説明してはくれませんでした。

 ともあれ、ストップをかけられたのでアジア州で御言葉を語るという当初の計画を変更して、彼らはフリギア・ガラテヤ地方を通って行きました。どこに向かってか。彼らが向かっていたのはビティニア州でした。

 その計画もまた、それ自体は間違っていたとは思われません。そこにはユダヤ人が多く住む居留区があったのです。まずユダヤ人の会堂に行ってユダヤ人たちに語りかける。既に聖書を知っている人たちに語りかける。それがパウロの伝道のスタイルでした。そこから考えても、次に向かったのがビティニア州であったことは極めて理に適ったことであると言えるでしょう。実際、後の時代にビティニア州には教会ができることになるのです。後にペトロの手紙が回覧された時、その宛先の一つとなっていたのはビティニアの教会だったのです(1ペトロ1:1)。

 そのようにパウロは当初の計画を変更してビティニア州に向かったのでした。しかし、今回はそこに入ることすらできなかったのです。聖書にはただ「イエスの霊がそれを許さなかった」としか書かれていません。そこでイエスの霊は理由を説明してはくれませんでした。

 このように一度ならず二度までも神によって扉が閉ざされることとなりました。悪だからではありません。動機が不純であったり利己的であったからでもありません。私たち人間の側からは、その時どうして神が禁じられるのか、許されないのか、扉を閉ざされるのか、分からない。そのようなことは、確かにあるのです。

 しかしここを読む限り、御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたことについてパウロたちが気に病んでいる様子は全く見られません。イエスの霊が許さなかったことについてこだわっているようにも見られません。明らかに彼らにとっての関心事は別なところにあるのです。すなわち、神がどこに進ませようとしているかということ、それだけなのです。

 そのような彼らを、神は確かに導いてくださいました。次のように書かれています。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(9‐10節)。このように、神はアジア州ではなく、まず彼らをマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

 確かに、パウロがアジア州で御言葉を語ろうとしたこと自体は間違いではありませんでした。やがて後の日にパウロはアジア州で御言葉を語ることになるのです。そこにはやがて多くの教会ができるのです。パウロがビティニアに行こうとしたことも間違いではありませんでした。やがて神はそこに教会を建てられるのです。しかし、神には神の順序があるのです。天地創造物語に見るように、神は御自身が定められた順序に従って事を進められる神なのです。そして、神の順序はしばしば人間が考える順序とは異なるのです。それゆえに時としてストップをかけることさえも大事なプロセスとなるのです。そのようなプロセスを通して、神は彼らをまずマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

出会うべく備えられていた人々
 彼らはトロアスから船出して、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行きました。「ローマの植民都市」と書かれていますように、そこはローマの退役軍人が多く入植している町でした。住民のほとんどはローマ人とマケドニア人で占められていてユダヤ人はほとんどいなかったようです。それはフィリピにユダヤ人の会堂がなかったことからも分かります。そこにあったのは川岸にある「祈りの場所」だけでした。

 そのように極端にユダヤ人の少ない町がパウロの伝道計画のトップに挙げられることは通常ならばまず考えられないことでしょう。フィリピに来たのはあくまでも幻を見せられたからであって、それ以外の理由はありませんでした。 しかし、そのようなフィリピにこそ、パウロが出会うべき人が備えられていたのです。それは「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(14節)でした。

 パウロたちが安息日に町の門を出て川岸の祈りの場所に行った時、たまたまそこにいたのがリディアでした。紫布で有名なのはティアティラ市の方ですから、フィリピに家があるにしても常にフィリピにいた人ではないでしょう。またパウロがフィリピにいたのも数日間ですから、次の安息日にはいないのです。

 そのようにたまたまその安息日に祈り場にいた彼女はパウロの語る言葉を聞くことになりました。そして、主が彼女の心を開かれました。彼女はキリストを信じ、彼女も家族の者も洗礼を受けました。彼らはフィリピにおける最初のキリスト者となりました。そして、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってパウロたちを招待したのです。「無理に承知させた」(15節)と書かれています。そうです、彼女は強いて彼らを泊まらせたのです。

 しかし、それは決定的な意味を持つ出来事となりました。結局そのことにより、彼女の家はフィリピにおける伝道の拠点となったのです。この後、パウロたちは投獄されるという事件が続くのですが、この章の最後にはこう書かれています。「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した」(40節)。既にそこに兄弟たち、すなわちキリスト者たちが集まっていることがわかります。

 そして、この集まりこそが後にフィリピの信徒への手紙が宛てられる教会となるのです。その手紙を読むと、フィリピの教会は経済的にパウロの伝道を支えていた教会であることが分かります。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 当初予定していたアジア州については、後の日に腰を落ち着けて伝道することになるのでしょう。しかし、その前に神はパウロの働きのために、このようなフィリピの教会を備えてくださっていたのです。確かに神には神の順番があるのです。

 そして、さらにもう一人、神が備えておられた人について語ることができるでしょう。それはルカによる福音書とこの使徒言行録を書き記した医者のルカです。今日は6節からお読みしましたが、そこでは「さて、彼らは…」と書き始められています。しかし、10節からは「パウロがこの幻を見たとき、《わたしたちは》すぐに…」となっているのです。トロアスに下ったところからルカが加わっているということです。そこにルカとの出会いがあったのです。

 なぜトロアスに下ったのか。アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたからでした。ビティニア州に入ろうとしたけれど、イエスの霊がそれを許さなかったからでした。扉が閉ざされたから。しかし、扉が閉ざされた時、別の扉が開いていて、そこを進んだところに出会うべき人々が備えられていたのです。

 「聖霊から禁じられた」「イエスの霊がそれを許さなかった」と書かれていますが、具体的にはパウロが病気になったのではないかと想像する人もいます。それは十分あり得ることでした。パウロ自身、「わたしの身に一つのとげが与えられました」(2コリント12:7)と手紙の中で書いていますから。そこに医者ルカとの出会いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、計画通りにいかないことがあったからこそ、ルカとの出会いもあった。パウロとルカとの出会いがなかったらルカによる福音書も使徒言行録もこの世に存在していなかったかもしれません。そのことを考えますと、改めて神の計画の奥深さを思わされます。

2015年1月11日日曜日

「神は人を分け隔てなさらない」

2015年1月11日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 10章34節~48節


皆同じ人間だからではなく
 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)。ペトロの言葉です。コルネリウスというローマの軍人の家に招かれて、彼とその親類や友人たちを前にして語られた言葉です。

 「神は人を分け隔てなさらない」。この言葉を聞いて、私たちは皆、何の抵抗も覚えないだろうと思います。神が人を分け隔てなさらないことは当然であって、そうでなければおかしいと誰もが思っているのです。しかし、ユダヤ人であるペトロにとってはそうではありませんでした。「よく分かりました」と言っているということは、それまでそうは思っていなかったということでしょう。

 実際、ペトロだけではありません。ユダヤ人にとって、ユダヤ人であるか異邦人であるかは決定的な違いなのです。ユダヤ人からするならば、異邦人は神の律法を知らない汚れた人々なのです。ですから、その両者を神が「分け隔てなさらない」ということは、ユダヤ人からすればあり得ないことだったのです。

 ではなぜそのペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と言うようになったのでしょう。それは神がペトロにそう示されたからです。コルネリウスの家に入ったとき、集まっていた人々にペトロがまず語ったのは次のようなことでした。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28節)。

 神がペトロにお示しになられたことは、今日の私たちからすれば至極当然のことのように思えるでしょう。「ユダヤ人であろうが外国人であろうが、皆同じ人間ではないか」と。しかし、ペトロが示されたのは、そのようなことではないのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも皆同じ人間ですから」とは言っていないでしょう。ペトロはこう言っているのです。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34節)。

 神は国籍や民族によって分け隔てはなさらない。ユダヤ人であろうが外国人であろうが分け隔てはなさらない。どうしてか。もっと重要なことがあるからなのです。「神を畏れて正しいことを行う人」であるかそうでないか、ということです。神に対するあり方、そして人に対するあり方です。神との関わり、そして人との関わりにおいてどう生きているのか、ということこそが神の目には決定的に重要なことだということです。

 イエス様も言われました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28‐31)。

 さて、今日の私たちにとっては、ここで話題になっているユダヤ人か異邦人かの区別は遠い話のように思えます。あるいは日本人であるかそうでないかを彼らほど大きく考えている人はいないでしょう。しかし、私たちは私たちで、様々な点において自分と他者との違いを非常に大きなこととして見ているかもしれません。性別の違い。世代の違い。経済的状態の違い。社会的な立場や地位の違い。家庭環境の違い。健康であるか病気であるか。順風満帆に生きてきたか、多くの苦しみを経てきたか。時として私たちの感じる他者との違いが大きくて、共に身を置くことを困難にさせるかもしれません。

 しかし、そのような私たちを神は分け隔てなさらない。私たちから見ると大きな違いがあるように見えるけれど、神は分け隔てなさらない。それは「違いがあっても皆同じ人間だから」ではありません。神にとってもっと重要な違いというものが別にあるからです。神との関わりにおいて、そして人との関わりにおいて、どう生きているのか、ということです。

この方を信じる者はだれでも
 そのように神の御前においては、ユダヤ人か異邦人かではなく、生き方そのものが重要なこととして問われている。それゆえに、ペトロはかつてユダヤ人に向かって話したように、ここでも同じことを、すなわちイエス・キリストのことを、異邦人である彼らに話し始めます。しかも、ペトロはここでイエス・キリストを「すべての人の主」として語っているのです。36節からお読みします。

 「神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 つまり、ナザレのイエスのことです」(36‐38節)。

 神は、ユダヤ人だけでなく「すべての人の主」として、イエス・キリストを遣わしてくださいました。そのキリストによって何をしてくださったのか。「平和を告げ知らせて」くださったのだというのです。

 神の側から「すべての人」に対して、平和を告げ知らせてくださいました。神は私たちとの間に平和を宣言してくださいました。神は私たちに敵対する方ではなく、私たちの味方として御自身を現してくださったのです。それは私たちにとってまことにありがたい良き知らせではありませんか。

 先に読みましたように、ペトロはこう言いました。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」それを聞いて、「ああ、ならばわたしは受け入れてもらえる」と思った人はどれくらいいますか。「ああ、わたしはだめだ」と思った人はどれくらいいますか。国籍や民族ではなく、純粋に生き方が問われるとするならば、そこで確信をもって神から受け入れられていると言える人はどれくらいいるでしょう。

 しかし、そのような私たち「すべての人の主」としてキリストを遣わされ、神の側から平和を宣言してくださったのです。「神は聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」と書かれていました。そのようにして神はキリストにおいてその力を現されました。人々が見たのはどのような力だったでしょうか。人々が目にしたのは神の怒りの鉄拳ではありませんでした。そうではなく、神の癒しの御手だったのです。

 人々は怒りをもって敵対する神を見たのではなく、悪魔に苦しめられている者を憐れんでくださる神を見たのでした。そう、ペトロも確かに見たのです。だからペトロは言うのです。「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です」(39節)。

 しかし、そのキリストを人々は十字架にかけて殺してしまいました。それは人間の罪の方が神の憐れみよりもはるかに大きいことを実証するような出来事でした。しかし、そうではなかったのです。神の憐れみの方が人間の罪よりも大きいのです。神は人々が十字架にかけて殺したキリストを復活させられました。罪の贖いを成し遂げた苦難の僕として復活させられたのです。まさにそのようにして、神は平和を告げ知らせてくださいました。ペトロはその事実を証人として語ります。

 そして、復活されたイエスについて、彼らにこう言ったのです。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」(42節)。

 キリストが最終的な審判者なのだ。これが、神がキリストを通して与えられた最終的な言葉です。私たちが毎週告白している使徒信条では「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表しています。確かに「審判者」とは実に恐ろしい響きを持った言葉です。しかし、他の誰かではなくキリスト御自身が最終的な審判者であるということは、本当はこの上なく喜ばしいことなのです。最終的な審判者は、神が平和を告げ知らせるために遣わしてくださったメシアだということですから。

 その方が最終的に罪に定める権威を持っておられる。ということは最終的に罪を赦す権威をも持っておられるということです。そして、その御方が罪の赦しを宣言してくださるならば、もはや何者も罪に定めることはできないということなのです。ですからペトロはさらに言うのです。「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(43節)。そうです、そこで求められているのはこの方を信じるということだけです。ただ信じて受け取ることだけなのです。

 このように神は分け隔てをなさいません。ただ神に対して、そして人に対しての生き方そのものを問われるということについて、神は分け隔てをなさいません。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。それゆえにまた、平和を告げ知らせてくださるということについて分け隔てをなさいません。イエス・キリストは「すべての人の主」です。そして、その方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる。信じる者は「だれでも」です。そこに分け隔てはありません。

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