2015年12月20日日曜日

「キリストがこの世に来られた日」

2015年12月20日 クリスマス礼拝  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 2章1節~20節


クリスマスの物語
 先ほど朗読された聖書箇所にこう書かれていました。
「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2章6節‐7節)。
その場面を想像してみてください。聖書は事も無げにさらりと書いていますが、考えてみれば、これは世にも悲惨な出産場面です。極めて不潔な場所で、出産に必要なものが何一つそろっていない場所で、もちろん助産婦などいようはずもないところで、マリアはまるで馬か牛のように赤ん坊を産み落とさなくてはならなかったのです。

 さて、これが聖画になりますと、実に美しい場面として描かれることになります。マリアは美しい顔で幼子を見つめています。しかし、どう考えてもそれはあり得ない。マリアの顔は、疲れ果てやつれた顔をしていたに違いないのです。生まれた赤ん坊の安全をなんとか確保して、ぐったりしているマリアがそこにいただろうと想像します。

 ではヨセフはどんな思いでその傍らにいたのでしょう。愛する人が汚い家畜小屋のようなところで出産することを望む人はいません。ヨセフはなんとしてでも、マリアが安全に子供を産める環境を整えたかったに違いない。ありとあらゆる手立てを尽くしたのでしょう。しかし、結局、ここまでしかできなかったのです。

 どんなに愛していたとしても、本当に必要な時に必要なものを与えることができない。自分の無力さを恥じながら、ただ見守るしかない。そのような時が確かにあることを私たちもまた知っています。その意味でここに描かれているのは私たちの現実でもあります。

 それはマリアにしても同じです。いったい誰が生まれてくる自分の子を飼い葉桶に寝かせたいと思うでしょう。親は子供のために最善の環境を整えてあげたいと思うのでしょう。彼女は彼女なりにできる限りのことをしたに違いないのです。しかし、結局彼女は飼い葉桶に自分の子を寝かせたのです。頑張ったけれど、そこまでしかできなかったということです。親の悲しみがそこにあります。

 その悲しみは今日の私たちも知っています。子供たちが生きていくために、幸福で安全な社会を本当は備えてあげたいと誰もが思っているのでしょう。しかし、現実にはまさに飼い葉桶のようにドロドロに汚れた社会の中に、子どもたちを置かなくてはならないのです。どう考えても解決のつかない放射性廃棄物に汚染された世界に、子どもたちを置かなくてはならない。その他、ありとあらゆる問題が山積した世界の中に、子どもたちを置かざるを得ないのです。ヨセフとマリアの姿が私たちの姿と重なります。その意味でも、ここに描かれているのは、この世に生きる私たちの現実でもあります。

 それだけではありません。そもそも臨月の妻がいるのに長い旅に出なくてはならなかったこと自体が異常です。ナザレからベツレヘムまで直線距離でも120キロはあります。普段の生活を後にして、どうしてそんな長旅に出なくてはならなかったのか。それは皇帝が勅令を出したからだと聖書は伝えます。

 自分の願いや意志とは関係のないところで勅令が出る。すると旅に出ざるを得ない。自分の願いや意志とは関係なく、それまでの生活を後にしなくてはならない。ある意味では私たちも同じです。今日、勅令は皇帝が出すのではありません。ある人にとっては企業の体制再編によって、職を失うことによって、それまでの生活を後にしなくてはならない。またある場合には突然の天変地異によって、そして、ある場合には突然の病気の宣告によって、人は安定した生活を後にして、旅に出ざるを得なくなるのです。マリアとヨセフに起こった事は私たちにも起こりえることを知っています。それがこの世に生きるということです。

 これが聖書の伝えるクリスマスの物語です。クリスマスの話は美しいおとぎ話ではありません。辛く悲しい人間の現実です。マリアとヨセフが身を置いている家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴しているとも言えるでしょう。

 そのようなこの世界に生きている人が、他にも登場してまいります。羊飼いたちです。今年は、私はページェントで羊飼いの役をやらせていただきました。羊たちは教会の一番幼い子どもたちがやることになっています。それは実にかわいい羊たちです。ですから羊飼いの役は楽しい。実に楽しい。

 しかし、現実の羊飼いとなったらそうはいきません。ここに描かれているのは牧歌的なのどかな情景ではないのです。彼らは「野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれているのです。彼らは羊の所有者ではありません。雇われているのです。夜通し羊の群れの番をしているというのは、今日で言えばブラック企業による過重労働です。いや、彼らは月100時間以上の残業をしているだけではありません。獣が襲ってくることもあるのですから、所有者の羊を時としては自分の命と引き替えに守らなくてはならないのです。これは過酷な労働です。

 しかし、彼らには選択の余地はないのです。辛かろうが苦しかろうが、そうしなければ生きていけないのです。そう、どんなに苦しかろうが逃げることはできない。生きていくためには留まらなくてはならないことがある。それもまたこの世に生きる私たちの現実の描写であると言えます。

天使の賛美に加わって
 しかし、話はそれで終わりません。ここに天使が登場するのです。そのような羊飼いのところに天使が現れてこう言うのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10‐11節)。そして、天使の大軍が現れてこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

 天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と神を讃美していた。天使たちの持ち場は天の世界です。しかし、彼らは天において神を讃美しているのではありません。わざわざ辛い現実にある羊飼いたちのところに来て、現れて神を讃美したのです。どうしてですか。羊飼いたちも天使と共に賛美できるようにでしょう。そうです、人間が加わることができるように天使は歌うのです。天においてではなく地上において。

 これは何を意味するのでしょう。神を讃美する歌というのは、辛く苦しいこの世の現実の中で歌われるべきものだ、ということです。神を讃美する歌は天国に行って初めて歌うものではないのです。苦しみが取り去られて初めて歌うものではないのです。私たちがここでしているように、あるいは日曜日にしているように、苦難に満ち、悩みに満ちているこの世界において歌われるべきものだということです。

 それはどうしてか。それは、この世界に既に救い主が来てくださったからです。
 
 家畜小屋の場面を思い浮かべてみてください。先にも申しましたように、この汚い家畜小屋は、まさに私たちが現に生きているこの世界とそこにおいて営まれる私たちの人生を象徴していると言えます。しかし、そこにはヨセフとマリアだけがいるのではないのです。そこには幼子もいるのです。神によって与えられた幼子イエス、神が与えてくださった救い主が悪臭漂う家畜小屋の中におられるのです。

 ということは、その悪臭漂う家畜小屋の中にさえ、神が与えてくださる喜びがあるということでしょう。羊飼いにこう語られていたではありませんか。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。その喜びが家畜小屋の中にさえ与えられているのです。だからそこから神を誉め讃えるのです。そこにおいて神を礼拝するのです。


 今から五年前のちょうど今頃ですが、五十代の女性が教会を訪ねてこられました。重い病気を負った方でした。彼女は残された短い人生をどう生きたら良いのか、「生き方」を求めて聖書を学び始められました。しかし、彼女が聖書を通して知ったのは「生き方」ではなくて、生きておられる神様であり、救い主であるイエス・キリストでした。半年後、彼女はイエス・キリストを信じ、キリストに自分自身をおゆだねし、病床にて洗礼を受けられました。彼女の人生に、救い主イエス・キリストが入って来られました。

  私は当時を思い起こしながらこう思うのです。彼女が信じたキリストは、ある意味では家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスであったと言えるだろうと。

 依然として家畜小屋の現実はあります。それは彼女にとっては病気という現実でした。病気と闘い、病気と折り合いをつけながら、生きていかなくてはなりません。しかし、そこには彼女と御主人だけがいるのではない。そこには救い主がいるのです。救い主がおられるならば家畜小屋の意味は違ってくるのです。そこで人は神と共に生きることができる。神が与える喜びにあずかることができる。そこで人は神を讃美して生きることができるのです。

 彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。「いと高きところには栄光、神にあれ」。あの天使の讃美に彼女も確かに加わっていたのです。そして初めてお会いした時からちょうど一年後の12月、彼女は救われた人として、天使の歌声に加わっていた人として、天に召されていきました。毎年クリスマスが近づくと、いつでもその方のおだやかな笑顔が思い出されます。

 救い主は来られました。この世界に来られました。そして、私たちの人生の中にもおいでくださいます。私たちが身を置く家畜小屋の中にイエス様が共にいてくださいます。私たちはそれゆえに、そこから神を賛美して生きることができるのです。

2015年12月13日日曜日

「先走ってはなりません」

2015年12月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節


魅力的な言葉?恐ろしい言葉?
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」(3節)。パウロそう語ります。これはある面、魅力的な言葉であり、同時に恐ろしい言葉でもあります。

 私たちは、往々にして人から裁かれること、ジャッジされることを恐れて行動しています。人からどう見られているのか、自分についてどう言われているのかがとても気になります。自分はこうしたいと思っても、人の目や言葉によって曲げざるを得なくなることもあります。

 ですから、人の裁きを恐れない強さ、人の目や人の言葉によって左右されない強さは、時としてとても魅力的に映ります。人の言葉によってぶれない人、人が何を言おうと自分自身を曲げない人、そのような人は時としてとても魅力的に映ります。不安の満ちる時代にはそのような指導者が求められるものですし、多くの人はそのような強さについていきます。

 そのような強さは、時としてこの世の法廷における裁きさえ恐れません。有罪とされようが投獄されようが節を曲げない人はいるものです。そのような人物によって時代が大きく動かされることもあります。記憶に新しいところでは、たとえば有罪とされ27年間も投獄されていたネルソン・マンデラ氏のような人物を思い起こすことができるでしょう。

 しかし、先の言葉は魅力的であると同時に恐ろしい言葉でもあります。人間が他の人間の裁きを全く恐れなくなることは恐ろしいことです。人間がこの世の法廷で裁かれることについて「少しも問題ではありません」と言い始めることは、ある意味ではとても恐ろしいことでもあります。

 今から6年前、アメリカにおいて、ジョージ・テイラーという医師が教会の礼拝中に射殺されるといういたましい事件がありました。射殺されたのは妊娠後期の中絶手術を行っていた医師でした。射殺したのは中絶反対の活動を熱心にしていた人でした。犯行に及んだ人物は、まさに「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と考えていた人でした。

 そのように、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という言葉は、一面において魅力的ではあるけれど、同時に恐ろしい言葉でもあります。

自分で自分を裁くことすらしません
 しかし、パウロはさらにこう続けるのです。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この言葉によって、意味合いは大きく違ってまいります。

 「自分で自分を裁く」ということについては、ある意味ではよく分かります。自分自身を厳しく断罪すること、自分自身を責め立てることは、確かにあるからです。断罪し責め立てるだけでなく、実際に処罰することすらあります。「自分が赦せない」と言って、自分をあえて苦しめるようなことをするのです。自分の良心が責め続ける限り、処罰を続ける。そのように自分で自分を裁くことは確かにあります。

 しかし、「自分を裁く」ということは、ただ「断罪する」ことだけを意味しません。それは事柄の一面です。ここで語られているのは自分をジャッジすることですから、断罪するだけでなく、無罪を言い渡すことも含まれます。自分を正しいと見なすことも含まれるのです。そして問題は、自分で自分を断罪することよりも、むしろ自分を正しいと見なすこと、自分を義とすることにあります。

 自分を正しいと見なす時、自分に反対する者は「正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいと見なすなら、自分に反対する者は「絶対的に正しくない者」となります。自分を絶対的に正しいとジャッジした自分が、今度は他者を絶対的に正しくないとジャッジするようになるのです。その場合、さらには「絶対的に正しくない人間は存在してはならない」という裁きにすらなります。そのような人が「人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言い始めるなら、先のテイラー医師射殺事件のようなことが起こります。

 パウロがそのように自分で自分を裁く人であり、しかも自分を正しい者と見なす人であったなら、先ほどの「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」という発言はとても怖い発言になります。実際、彼はかつてそのような怖い人でした。パウロは、かつて教会の迫害者であった時のことを次のように語っています。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。彼はそのようなことを行う自分を正しい人と見なしていたのです。そのように自分で自分を裁いていたのです。

 しかし、今や彼は「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言うのです。そして、その意味するところを彼はこう続けます。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4節)。

 「自分には何もやましいところはない」とパウロは言うのです。自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、普通は「わたしは正しい」という主張になるものです。特にパウロにとってはコリントの教会という具体的な相手があるのです。その間に生じている問題があるのです。パウロはコリントの教会から裁かれているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと…少しも問題ではありません」と言わざるを得ない状況があるのです。そのような時に、自分の良心に照らして何もやましいところがなければ、「わたしは正しい」という主張が出て来るのが当然でしょう。

 しかし、パウロは「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と言うのです。以前のパウロなら絶対に言わなかった言葉です。「義とされる」とは、主から「正しいと見なされる」ということです。つまり、自分から見たら何もやましいところはないのだけれど、主から見たら正しい人とは見なされない、とパウロは言っているのです。主から見たら罪人だということです。そして、パウロにとっては主がどう見られるかの方が重要なのです。「自分で自分を裁かない」とはそういうことです。パウロは言うのです。「わたしを裁くのは主なのです」。

 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言い、「わたしを裁くのは主なのです」と言う。信仰に生きるとはそういうことなのです。それは喜ばしいことでしょうか。どんなに正しい人であっても、それこそパウロのように「自分には何もやましいところはない」とまで言い得る人であったとしても、それでもなお主から見れば義とされない、正しいとは見なされない、ということです。「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きることは、喜ばしいことでしょうか。

 そうです。それは喜ばしいことなのです。少なくともパウロが悲しむべきこととして語っていないことは明らかです。なぜならパウロが「わたしを裁くのは主なのです」と言う時、その「主」がどのような御方であるかを知っているからです。

 それはこの世に来られて十字架にかかってくださった御方なのです。神の御前においてはどうあがいても罪人でしかない、そのような私たちを救うために来てくださった御方です。私たちの罪を代わりに負って十字架にかかって死んでくださった御方です。その方が最終的に裁いてくださると言うのです。私たちの正しさのゆえにではなく、「自分には何もやましいところはない」からではなく、ただ十字架のゆえに義としてくださるのです。主が裁いてくださるとはそういうことなのです。だからこそ喜びをもって「わたしを裁くのは主なのです」と言って、信仰者は生きていくのです。

先走ってはなりません
 それゆえにパウロは「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と勧めます。話の流れからすると、これは特に自分を裁くことについてパウロは語っているのでしょう。繰り返しますが、あくまでも「わたしを裁くのは主なのです」と言って生きていくことです。最終的に主が裁いてくださるのです。それを待たずに、先走って自分を裁いてはならないのです。

 先走って自分を正しい者としてはなりません。主がすべてを明らかにされるのです。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」と書かれています。闇の中に隠されていることは、時として自分の良心にさえ隠されているものです。「自分には何もやましいところはない」と言っていたとしても、最終的に主がすべてを明らかにされた時に、ただ自分が罪であると気づいていなかっただけのことだったと知ることになるのでしょう。その意味では、「先走って何も裁いてはいけません」。

 しかし、もう一方において、先走って自分を断罪して救いから除外してもなりません。キリストの血によってさえも贖われないかのように自分を断罪することをしてはならないのです。最終的に私たちを裁くのは、私たちのために十字架におかかりくださった方なのです。その方が裁かれる前に、「先走って何も裁いてはいけません」。

 「わたしを裁くのは主なのです」。このことが分かるときに、今日読まれた最後の言葉もまた意味を持つのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。普通に考えるならば、この言葉が続くのはおかしいでしょう。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおしかりを受けるでしょう」と続くのが本当でしょう。いやそれどころか、最後の一文は「そのとき、おのおのは神によって地獄の火に投げ込まれるでしょう」となるはずであるとも言えます。すべてが明るみに出されるのですから。

 しかし、そこでなお私たちはキリストによって裁かれた者として神の前に立つのです。すなわち、キリストによって贖われ、義とされた者として神の前に立つのです。その時、神は私たちをそのキリストの僕として、そのキリストに仕えてきた管理者として見てくださるのです。罪ある者であるにもかかわらず、間違いだらけの働きをしてきた者であるにもかかわらず、それでもなお僕として主人を愛して行ってきた一つ一つのことを神は見てくださるのです。表に現れなかったことも含めて一つ一つのことを神は評価してくださるのです。そして、この世の人々からのいかなる賞賛にまさる神からの賞賛をいただくことができるのです。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは主の裁きによって実現する特別な出来事です。ですから、その時を待つことなく、「先走って何も裁いてはいけません」。

2015年11月29日日曜日

「すべては神の慈しみによるのです」

2015年11月29日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 11章13節~24節


「ねたみ」が起こるように
 今日の聖書朗読は次の言葉から始まっていました。「では、あなたがた異邦人に言います」。ここで「異邦人」とはユダヤ人以外を指します。その意味ではここにいる私たちもまた「異邦人」です。

 イエス様はユダヤ人でした。イエス様の弟子たちもユダヤ人でした。最初の教会のメンバーは皆、ユダヤ人でした。教会で用いられていた聖書も、もともとはユダヤ人が伝えてきたユダヤ人の書物でした。メシアの到来の希望も、神の救いの約束も、もともとユダヤ人に与えられたものでした。

 しかし、使徒言行録に見るように、教会が宣べ伝える福音の言葉を多くのユダヤ人は受け入れませんでした。むしろ福音の言葉を受け入れたのは、聖書も知らなかった、メシアの到来の希望も救いの約束も知らなかった異邦人でした。自分の罪を認めて、イエス・キリストによる罪の贖いを受け入れ、神の赦しに与って、喜びと感謝をもって神と共に生き始めたのは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。

 そのようにして、もともとユダヤ人だけで構成されていた教会に異邦人が加わることになりました。そのようにして、もともとユダヤ人だけに伝えられていた福音が異邦人にも伝えられることになりました。そのような教会の歴史の延長上に異邦人である私たちもいるのです。

 異邦人に福音が伝えられる上で大きな働きをしたのは、この手紙を書いているパウロでした。パウロは自らを「異邦人のための使徒」と呼んでいます。ここに彼の自覚が現れています。自分は異邦人に遣わされた者であり、異邦人に福音を伝えることは神から与えられた使命であるとパウロは考えていました。実際多くの異邦人がパウロを通してキリストを信じたのです。

 しかし、パウロ自身は、異邦人がキリスト者となることを自分の働きのゴールとは考えませんでした。パウロはその先を見ていたのです。その先に起こるべきことを、彼はこう表現しています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(14節)。パウロは同胞であるユダヤ人のことを考えているのです。今はまだ福音を拒絶している人たちのことを考えているのです。パウロは彼らもまた救われることを願っているのです。福音を拒絶している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。迫害している人々がそのままで終わるとは思っていないからです。

 そのことを異邦人であるキリスト者に話します。「では、あなたがた異邦人に言います」と。なぜでしょう。彼らにも、自分たちの救いがゴールだと思っては欲しくないからです。異邦人が福音を信じて、キリストを信じて、それで終わりだと思って欲しくないからです。自分たちがキリストを信じたのは、まだ信じていない人々のためだということを理解して欲しいからです。異邦人である彼らがキリスト者とされたのは、福音を拒絶している人々の救いのためだということを理解して欲しいからです。

 先に信じた異邦人キリスト者たちに、パウロが切に願っていることがありました。それは信じていない人々の中に「ねたみを起こして欲しい」ということでした。キリストを信じた彼らによって同胞にねたみを起こしたいということでした。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と。

 救いのために「ねたみ」を起こさせたい。なんとも不思議な表現です。しかし、キリスト者の証しとは元来そのようなものなのでしょう。異邦人キリスト者が神を信じ、神と共に生き、神の恵みに与り、神への感謝と喜びに溢れている姿によって、ユダヤ人に「ねたみ」が起こる。自分の先祖が伝えてきた神であるのに、その神から異邦人たちが豊かに恵みを受けている姿を見て、ユダヤ人の中に「ねたみ」が起こることこそ必要とされていたのです。

 それは立派な姿を見て「見習いたくなる」ということとは意味合いが異なります。尊敬できる人を見て「あの人のようになりたい」と思うのとも意味合いが異なります。パウロが異邦人キリスト者の存在によって起こって欲しいのはそういうことではなかったのです。もしそうならばパウロは「ねたみ」という表現は使わなかったでしょう。起こって欲しいのは「ねたみ」なのです。そして、「彼らが与えられているならば、わたしもそれが欲しい」という思いなのです。そのために異邦人である彼らが先に信じる者とされたのです。

慈しみにとどまるなら
 しかし、このようにパウロが語っているのは、そのように理解していない人たちが少なくなかったからでもあったのでしょう。今日読んだ箇所から、おぼろげながら実際に何が起こっていたかが見えてきます。

 異邦人でキリスト者となった人たちは、身近に福音を拒否したユダヤ人たちを見ていました。敵意を向け、迫害をしてくる彼らを見ていました。そこで異邦人キリスト者はこう思うのです。ユダヤ人たちは確かに聖書を良く知っているかもしれない。聖書に書かれている戒律も守ってきた。しかし、本当に大事なことについては無知なのだ。イエス・キリストによる罪の赦しも、救いの喜びも知らないままでいるのだ。そして、異邦人キリスト者たちはこのような言葉を口にするのです。「彼らは不信仰のゆえに折り取られた枝だ。彼らは折り取られて、異邦人である私たちが接ぎ木されたのだ。私たちは根から豊かな養分を受けて実を結ぶようになるけれど、彼らは折り取られて枯れ枝になるだけだ」と。

 だからこそ異邦人キリスト者に対して、パウロはこう言うのです。17節以下を御覧ください。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(17‐18節)。

 確かに彼らが接ぎ木された枝であることは事実かもしれません。根から豊かな養分を受け取っていることも事実でしょう。それは大いに喜ぶべきことです。しかし、そのゆえに、折り取られた枝、根につながっていない枝に対して誇るようになったり、見下すような思いを抱くようになったら、それはやはり間違ったことでしょう。接ぎ木された枝は根を支えているわけではないのです。根によって百パーセント支えられているのです。それは何ら誇るべきことではないのです。

 しかし、信仰者の中に誤った誇りや思い上がりが宿ってしまうことは確かにあります。今日の異邦人キリスト者である私たちにおいてもしばしば起こることです。今日の聖書箇所の直後には「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように…」(25節)と書かれています。そうです、信仰を持ったことが、何か賢い者にでもなったかのように思ってしまうのです。一段上に上がったかのように思い上がってしまうのです。そして、信仰のない世界に対してただ批判者として立つことになる。また、教会の中にある不信仰に対しても、ただ批判者として立つことになるのです。

 それゆえにパウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい」(20節)。そして、こう続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。

 「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。

 私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみを思うのです。ここでパウロは「神の慈しみにとどまる」という表現を用いています。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と。

 そのように「神の慈しみにとどまる」ことこそが大事なのです。野生のオリーブであった私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。本来ならばここにいるはずのない私たちが、私たちが今こうしていられるのは、ただひとえに神の慈しみによるのでしょう。すべてはただ神の慈しみによるのだということを思いつつ、神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。

 そのように神の慈しみにとどまってこそ、私たちは受けているものの大きさを指し示して生きることができるのです。誇って信仰者の自分を指し示すのではなく、ただ不信仰な世界や不信仰な他者を批判するでもなく、慈しみの神から与えられた大いなる救いを指し示して生きることができるのです。そこにおいてこそ、良い意味での「ねたみ」もまた起こるのです。

2015年11月22日日曜日

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」

2015年11月22日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 1章4節~8節


今おられる御方
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるための手紙です。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。そして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉が続きます。これはもう一度8節で繰り返されます。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。

 主なる神は、「やがて来られる方」として語られています。「やがて」という言葉は原文にはありません。ですからこれは「いつか遠い未来に来られる」という意味ではありません。いわば刻々とこちらに向かって近づいて来ているということです。神の足音が近づいて来るというイメージでしょうか。もちろん救いのために近づいて来られるのです。

 迫害の中にある教会にとって、この言葉がどれほど大きな慰めであったかを思わされます。彼らの集まりは常に脅かされていました。いつでも近づいて来るものに脅かされていました。それこそ誰かが近づいて来る足音に脅かされていたでしょう。さらに言うならば常に死の足音が近づいて来るのが聞こえるということでもある。しかし、そのような教会に対して、本当に意識すべきは死が迫り来ることではなくて、「神が近づいて来られる」ということだとヨハネは語るのです。そちらの方が死の迫りよりも重要なのだということです。

 そして、そこには不思議なことが書かれているのです。「やがて来られる」ならば、論理的に考えるならば「それまではいない」ということになるではありませんか。しかし、その前には「今おられ、かつておられ」と書かれているのです。

 艱難の時は永遠に続くのではありません。死の迫り来る足音に怯える時は永遠に続くのではありません。神が到来するのです。救いの時が来るのです。まさに神が神として御自身を現される時が来るのです。しかし、救いが実現した時になって初めて主なる神が共にいてくださるのではないのです。そうではなくて、実はその神が「かつておられ」たと知ることになるのです。すなわち過去もまた神と共にあったと知ることになるのです。

 想像して見てください。迫害の中にあって、仲間が捕らえられて殺されてしまったとなったらどうですか。それこそ、まさに神が不在であったとしか人間の目には映らないではありませんか。この世の悪の力だけ、死の力だけが支配している。神はおられなかった、と。しかし、そうではないのです。「かつておられ」とヨハネは言うのです。

 私たちもそうでしょう。過去の悲しい出来事。なんであんなことになったのか、と思うこと。神様はあの時おられなかった。そう思えるようなことがあるでしょう。しかし、そうではなかったと知る時が来るのです。確かに神はおられた。そして、その時には見えなかったけれど、確かにわたしは神の愛の支配の内にあった。そう知る時が来るのです。「かつておられ」とはそういうことです。

 だからそれを信じて、今を生きるのです。それゆえに最初に「今おられ」と書かれているのです。ヨハネは苦難の中にある教会に、まず「今おられ」と宣言するのです。神である主は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでない。そうです、「今おられる!」。このヨハネの黙示録は、ただ未来についての予告を書き記したような手紙ではありません。そうではなくて、大事なことは、最後を握っておられる方、その御方が「今おられ」と信じて生きるための手紙なのです。

真実な証人
 そのように私たちは主なる神が「今おられる」と信じて、共に集まって礼拝し、その御子イエス・キリストを主として生きていくのです。その御支配の中にあると信じて生きていくのです。その御方についてはこう書かれています。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト(から恵みと平和があなたがたにあるように)」(5節前半)。

 私たちが仰ぐその御方こそ「証人」です。「証人、誠実な方」はまた「真実な証人」とも訳せます。またヨハネの黙示録が書かれた頃、「証人」という言葉はまた「殉教者」という意味をも持っていました。命をかけた証人です。その意味では、イエス様こそ、命をかけた第一の証人でしょう。

 イエス・キリストこそ、私たちに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なる神を証ししてくださった御方です。神が不在と思えるような苦難の中にあってなお、この御方は命をかけて、「神はおられるよ、あなたを愛しておられるよ、あなたと共におられるよ」と身をもって証ししてくださった御方です。

 その御方は「死者の中から最初に復活した方」だと語られています。そう訳されていますが、本当は「死者の中から最初に生まれた方」あるいは「死者の中からの長子」と書かれているのです。同じ表現はコロサイ書にもあります。これは実は重要な言葉なのです。イエス様は死んで葬られたのだけれど、そこに閉じ込められてはいませんでした。死の中に閉じ込められていませんでした。ちょうど母の胎から生まれるように、そこから出て来られたのです。そのようにして、イエス様は死の意味を変えてしまいました。イエス様によって、死は新しい誕生をもたらす母の胎とされたのです。

 考えてみてください。「神はおられない」という叫びが最も悲痛なものとなるのは人の死に際してではありませんか。死に直面するときに、特に悲惨な死に直面する時に、「ああ、神なんておられない。あるいはおられたとしても、わたしと共にはいてくださらない」と思うわけでしょう。それこそ肉の目から見れば、イエス・キリストの死こそ、あの理不尽な死こそ、神不在のしるし以外の何ものでもないでしょう。しかし、イエス様は死を新しい誕生にしてしまって、「神は共にいるよ」と証ししてくださったのです。「神はあなたと共にいるよ。そして、死を新しい命への誕生に変えてしまわれたよ」と。

王として、祭司として
 そのような御方を私たちは信じているのです。そのような御方に栄光を帰し、共に礼拝を捧げているのです。ヨハネも次のような言葉をもってキリストを讃えます。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

 まず、キリストは「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。私たちは愛されているのです。救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。迫害さえもある。そのような現在において、私たちは既に愛されているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかしやがて私たちは完全な勝利の中で完全に罪の力から解放された自分自身を見ることになるのです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。

 しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは王として、キリスト以外の何ものにも支配されない王として生きたらよいのです。真に畏れ従うべき御方を知るとはそういうことなのです。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは他者の上に罪の赦しを求めることができる。この世の上に罪の赦しを求めることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことでしょう。そして、なんと光栄に満ちた務めを与えられていることでしょう。それはただキリストのゆえなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

 これが私たちの信じるキリストです。私たちが礼拝を捧げている御方です。私たちもヨハネに声を合わせて主を讃えたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

2015年11月8日日曜日

「祝福を受け、祝福となる」

2015年11月8日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 12章1節~9節


あなたは祝福となれ
 今日は「子ども祝福礼拝」です。私たちは皆、心を合わせて子どもたちの上に神の祝福を祈り求めます。「祝福」とは何か。それは命の満ち溢れた状態です。命が満ち溢れ、溢れ流れて未来を開くのです。ですから、旧約聖書においては、例えば農作物の豊作、家畜の多産、一族の子孫が増え広がることが神の祝福の現れとして語られます。もちろんそれらが神の祝福の全てではありません。神様が人間に与えようとしているのは、目に見えるものを越えて限りなく豊かなものです。

 新約聖書においてパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)と言っています。神が与えようとしている祝福は、神の命の満たしは私たちの思いを越えて豊かなものとして、万物を与えられるに等しいものとして与えられるのです。それは最終的には神の国における救いの完成にまで至ります。そのような未来を開く命の満たしを神からのものとして求める。それが祝福を祈り求めるということです。

 今日の聖書箇所には、神御自身から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人物が登場してきます。アブラハムです。その時点ではまだ名前はアブラムでした。主はアブラムにこのような約束の言葉を与えられたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神は開かれるべきアブラハムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。しかし、神には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。イスラエルの民が見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない開かれた未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源となるように」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「あなたは祝福となれ」と書いてあるのです。祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は他者にとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためだけではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 そのように神が子どもたちを祝福するとするならば、それは子どもたちがこの世界の祝福となるためです。祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となるような未来が開かれることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

信仰によって
 そのように、神はアブラムを祝福するとの約束を与え、その目的はアブラムが祝福となるためでした。しかし、私たちはその前に主が次のように語られたことを心に留めなくてはなりません。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。

 アブラムの生まれ故郷はどこでしょう。アブラムが生まれたのはカルデアのウルでした。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこからアブラムの父テラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移住しました。アブラムが主の呼びかけを聞いたのは、そのハランにおいてでした。ですから、厳密に言えば、アブラムは既に生まれ故郷は離れていることになります。

 実は、「生まれ故郷」と訳されているこの言葉は、「あなたの地、あなたの親族」というのが直訳なのです。ですから、必ずしもウルのことではないのです。「あなたの地」と言われているのは、寄留者ではないということです。彼には「わたしの地」と言えるものがあるのです。そこでは安心して生活できるのです。しかし、主はそこから旅立つようにと言われたのです。

 それは父テラがウルからハランに移住した時のように、ただ別の地が「あなたの地」になるということではありません。ここにはいわゆる転勤族の方々もおられますが、生活の場所が変わるということは、必ずしも人生の根本的な転換を意味するわけではありません。ここで語られているのは、そのようなことではないのです。アブラムはここで、「あなたの地を離れ…わたしが示す地に行きなさい」と言われているのです。

 ここからは主に導かれ、主に従って生きていくのです。主に信頼して生きていくのです。ただ別の地を「わたしの地」として生きることではないのです。それは人生の根本的な転換です。それを「信仰」と呼ぶことができるでしょう。アブラムは「わたしの地」から踏み出して信仰によって生きる新しい生活へと招かれたのです。

 その招きに続いて先に読んだ祝福の約束は語られているのです。祝福を与えてくださるのは神ですが、祝福には受け取り方があるからです。4節には何と書いてありますか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。実際に、神に信頼し、現実に一歩を踏み出したのです。旅立ったのです。彼は信仰によって生き始めたのです。そのようにして祝福の約束を受け取ったのです。これが受け取り方です。

 アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単に善い人間になることでも有能な人間となることでもないのです。私たちは「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と思うのでしょう。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かった。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。

祭壇を築いた
 その具体的な姿は「旅立った」と表現されていますが、それだけではありません。その続きがあります。旅立ったアブラムはどうしたでしょう。アブラムはハランからカナン地方に向かって旅立ち、やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先住民がいるということは、そこで寄留者になるということです。「わたしの地」に住んでいた時にはなかった困難がそこにはあったことでしょう。しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」。

 彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。祭壇とは礼拝の場所であり祈りの場所です。祭壇を築きつつ旅をするということは祈りながら生きていくということに他なりません。信仰生活とは祈りの生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。

 そのように信仰は観念ではありません。ただ神について考えることではありません。信仰は具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、私たちにとっても目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があるのです。今日、私たちが祝福を祈り求めた子どもたちが、そして、私たち自身が、そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、祝福を受けて祝福となることを信じて、これからも主と共に歩み続けてまいりましょう。

2015年9月13日日曜日

「どうしてそんなに怒るのか」

2015年9月13日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 15章11節~32節


お兄さんのところに身を置いて
 今日はイエス様のなさった「放蕩息子」のたとえ話をお読みしました。イエス様がこのたとえ話をなさったのには理由があります。その事情が15章の冒頭に記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。そこでイエス様は三つのたとえ話をされました。今日お読みしたのは三番目のたとえ話です。

 このたとえ話はもちろんそこにいる全ての人が聞いていました。しかし、明らかに第一の聴衆はきっかけを作ったファリサイ派の人々と律法学者たちです。イエス様は彼らを念頭に置いて語っているのです。ならば、このたとえ話を聞く上でまず私たちが身を置かなくてはならないのはファリサイ派の人たちのところです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちとはどのような人々であったか。改めて細かく説明する必要はなさそうです。たとえ話によってイエス様が説明してくださっているからです。要するにこの話に出て来るお兄さんのような人々です。

 これは通常「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるのですが、私たちがまず身を置かなくてはならないのはお兄さんの方なのです。イエス様はこのお兄さんのような人たちを意識して語っているのですから。

 このお兄さんの位置に身を置くことは難しいことではありません。このお兄さんの気持ちが分からない人はまずいないからです。お兄さんは怒っています。ちなみに、今日の説教題は「どうしてそんなに怒るのか」です。しかし、恐らくそんな質問はいらないのです。私たちには怒る理由はよく分かるからです。そんなことをもしお兄さんに尋ねたら火に油を注ぐことになるでしょう。

 そこで私たちはまずお兄さんのところに身を置いてこのたとえ話を聞いてみます。そこで何が聞こえてくるでしょう。このお兄さんが最後に耳にしたのはこのような言葉でした。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。これが聞いている私たちにとっても最後に耳に残る言葉です。

 どういうつもりでお父さんはこう言っているのでしょう。「嫌だったらお前は参加しなくていいんだよ。とりあえず理解しておくれよ」という意味ではないでしょう。そうではなくて、お父さんはお兄さんに加わって欲しいのです。家に入ってきて、祝宴に加わって、一緒に楽しみ喜んで欲しいのです。「一緒に喜んでくれ」。この父親の心が、お兄さんのところに身を置くと聞こえてくるのです。

 この声がはっきりと聞こえるように、イエス様は準備しています。そのために二つのたとえ話を先にしているのです。百匹の羊のたとえ話、そして十枚の銀貨のたとえ話です。

 羊を見つけた羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。銀貨を見つけた女も友達や近所の女たちを呼び集めて言うのです。「一緒に喜んでください」。そして、息子が帰ってきたことを喜ぶ父親が、怒り狂っている兄息子に言うのです。「一緒に喜んでください」。そうです、この三つのたとえ話を通して、天の父は私たちに呼びかけているのです。「一緒に喜んでください」と。

腹立たしい父親の喜び
 それにしてもイエス様のたとえ話は極端です。友達や近所の人々まで呼び集める羊飼いや女の喜び方は常軌を逸しているとも言えます。三番目のたとえ話の場合、父親の喜び方は異常を通り越して腹立たしくさえある。少なくともあのお兄さんにとってはそうでしょう。

 しかし、その喜び方が極端で異常なだけにまたはっきりと分かることもあります。失われた一匹の羊が羊飼いにとってどれほど大事な存在かということ。失われた一枚の銀貨があの女にとってどれほど大事であったかということ。帰ってきたあの息子が父親にとってどれほど大切な存在であったかということです。あの息子は共にいるだけでその存在そのものが父親の喜びであることは明らかでした。そうです、あのお兄さんにもよく分かったはずです。

 だからこそ腹が立ったのです。怒ったのです。あのろくでもない息子がどうしてそんなに大事なんだ!帰ってきただけでどうしてあんなに喜ばれているんだ!あんな奴がどうしてそんなに大きな喜びなんだ!と。

 帰ってきた弟は、兄にとって喜びではないのです。しかし、父親にとっては喜びなのです。自分にとっては大切な弟などではないのです。しかし、明らかに父親にとっては大切な息子なのです。そうです、父親にとっては大切な息子。それは認めざるを得ない。だから兄は言うのです。「あなたのあの息子が」(30節)と。「自分の弟が」とは言いたくないのです。けれど、父親にとっては喜びである息子らしい。そして、それは実に腹立たしいことです。

 さて、これは私たちにとって実に身近な話かもしれません。神様にとって大切な存在が、私たちにとって大切な存在とは限らない。神様にとって大きな喜びが、私たちにとって大きな喜びであるとは限らないからです。私たちにとって共にいる人が常に大きな喜びであったらどんなに良いかと思います。そうありたいと願います。しかし、現実にはそうならないこともあるのでしょう。お兄さんが弟を見るように、他の人を見てしまうことがあるのでしょう。

 あの人が神に愛されているなんて思いたくもない。あの人が神にとって大切な存在だなどと思いたくもない。あの人が神にとって大きな喜びだと言われるならば、それは何にもまして腹立たしい。神様御自身がたとえそう言ったとしても腹立たしい。「あなたのあの息子が!!」と言ったお兄さんの気持ちはとてもよく分かる。そのような時もあるのでしょう。

子よ、と呼びかける父
 しかし、「あなたのあの息子が!」と毒づくこのお兄さんに対して、父親はこう語りかけるのです。「子よ」と。わかりますか。このお兄さんもまた、父親にとって大切な息子なのです。苦々しい思いを込めて「あなたのあの息子が!」と兄は言う。しかし、その父親の《大切なもう一人の息子》が父親の目の前にいるのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかけられている、大切な息子がここにいるのです。

 思い返してみれば、あの弟が帰ってきたとき、走り寄って距離を縮めたのは息子の方ではありませんでした。父が駆け寄ったのです。彼は父の大切な息子であり大きな喜びだからです。では、兄に対してはどうでしょう。兄もまた離れていたのです。家の外にいたのです。入ろうとはしなかったのです。その離れていた兄のところまで来たのは父親の方でした。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた」(28節)と書かれているとおりです。

 「なだめた」とありますけれど、これは「慰める」とも訳せる言葉です。「傍らに呼ぶ」というのが原意です。父親は外に歩み出て怒る兄に近づきます。自ら傍らに立たれるのです。そして、彼に呼びかけます。「子よ」と。そうです、兄もまた大切な息子なのです。

 お兄さんは怒ってこう言っていました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)。実際、そのように生きてきたのだと思います。このお兄さんは頑張ってきたのでしょう。何年も一生懸命仕えてきた。下僕のように仕えてきた。言いつけに背くこともなかった。お父さんに認めてもらいたくて、大切な息子として認めてもらいたくて、お父さんの喜びになりたくて、喜ばれる息子になりたくて、一生懸命に仕えてきたのでしょう。

 しかし、そこにろくでもないもう一人の息子が帰ってきた。その息子が大切にされるのを見た。その息子が喜ばれるのを見た。だから腹が立った。怒ったのです。しかし、本当はそこでお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。彼は息子であるとはどういうことなのかを目の当たりにしているのです。そのことをお兄さんは気づかなくてはならなかったのです。

 下僕のように仕えるから息子と認められるのではないのです。言いつけに背くことがないから大切な存在となるのではないのです。息子は息子なのです。何があっても大切な存在なのです。既に大きな喜びなのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。本当はそのように見てくれている父が既に一緒にいたのです。

一緒に喜び祝おう
 その父親が言うのです。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。兄はこの言葉を聞いています。兄のところに身を置いた私たちもまたこの言葉を聞いているのです。

 父親は言います、「お前のあの弟」と。兄はそこに「弟」を見なくてはならない。死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった「弟」を見なくてはならないのです。彼を「弟」として見る時に、自分をその「兄」としても見ることになるのでしょう。どちらも同じ父親の息子として見ることになるのです。

 その父は言うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。弟が共にいることを一緒に喜んでくれ、見つかった弟が共にいることを一緒に楽しみ喜ぼう、と言われているのです。そうです、父と一緒に弟の存在を楽しみ喜ぶことができるなら、兄もまた父の子として、自分がそのような父の喜びであることを楽しみ喜ぶことができるのです。「どうしてそんなに怒るのか。」そう、本当は怒る必要はない、全く怒る必要はないのです。

 それはここにいる私たちにも言えることです。私たちが身を置いているのは、立ち帰った者たちの祝いです。主の日の礼拝とはそういうものです。ここでは一緒に喜び祝ったらよいのです。他の誰かの存在を父なる神が喜んでおられるなら、父と一緒に喜び祝ったらいいのです。そして、同じように自分の存在をも大いに喜び祝ったらよいのです。父が祝宴を開いて、とにかく一緒にいることを喜び祝っていてくださるのですから。

2015年8月30日日曜日

「報いを受けなくても幸いです」

2015年8月30日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 14章7節~14節


お返しができない人を招きなさい
 ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は招いてくれた人にこんな話をなさいました。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 これを聞いた人たちはどう思ったでしょう。もしかしたら、イエス様を招いた議員は多少不愉快になったかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反対しなかっただろうと思います。ファリサイ派の人たちは、決して自分たちのことしか考えない我利我利亡者ではありません。彼らの大切にしている善行の中には「施し」も含まれているのです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには同意したと思うのです。

 さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。ファリサイ派の人たちは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においてサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したと思うのです。

 それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人も恐らくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて「神の国」を思ったのです。イエス様の話を聞いて、神の国における神からの報いを思ったのです。

 そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではとても分かりやすい。ファリサイ派の人がそのまま聞いても理解できて「なんと幸いなことでしょう」と声を上げるような話だったのです。

上席を選ぶ様子を見て
 しかし、私たちはイエス様の教えだけでなく、それが語られた場所、そこに集まっていた人々にも目を向けたいと思うのです。イエス様はどのような場面においてこのことを語られたのでしょう。

 最初に申しましたように、イエス様は食事のためにファリサイ派の議員の家にお入りになりました。食事に招かれたのはイエス様だけではなかったようです。他にも招待客がおりました。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子だったのです。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。しかし、たかが食事の席の話ではないかとも思えます。イエス様があえて食事の場で戒めることでもないでしょうに、と。そんなことは昔からイスラエルで言われてきたことでもあるのです。旧約聖書の箴言に、「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と書かれているとおりです。

 にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、「たかが食事の席の話」ではないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさったのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。遠回しにあてつけたのではありません。ことさらに「婚宴」あるいは「祝宴」と訳しても良いのですが、そのような「祝いの宴」のたとえ話をしたのは、「祝宴」が神の国を表す表象でもあるからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。

 上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありませんでした。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。招待客の一人は言っていました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。

 そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。

罪人のわたしを憐れんでください
 そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、神との関係における話です。実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてまいります。次のように書かれているのです。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 高ぶったり卑下したり、人をほめそやしたり見下したり、自分と人との比較、人と人との比較の意識、「上席・末席」の意識は神との関係においてこそ入ってきやすいものです。しかし、徴税人は人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。

神の国への招きとは
 そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。それは単なる分かち合いの勧めでも善行の勧めでもないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話しでもないのです。

 イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた宴会こそが、神の国を映し出すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す宴となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招いてくださるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。

 お返しができない人の招かれた宴会。その意味するところは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人の姿をさげすんで、見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。

 そこから、お返しができない人たちの招かれた宴会を見るならば、そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。

 実際、イエス・キリストによって救われるというのはそういうことでしょう。私たちが既に神によって受け入れられ、神の国に招かれているとは、そういうことではありませんか。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれる。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。

 やがて神の国において、私たちはその事実に驚くことになるでしょう。まったくふさわしくない、全くお返しのできないような私たちを神は招いてくださった。その恵みの大きさを目の当たりにして愕然とすることでしょう。そして、改めて、人から報いを求める必要などなかったのだ、ということを知るでしょう。そう、すべてが完全に報われている。ただこんな自分が神の国に招かれていたという一事をもって、完全に報われていることを知るでしょう。「あなたは報われる」とイエス様の言われたように。そうです。誰から報いを受けずとも、本当は既に幸いなのです。

2015年7月19日日曜日

「イエスに従った女性たち」

2015年7月19日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章1節~3節


悪霊を追い出していただいた女性たち
 今日の福音書朗読では、神の国を宣べ伝えるイエス様とその一行の宣教旅行のことが書かれていました。そこには当然のことながら「十二人も一緒だった」と書かれています。イエス様が夜を徹して祈って選んだ十二人です。イエス様が「使徒」と名付けた十二人です。その名前は既に6章14節以下に記されていました。宣教旅行に彼らが同行していたのは当然です。実際にはその他の弟子たちも大勢伴っていたものと思われます。

 しかし、今日の箇所ではその他の弟子たちのことには触れずに、あえて一緒にいた女性たちのことを伝えています。彼女たちもまた宣教旅行に加わっていました。しかし、それは決して当然のことではありませんでした。女性が低く見られ軽んじられていた時代の話です。特に宗教的な領域においてはそうでした。普通のユダヤ教のラビならば、道で会った時でさえ自分から女性に声をかけたりしない。そのような時代において、当たり前のように女性たちと行動を共にするイエス様は人々の目にどれほど奇異に映ったことでしょう。しかし、男性だけではなく女性もまた神の御前にある一人の人間として共にいることはイエス様にとっては当たり前のことだったのです。

 そのような多くの女性たちの中でも、特にここでは「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(2節)について言及されています。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」とありますが、厳密に言いますと、悪霊を追い出されることと病気をいやされることは並置されているのであって、病気の原因が悪霊であったという意味ではありません。ですから、マグダラのマリアについては病気とは関係なく「七つの悪霊を追い出していただいた」とだけ書かれています。要するに彼女たちには病気だけではなく、悪霊に支配されていた過去があったということです。言い換えるならば、神に背いて生きてきた生活があったということです。

 実際にマグダラのマリアについては「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれているわけですが、彼女はいったい何者なのでしょう。いったいどんな悪いことをして、いったいどんな罪を犯して、生きてきた人なのでしょうか。この聖書の表現はこれまで多くの人々の想像をかき立ててきました。そして、マグダラのマリアの人物像について多くの理解が生まれることとなりました。

 その中には7章に出てきた女性と同一人物であるとする見方があります。その町で「罪深い女」として知られていた人です。「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7:37‐38)と書かれているあの女性です。イエス様から「あなたの罪は赦された」と宣言していただき、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言っていただいた、あの女性です。

 確かに今日の聖書箇所は「すぐその後」という言葉から始まっていて、前の章とはっきり結びつけられています。章で区切られていますが続けて読まれるように書かれているのです。ならば、あの女性がマグダラのマリアなのでしょうか。しかし、もしそのことを伝えたいのなら、7章でマグダラのマリアという名前を出したに違いありません。

 ルカはあえて名前を記しませんでした。それが誰であるかは重要ではなかったのです。伝えたかったのはイエス様がどのように出会ってくださったか、どのように関わってくださったかということですから。彼女の姿はある意味ではイエス様と出会った全ての人の姿であり、特にイエス様によって救われた全ての女性たちの姿でもあったということでしょう。

 ですから今日の箇所に出て来るマグダラのマリアもヘロデの家令クザの妻ヨハナもその他の女性も並べて書かれているのです。マグダラのマリアを7章の「罪深い女」と結びつける人は彼女が娼婦であったと考えます。実際、そうだったのかもしれません。一方、次に出て来る「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」は明らかに娼婦ではありません。「ヘロデ」とはガリラヤを治めていた領主であるヘロデ・アンティパスのことです。彼女はいわば高級官僚の妻です。社会的に見れば娼婦の対極にいる女性であったと言えます。しかし、彼女もまた悪霊から解放された人としてここに書かれているのです。彼女は娼婦ではなかったでしょう。ふしだらな女でもなかったかもしれない。しかし、そこにはまた異なった形での悪霊の支配があったということです。彼女は彼女として神に背いた生活があったということです。

 しかし、そのように恐らく全く異なる人生を歩んできたマグダラのマリアもクザの妻ヨハナも、また名前しか書かれていないスサンナも、それぞれがイエス様に出会ったのです。あの7章の女性のように。いわば、それぞれがあの7章に出てきた「罪深い女」だったとも言えます。彼女のように、神の赦しの愛に出会い、罪の赦しをいただいて、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言された人たちだったのでしょう。

イエスを愛し共に仕える女性たち
 ですから、彼らは並べて書かれているのです。マグダラのマリアも、ヘロデの家令クザの妻ヨハナも区別なく並べて書かれているのです。この世においてどのような立場にある人かはもはや重要ではありません。それぞれが過去にどのような罪を犯し、どのように神に背いてきたかということすら重要ではありません。ルカは彼女たちの過去の生活については一言も触れていないのです。

 マグダラのマリアについては様々な人物像が描かれてきたと申しました。しかし、「七つの悪霊」とだけ語って、あとはすべて沈黙しているということは意味のないことではありません。その内容は誰にも知られる必要はないということです。彼女が何に支配され、何をしてきたのかは、もはや重要ではないのです。同じことはその他の女性たちについても言えることです。それ以上に重要なことがあるからです。

 それは何か。今、イエス様を愛して仕えているということです。そうです、それだけが重要なのです。あの7章の「罪深い女」についてイエス様はこう言っていました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(7:47)と。そうです、聖書は今日の箇所に出て来る女性たちについても詳細な人物像を伝えません。ただイエス様を愛し、その愛をもって共に仕えている人たちとして伝えているのです。7章からの流れで言うならば、彼女たちが多くの罪を赦されたことは、イエス様に示した愛の大きさで分かる、ということなのでしょう。

 それはこの福音書を読み進んでいくとよく分かります。私たちは、キリストの十字架刑の場面、そして復活の場面において、これらの女性たちの姿に出会うことになるのです。一方において、男の弟子たちが皆イエス様を見捨てて逃げ去ってしまう中で、彼女たちはどこまでもキリストのもとに留まろうとした人たちとして描かれているのです。

 例えば、キリストが十字架にかけられて、ついに「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで、そして息を引き取られたという場面には、こう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。この「ガリラヤから従って来た婦人たち」とは、今日の箇所に出て来た女性たちのことです。その後にもこう書かれています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有り様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55‐56)。

 そして、日曜日の朝、墓に行くわけですけれど、墓は空になっていた。そこで天使から告げられるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。そこに彼らの名前が明記されています。「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24:10)。マグダラのマリア、ヨハナの名前は、今日読んだ箇所に出て来ましたでしょう。そして、イエス様を愛した彼女たちこそが主の復活についての最初の証人となったのです。

 そのようなイエスを愛して従った女性たちのことがこうして二千年後にまで伝えられているのです。繰り返しますが、女性が著しく軽んじられていた時代の話です。しかし、聖書はしっかりと彼女たちに目を向けています。イエス様を純粋に愛した人たちとして。イエス様に従い、仕える人たちとして。

 具体的にはどのように仕えていたのでしょう。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(3節)と書かれていました。「持ち物」とありますが、それはただ金品だけを意味するのではありません。自分の「持っているもの」ということで、自分の能力や資質も含まれます。もちろん「持ち物を出し合う」ということもあったでしょうが、さらに広く彼女たちが自分のできることを出し合って、分かち合って、共に仕えたということなのです。

 マグダラのマリアとクザの妻ヨハナは、できることも差し出せるものも異なっていたに違いありません。しかし、それぞれ持てるものを出し合って、一緒に仕えていたのです。それこそがイエス様に救われた者たちの感謝の応答でした。それこそがイエス様を愛して仕えるということでした。誰から強いられたわけでもない。ただ罪を赦され救われた感謝とイエス様への愛によって。

 そうです、あの日も、彼女たちのある者は、持てるものを出し合って、できることを出し合って、一緒にイエス様の墓に向かったのです。ただイエス様への愛によって。そして、そのようなマグダラのマリア、ヨハナたちにキリストの復活のメッセージは伝えられたのです。逃げて隠れていた弟子たちに主の復活を最初に伝える役割が与えられたのです。主は確かに彼女たちを最後まで共に宣教の旅をする人たちとして見ていてくださったのでした。

2015年5月17日日曜日

「キリストによって招かれて、キリストによって遣わされる」

2015年5月17日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章16節~20節


キリストによって招かれて
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。イエス様が十字架にかけられて死んだ後、自分たちも同じ目に遭わないようにと逃げ隠れしていたあの弟子たちに、イエス様は婦人たちを遣わして言われたのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

 もはや「わたしはイエスの兄弟である」などと口が裂けても言えない弟子たちなのでしょう。弟子であることを自らの行動で否定してしまったのですから。イエス様に会わせる顔もない。しかし、イエス様はそんな彼らを弟子として見ていてくださいました。「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、彼らの兄弟としてガリラヤで待っていてくださると言うのです。彼らをみもとに招いていてくださるのです。「そこでわたしに会うことになる」と。

 だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。ただイエス様に会いたいからではありません。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が弟子たちとして迎えてくださるから。イエス様が計り知れない赦しをもって兄弟として迎えてくださるから。

 イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)。彼らはイエス様にまみえることができただけでなく、そこには彼らが「ひれ伏した」と書かれています。それは「礼拝した」という言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となったのです。

 イエス様が招いてくださった山において礼拝している十一人の弟子たち。そこに見るのは教会の姿です。ここにいる私たちの姿です。招いてくだっているのは復活されたキリストです。私たちの罪のために十字架にかかられ、私たちが義とされるために復活されたキリストです。その御方によってまことに弟子に相応しくないような者たちが礼拝の山へと招かれている――それが教会です。

 しかし、そこにはまた小さくこう書き添えられています。「しかし、疑う者もいた」。「疑う者もいた」というのは一つの意訳です。そこには「彼らは疑った」と書かれているのです。ですから、礼拝をしていながら全員がいくばくかの不信仰を抱えていた、と見ることもできるのです。

 いずれにせよ、彼らの中には信仰と不信仰が混在していたということです。彼らの礼拝の中には不信仰と疑いがあったのです。それはとてもよく分かります。私たちの礼拝もまたそうですから。ここには信仰があり不信仰がある。しかし、キリストはその不信仰のゆえに彼らから離れたかというと、そうではありませんでした。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)と書かれているのです。イエス様は近づいてきてくださる。不信仰のあるところに近づいてきてくださるのです。そして、彼らの疑いと不信仰について語られたのではなく、御自分について語られたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と。

 そして、「天と地の一切の権能を授かっている」御方が最終的に信仰と不信仰が混在する彼らに対してこう言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。「いつも」というのは「すべての日々」という言葉です。昨日も今日も明日も、ということです。礼拝を捧げている時だけではありません。明日も明後日もその次の日も。いつまでですか?「世の終わりまで」です。ここに語られているのは、まさにあの弟子たちもまたここにいる私たちも受けるに値しない恵みです。礼拝へと招いてくださる復活の主の恵みです。

キリストによって遣わされる
 そして、今日朗読された箇所においては、ちょうどその恵みに包み込まれるようにして、主が弟子たちに命じられる言葉が語られているのです。それはしばしば「大宣教命令」と呼ばれます。19節以下をお読みします。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19‐20節)。

 主は礼拝の山に招いてくださいました。その御方は、そこから弟子たちを遣わされます。「あなたがたは行きなさい」と。何のために?「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と主は言われるのです。これがイエス様の命じられた言葉の中心です。

 イエス様はすべての民がイエス様の弟子となることを望んでおられます。それはとてつもない話のように思えます。しかし、代々の教会はその言葉を文字通りに受け止めてきたのです。だから極東の日本にまで教会があるのです。ここまで伝えられてきたのです。

 「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。その具体的な内容は「洗礼を授けること」と「教えること」でした。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

 イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われます。教会が洗礼を授けることを主は望んでおられます。すべての民が洗礼を受けることを主は望んでおられます。信仰をもって生きる上で洗礼が必要であるか、あるいは必要でないか。そのような話題を耳にすることがあります。しかし、大して意味ある話題とは思えません。洗礼を授けることはイエス様御自身が命じておられることだからです。イエス様は教会が洗礼を代々に渡って全ての国々において授けられることを望まれたのです。

 洗礼についてはパウロが次のように語っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3‐4)。

 洗礼において何が起こるのか。「洗礼によってキリストと共に葬られ」とあります。誰によって葬られるのですか。神様です。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのようにそれまでの自分が死んだ者とされ、葬られるのは何のためでしょう。「新しい命に生きるため」なのだ、とパウロは言うのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味で洗礼は新しい自分の誕生の式でもあります。

 この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。その子はこの世での生活の仕方を覚えていくことでしょう。同じように、霊的に新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方、イエス様が見せてくださった天の父と共に生きる生活の仕方、イエス様の弟子として、また兄弟として生きる生活の仕方を伝えられねばなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。

 主は言われました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。実際、このマタイによる福音書は、そのようにイエス様が教えられたことを伝えるために書かれたと言っても良いでしょう。また、パウロの手紙などにおいても具体的な信仰生活に関する勧めが書かれているのも、そのような理由です。イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。その言葉を二千年の時を経て、私たちもまたここにおいて聞いております。最初に「だから」という言葉があります。この命令が意味を持つのは、その御方が「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるからです。そうでなければ「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は意味を持ちません。それこそ他の民のところにまで行って「イエス様の弟子になるように」と伝えることは余計なお世話でしかないでしょう。

 しかし、あの御方は「天と地の一切の権能を授かっている」と言われるのです。その御方はいかなる意味においても相対化できない存在だということです。そのような御方を私たちは礼拝し、そのような御方の語りかけを聞いて、そのような御方によってこの世に遣わされるのです。そのことを本気で信じているのでしょうか。確かに代々の教会がそのことを信じてきたからこそ、今の私たちがここにいるのです。私たちはどうなのでしょう。

 その意味においても、私たちが礼拝するこの礼拝の山には、信仰と不信仰が混在しているのでしょう。しかし、それでもイエス様は私たちに近寄ってきてくださいます。ここに招いてくださった御方は、私たちに近づいてきてくださいます。そして、なおもここから私たちを遣わしてくださるのです。「行きなさい」と言って。礼拝の最後が「派遣」となってとはそういうことです。そして、主は私たちにも約束してくださるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

2015年5月10日日曜日

「信じるだけで十分です」

2015年5月10日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書7章1節~10節


そうしていただく資格があります
 今日お読みしましたのは、カファルナウムにおける出来事です。登場するのは「百人隊長」です。ガリラヤに駐留していたローマ軍の下士官です。その彼についてこう書かれていました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2‐3節)と書かれています。ここに彼の人となりがよく現れています。

 「重んじられている部下」とありますが、これは「彼にとって大切な奴隷」というのが直訳です。もしかしたら家の奴隷の話かもしれません。7節では「僕」と訳されています。それが家の奴隷であれ、あるいは軍隊の部下であれ、いずれにせよ彼はその人を一人の人間として大切にしていたことが伺えます。その僕が病気になったとき、彼はイエスの助けを求めたのです。ローマの軍人が占領下にあるユダヤ人の一人に助けを求めたのです。自分のためではなく僕の癒しのために。

 しかもその際に、彼は自分の部下を送ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに取り次ぎお願いしたのです。「ユダヤ人の長老たちを使いにやって」という表現になっていますが、内容的にはローマ人である百人隊長がユダヤ人の長老たちに頭を下げてイエスとの仲立ちをお願いしたということでしょう。そこで、頼まれた長老たちは頼まれた以上のことをするのです。そのローマの軍人のためにイエス様に熱心に願うのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4‐5節)。

 「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、それは単に会堂建築の費用をまかなってくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはないのです。ユダヤ人はローマ人を汚れた「犬」と呼び、ローマ人はユダヤ人を被占領民族として見下していたような社会です。しかし、そのような中にあって、この百人隊長はまさに「そうしていただくのにふさわしい人」と言われているのです。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが評価されていたということなのでしょう。もしかしたら使徒言行録に出て来るコルネリウス(使徒10:1)のように、自ら会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を愛する「神を畏れる人々」の一人だったのかもしれません。

 先ほどお読みしたように、百人隊長が願ったのは「部下を助けに来てくださるように」ということでした。そう長老たちに言付けたのです。しかし、当然のことながら、そこで本当に求めているのは神の癒しです。長老たちもそれは分かっているはずです。ですから、ここで「ふさわしい人」というのは、神に願いを聞き入れられるのにふさわしい人という意味合いでもあるのです。さらに言うならばそれは「資格がある」という言葉です。恩恵にあずかる「資格がある」と言われているのです。なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。

資格があるからではなく
 実際、私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常私たちが考えていることでもあるのでしょう。わたしに神に何かを願う資格があるか。資格がないか。神に何かをしていただく資格があるか。資格がないか。――ところが、この物語では百人隊長がそのように人間性においても生き方においても《資格があるから》神は願いを聞き入れて僕を癒したという話になっていないのです。

 話は次のように続きます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」(6‐7節)。

 ユダヤ人の長老たちは百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長自身は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言うのです。百人隊長自身は自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言います。イエス様が単なる有能な医者だったら彼はそう言わなかったかもしれません。しかし、そこに働いているのは神であることを知っているのです。それゆえに、彼はふさわしくないと言うのです。

 しかし、「ふさわしくない」と言う彼が、この物語においてイエス様から異例とも言える言葉をもって賞賛されるのです。明らかにこの物語の中心はそこにあるのです。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』」(9節)。この言葉から分かるように、イエス様が賞賛しているのは、彼の人となりでも行動でもないのです。「ふさわしくない」というへりくだった姿ですらないのです。そうではなくてイエス様が賞賛しているのは彼の「信仰」なのです。

 ではイエス様はどこに彼の「信仰」を見たのでしょう。彼はこう言いました。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。そこに言い表されているのは、イエス様の語られる言葉に対する信頼です。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。

 彼は「言葉」の背後にある「権威」について語っているのです。イエス様の言葉が事を成すとするならば、そこに「権威」が伴っているからです。それは言うまでもなく神の権威です。言い換えるならば、イエス様は「神の言葉」を語っておられるということです。

 そのことについて、ヨハネによる福音書は次のようなイエス様の言葉を伝えています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:10‐11)。今日の箇所でルカが伝えているのは、イエス様がそう言ったとおりにした人がいたという話です。要するに、先に信仰へと招かれていたはずのユダヤ人が信じない中で、それを信じたのが異邦人であったあの百人隊長だったということなのです。

ただ信仰によって
 事を成し遂げられる権威ある神の言葉ということで思い起こされるのは聖書の最初に書かれている物語です。天地創造の物語です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。そのように神の言葉によって、この世界が一つ一つ形づくられていくという物語です。

 この素朴な物語が教えているのは、今日の私たちにとっても極めて重要な事柄です。神はそれまでになかったものを創り出されるということです。無から有を創り出されるということです。過去を前提とせず現在と未来を創り出されるということです。それまでが暗闇であるならば、これからもずっと暗闇であろうと私たちは考えるかもしれません。しかし、神が「光あれ」と言われるならば、それまでになかった光がもたらされるのです。神は人間が想像することができないような新しいことをなされるのです。

 そのような神の言葉が、全く新しいことをなされる神の言葉が、イエス・キリストを通してこの世界に与えられたのです。私たちが救われるとするならば、それは天地創造がそうであったように、それまでの私たちを前提としたことではなく、全く新しい神の創造の御業です。そのような神の言葉がこの世界に与えられたのです。そして、今もイエス・キリストが宣べ伝えられ、神の言葉が宣べ伝えられているのです。神は今も御言葉によって、この世界に、私たちの人生に、新しい創造が起こるのです。そこにおいて私たちに求められているのは信仰なのです。この百人隊長がそうであったように、ただ信じることなのです。

 そのことについてパウロも次のように語っているとおりです。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」(1テサロニケ2:13)。

 私たちはどうしても先に「ふさわしい」あるいは「ふさわしくない」といったこちら側の事柄に目が行ってしまいます。しかし、本当に重要なのは向こう側から来るものをどう受け取るかということなのでしょう。必要とされているのは神の言葉への信頼です。イエス様はこの百人隊長の信仰を賞賛されました。しかし、それをあえて人々に聞こえるように語られたのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と言っていた人たちにも聞こえるようにこう言われたのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。本当に目を向けるべきところはどこにあるのか、主は彼らに、そしてここにいる私たちに指し示しておられるのです。

2015年5月3日日曜日

「キリストの喜びが共に」

2015年5月3日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章11節~17節


あなたがたを友と呼ぶ
 イエス様は弟子たちに言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。イエス様は弟子たちに対して心の内にあったものを全て開いて示されました。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、人がその友に心を開くように、弟子たちにその心を開いて語られたのです。

 イエス様の心の内にあったのは「父から聞いたこと」でした。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と主は言われました。それは父なる神から聞いたこの世の救いの計画でした。この世が救われるためにイエス様が十字架にかからなくてはならないことでした。世の罪が赦されるために「世の罪を取り除く神の小羊」」として死ななくてはならないことでした。そのようにして多くの実を結ぶために「一粒の麦」として地に落ちて死ななくてはならないことでした。イエス様は御自身に関わるすべてを弟子たちに語られました。そう、友として。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」。だから主は言われるのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。

 あの弟子たちに語られた言葉が、代々の教会によって伝えられてきました。それは、代々の教会もまた、このイエス様の御言葉を、自らへの語りかけとして聞いてきたからに他なりません。父の救いの計画が私たちにも伝えられた。イエス様の十字架の意味が私たちにも伝えられた。それはとりもなおさず、イエス様が私たちを友と見てくださった、ということなのだ。そのように、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という語りかけを、福音が宣べ伝えられたという事実の中に聞いてきたのです。

 その言葉を私たちもまた聞いています。私たちがこうして毎週呼び集められていること、私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストの友とされていることの目に見えるしるしです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と主は私たちにも語っておられるのです。

あなたがたのために命を捨てた
 そして、細かいことですが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と訳されていますが、意味合いとしては「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」という表現が使われているのです。既に友と呼んでいるのです。その前に書かれている13節、14節の御言葉もまた、既に友と呼ばれている者に対して語られている言葉です。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様は愛についての一般論を語っているのではありません。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉なのです。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。そのようなイエス様の言葉です。「これ以上に大きな愛はない」とはどういうことですか。これ以上愛しようがないということでしょう。イエス様は友をこれ以上愛しようがないほどに愛されたのです。そして、イエス様は言われたのです。「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」。――あなたがたこそ、わたしが愛している友、命を捨てるほどに愛している友なのだ、と。

 そしてその翌日、弟子たちはイエス様が十字架にかけられた姿を見ることになりました。さらに、やがて十字架の意味を知ることになりました。イエス様が心開いて語ってくださった父のご計画を本当の意味で知ることになりました。その時に、あたかも外から眺めるかのように、「イエス・キリストは全人類の罪のために死んだのだ」と言えなかったことは明らかです。言えるわけないでしょう。「あなたがたはわたしの友だ」と言われてしまったのですから。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われてしまったのですから。キリストの十字架の出来事は、自分に対する直接的な語りかけとして聞かざるを得なかったはずなのです。「友よ、わたしはあなたのために命を捨てた。これ以上愛しようがないほどにあなたを愛しているから。あなたはわたしの友だから」と。

あなたがたは友である
 そして主はさらにこう言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。イエス様の命じることとは、12節と17節に語られていることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。つまり、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われたのです。

 「友と呼ぶ」ことは一方通行でも成り立ちます。友としてかかわることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。仮に相手が友達だと思っていなくても、こちらが友達として接することは可能でしょう。しかし、友達同士という関係は、一方通行では成り立ちません。友としての交わりは、一方通行では成り立たないのです。わたしが誰かを「友と呼ぶ」ことと、その人が本当に友であるかどうかは、別な話です。その人は友だちだと思っていないかもしれませんから。

 イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。ならば、私たちも本当の意味でイエス様の「友」になりたい。イエス様も、ただ一方的に友と呼ぶだけでなく、私たちが本当に友であって欲しいと願っておられるのです。

 イエス様の友であるとはどういうことでしょう。イエス様を愛するということでしょう。イエス様が私たちを友として愛してくださった。その愛に応えて私たちもイエス様を愛することでしょう。それがイエス様の友であり、イエス様の友として生きるということであるに違いありません。ではどのようにしてイエス様を愛するのか。イエス様が願っていることを行うことによってです。相手の願いに無頓着であるなら、本当の友とは言えません。では、イエス様は何を望んでおられるのか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そう主は言われるのです。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

あなたがたが実を結ぶために
 そして、私たちがイエス様の友とされ、イエス様の友として生きるということは、ただ私たち自身にのみ関わることではないのです。主はこう言われたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 イエス様の関心は、ここにいる私たちに対してだけでなく、広くこの世界に向けられています。イエス様は私たちがこの世界に出て行って実を結ぶことを望んでおられます。そのために私たちを友としてくださり、またイエス様の御名によって父に祈ることができるようにもしてくださったのです。出て行って、実を結ぶためです。

 「わたしには何もできません。わたしはそのような者ではありません」などと言う必要はありません。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とイエス様は言われるのですから。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。わたしたちに能力があるかないか、関係ありません。わたしたちが強いか弱いか、関係ありません。わたしたちが若いか年老いているか、関係ありません。男か女か、関係ありません。わたしがイエス様を友にしたのではなく、イエス様が私たちを友と呼んでくださったのです。わたしたちが実を結ぶために!

わたしの喜びがあなたがたの内にあるように
 さて、これらのことを語られたのは、先にも述べましたように、最後の晩餐においてでした。イエス様は間もなく自分が捕らえられることを知っていました。弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまうことを知っていました。見捨てられた者として、不当な裁きを受け、鞭打たれ、辱められ、十字架にかけられて殺されることを知っているのです。しかし、イエス様は悲しみながらこれらのことを語っておられるのではありません。そうではなくて、大きな喜びをもって弟子たちに語っておられるのです。今日の朗読の冒頭はこのような言葉でした。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)。

 そう、確かにイエス様は「わたしの喜び」について語っておられるのです。人々の憎しみも敵意も裏切りも、そして迫って来る死の力さえも、イエス様の喜びを奪うことはできませんでした。いや、イエス様は喜びを失わなかったどころか、それを弟子たちにも与えようとしておられたのです。「あなたがたの喜びが満たされるために」と。

 イエス様は弟子たちもまた奪われることのない喜びに生きて欲しいと願われました。満ち溢れる喜びに生きて欲しいと願われました。なぜですか。イエス様の友だから。イエス様はそのように、私たちにもイエス様の喜びが宿るように、喜びが満ちるようにと願っておられます。イエス様の友だから。

2015年4月26日日曜日

「天から降ってきた命のパン」

2015年4月26日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 6章34節~40節


物質的な満たしでも精神的な満たしでもなく
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。そうイエス様は言われました。

 「命のパン」とは何でしょう。今日の朗読箇所の直前ではイエス様がこう仰っています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。その天から降って来たパン。世に命を与えるパン。わたしこそが天から降ってきた「命のパン」なのだとイエス様は言っておられるのです。

 「わたしが命のパンである」。これは今日の私たちにとって決して分かりやすい言葉とは言えません。いや、当時の人々にとっても、分かりやすく受け入れやすい言葉ではなかったようです。今日の朗読箇所の直後にはこう書かれています。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか」(41‐42節)。

 人々はこのイエス様の言葉を聞いてつまずいたのです。つぶやき始めたのです。「わたしは天から降って来た」などと言ったからです。もしイエス様が「わたしが命のパンである」などと言わないで、天から降って来たなどと言わないで、ただ「わたしがパンを与えてあげよう」と言われたらなら、ずっと分かりやすかったと思います。

 もし、イエス様がそのように言われたなら、実際に人々はイエス様がパンを与えてくれるのを期待したことでしょう。というのも、イエス様は人々にパンを与えたことがあったからです。この章の初めにはイエス様が大群衆にパンを与えたという奇跡物語が記されています。恐らく彼らの多くは、この奇跡を経験したか、あるいは聞いて知っている人々なのです。だから「また、あの奇跡を行ってくれるかな」と期待したに違いないのです。

 あるいはそのような奇跡を人々が経験していなかったとしても、「わたしがパンを与えてあげよう」という言葉は、やはり受け入れやすかったと思います。というのも多くの人々はイエス様に政治的な解放者としての期待を寄せていたからです。この人こそローマの圧政からイスラエルを解放してくださるに違いない。そのようにして貧しい我々にパンを与えてくださるに違いない。人々はイエス様の言葉をそのように受け止めたことでしょう。

 あるいは、そのような物質的なパンではなく、精神的なパンの話にするならば、さらに受け入れやすかったに違いありません。今日の読者にとっても非常に受け入れやすいものとなるでしょう。「わたしが精神的なパンを与えよう。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これならば分かるではありませんか。実際、精神的な満たしこそ宗教の目的であると考えている人は少なくないと思われます。

 しかし、イエス様は物質的な意味においてであれ、精神的な意味においてであれ、「わたしがパンを与えよう」とは言われなかったのです。「わたしが命のパンである」と言われたのです。そのために「天から降って来た」と言われたのです。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)と言われたのです。神の御心を行うための「命のパン」として天から降って来たというのです。

永遠の命を与えるために
 「神の御心」とは何でしょう。神は何を与えようとしておられるのでしょう。イエス様が語られたのは、人々の物質的な必要を満たすことでも、精神的な必要を満たすことでもありませんでした。イエス様は何と言っておられましたか。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(39‐40節)。これこそがイエス様の天から降ってきた目的だというのです。

 「永遠の命を得る」という表現にせよ、「終わりの日に復活させる」という表現にせよ、それが意味しているのは、神による最終的な救いです。イエス様が他の箇所で「神の国に入る」と表現しているのも同じ内容です。

 そのように、イエス様がここで話しておられるのは、人間の物質的な必要の満たしについてでも、精神的な必要の満たしについてでもないのです。「終わりの日」の話なのです。最終的な救いについての話なのです。最終的に神によって受け入れられ、救われるのか。それとも最終的に神によって退けられ、滅びるのか。そのような究極の事柄です。その関わりにおいて「命のパン」について語られているのです。

 その命のパンは「天から降って来て」、世に命を与えるものであると語られていました。問題が物質的な必要の満たしならば、必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はありません。場合によっては、天からのパンを求めるよりも、地上において互いにパンを分かち合うことの方がずっと大切であるとも言えるのでしょう。

 また、問題が精神的な必要の満たしならば、これもまた必要を満たすパンは必ずしも天から降って来る必要はないのでしょう。「精神的なパン」はこの世にいくらでも見いだせるからです。「この世が提供するものなど全てジャンク・フードです。宗教こそが唯一まともな精神的なパンです」などと言う必要はありません。イエス様の生きていた時代の高度に文化的なギリシア・ローマ世界にも、精神的なパンという意味ならば、栄養価の高いものはいくらでも存在していたのです。

 しかし、問題が物資的な必要の満たしでも、精神的な必要の満たしでもなく、最終的な救いに関すること、永遠の命にかかわることであるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。神に背いて生きてきた人生の罪責を、私たちは処理することができないからです。私たちがそれぞれ自分の人生を省みるならば、旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者なのです。ならば、救いは神の方から来なくてはならないのです。天から来なくてはならないのです。

 そして、救いは天から来たのです。それが私たちに伝えられている福音です。救い主が天から来られたのです。その御方は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。その御方は、私たちが神によって罪を赦されて、神との交わりに生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。

 その御方がこう言われたのです。「わたしが命のパンである」(35節)と。今日の朗読箇所には含まれませんが、後にもっとはっきりと次のように語っておられます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。そのように主は御自身を与えて、十字架にかかってくださいました。

このパンを食べるならば
 そのように、イエス・キリストは私たちの救いのために、永遠の命を与えるために、天から降って来た「命のパン」となってくださいました。

 しかし、ここで当たり前の話ですが、パンは口に入れられ食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つことになります。ですから、先に引用したイエス様の言葉においても「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と語られていたのです。

 「食べる」という言葉によって表現されているのは「信仰」です。今日の読まれた箇所においても「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40節)と語られていたとおりです。そのように「信じること」が「食べること」として語られていることには大きな意味があります。「信じること」と「食べること」は良く似ているからです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。

 私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできないのです。キリストは確かに全人類のために十字架にかかってくださいました。しかし、キリストを信じる時、私たちはそのキリストの十字架を他ならぬ「わたしの罪の贖い」として感謝して受け取るのです。ちょうどパンを食べるようにです。

 さらに言うならば、パンを食べるということは一回限りのことではありません。キリストが「命のパン」ならば、そこで考えられているのは一回だけ食べることではなく、食べ続けるということです。実際、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた時、「来る者」も「信じる者」も継続を意味する表現が用いられているのです。そのように「入信」はある一点での出来事かもしれませんが信仰生活は継続です。それを目に見える形で表しているのが、繰り返し行われる聖餐なのです。

 そのように信仰生活は「食べ続ける」ことです。それはまた、信仰に生きるということが最終的には他の人の責任にできない、自分自身が主の御前で問われる厳粛なことであるという意味にもなります。信仰において誰かが妨げになりました。誰かが反対しました。迫害しました。あるいは誰かがつまずきになりました。それは最終的には問題ではありません。他者の責任にはできないのです。最終的には本人が食べたか、食べ続けたかということが決定的に重要なこととなるのです。そして、事実、誰が妨げようが、物質的なパンを奪われようが、精神的なパンを奪われようが、この世の命を奪われることになろうが、「命のパン」を食べ続けた人たちがいたのです。その人々によって、福音は伝えられてきたのです。

 「わたしが命のパンである」。イエス様は私たちの救いのために天から降って来てくださいました。イエス様は私たちの救いのために御自身を「命のパン」として差し出してくださいました。私たちの罪を贖い、永遠の命をもたらす「命のパン」として御自身を差し出してくださいました。そのパンを食べるのはわたしであり、あなたです。食べ続けるのはわたしであり、あなたです。

2015年4月5日日曜日

「あの方はここにはおられない」

2015年4月5日 イースター礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 24章1節~12節


キリストは生きておられる
 「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」(1節)と書かれていました。墓に行ったのは「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(23:55)です。イエス様と一緒に旅をしてエルサレムまで来た婦人たちです。

 彼らについては8章において次のように書かれていました。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(8:3)。イエス様と弟子たちの一行は福音を宣べ伝えながら旅をしていたわけですが、その彼らを経済的に支えていたのが彼女たちだったということです。

 そのように持てるものを捧げながら一行と共にエルサレムにまでついて来た彼らでした。そこには大きな喜びがあったことでしょう。大きな期待があったことでしょう。しかし、そのエルサレムにおいてイエス様は捕らえられてしまいました。イエス様は鞭打たれ血まみれにされ、十字架にかけられてしまいました。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、そして、ついに息を引き取られたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。聖書にはこう書かれています。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23:49)。

 ヨセフという人が総督ピラトのもとに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。イエス様が葬られるとき、婦人たちはただついて行くことしかできませんでした。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様を見届け」(同55節)たと書かれています。このように、イエス様と一緒に旅をしてきた彼女たちが最終的に行き着いたのは「墓」でした。

 「そして、週の初めの日の明け方早く」(1節)、婦人たちはその「墓」に向かっていたのです。彼らが行き着いた「終着点」をもう一度訪ねるためでした。そこに今もなお横たわっている死んだイエス様にお会いするためでした。

 しかし、墓に着くと入口を塞いでいたはずの大きな石が墓のわきに転がしてありました。婦人たちが中に入ると、イエス様の遺体は見当たりませんでした。すると輝く衣を着た二人の人が現れてこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5‐6節)。そうです、イエス様は墓にはおられませんでした。なぜならイエス様は「死んだ方」のままではなかったから。復活して「生きておられる方」だからです。生きておられるから終着点に留まってはいないのです。前に向かって、その先に向かって進んでいかれました。

 私たちはそのようなイエス様を信じているのです。教会が毎年復活祭を祝っていることは、教会が今日に至るまでそのようにイエス様は「生きておられる方」だと信じてきたことを意味するのです。墓に留まっておられることなく、そこから歩み出された方であると信じているということです。

それゆえに私たちも生きる
 さて、先週の木曜日に近隣8教会の合同礼拝がありました。そこで読まれたのは、最後の晩餐におけるイエス様のこんな言葉でした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)。十字架にかかられる前の最後の食事。終わりへと向かうための食事。墓に行き着くことが既に見えているところでの食事です。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。そう、イエス様は死者の中にはおられない。イエス様は生きている。墓には留まってはいない。しかし、それはイエス様だけに関わることではないのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われたのです。イエス様が終着点に留まっておられる方でないならば、弟子たちもまたそうなのです。イエス様はあの婦人たちの「終わり」、弟子たちの「終わり」を「終わり」でなくしてしまわれたのです。

 確かに、あの婦人たちは彼らの旅の終着点にいました。弟子たちも同じでした。弟子たちの場合にはもっとはっきりしています。信じて従ってきたイエス様が死んでしまったというだけではありません。彼ら自身がイエス様を見捨てて逃げたのです。ペトロはイエス様との関係を三度も否定したのです。その意味で弟子としてイエスと共にしてきた旅は決定的に終わったのです。言わば、イエス様が死んだ時、彼らもまた死んだのです。

 しかし、イエス様は死んだ方として墓に留まってはいませんでした。イエス様が「生きておられる方」であるゆえに、彼らもまた生きることになりました。彼らの終着点はもはや終着点ではなくなりました。そこは新しい出発点となりました。彼らは死んだままではありませんでした。彼らは生きるようになりました。

 それゆえに、この福音書を書いたルカは、続く第2巻目を書いたのです。「使徒言行録」です。教会の物語です。一度死んだ彼らが、イエス様によって新しく生き始めた物語です。彼らの中に「生きておられる方」が生き生きと働かれた物語です。

 そして、その物語は今も続いているのです。教会の物語は今日に至ってもなお続いているのです。私たちは今その中にいるのです。教会が復活祭を毎年祝い続けてきたとはそういうことです。イエス様は生きておられる。だから私たちも生きるのです。

 私たちも実際、この世において、あの婦人たちが味わったような旅の終わりを幾度も経験するのでしょう。私たちもこの世において、あの弟子たちが味わったような死を幾度も経験するのでしょう。「全ては終わった」「結局、こうなってしまった」「もう二度と元には戻れない」と。そして、そこであの弟子たちのように自らの罪に涙しながら、死んだ人として「終わり」に留まろうとするのでしょう。

 しかし、イエス様は生きておられる。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主は言われる。そして、私たちの終わりを始まりに変えてくださるのです。私たちは死んだ人ではなく生きている人として前に向かって歩み始めるのです。

人生の終わりにおいても
 そして、最後に私たちは本当の意味で旅の終わりにさしかかることを知っています。本当の意味で自らの墓が見えてくるところに立つことになる。そのことについて例外はありません。しかし、そこでもなおイエス様は生きておられるのです。イエス様が生きておられるので、私たちもまた生きるのです。私たちの墓は終着点ではなくなるのです。

 この教会において一番最近天に召された方はH姉でした。彼女が重い病気と診断されたのは三年前の夏でした。そこから闘病生活が始まりました。その中でこの教会に導かれ、共に礼拝を捧げてきました。昨年の4月20日のイースター礼拝もこの場所で共に礼拝をお捧げしました。しかし、この冬に病状が悪化し、ちょうど一ヶ月前、3月5日にこの地上の人生を終えられました。

 H姉の旅は病の床において終わったように見えます。葬儀と墓が終着点であるようにも見えます。しかし、私たちと共に彼女が信じていたイエス様は生きておられるのです。ならばH姉も生きるのです。実際、わたしが最後に目にした彼女の姿は、終わりに向かう人の姿ではありませんでした。

 わたしの目に焼き付いているのは、病床において賛美を聞きながら、「うれしい」という言葉を繰り返して、うれし涙を流している姿です。そのうれしさがそのまま伝わってくる涙でした。それから数日後にH姉は召されました。人生の最後に至って、墓が見えているところにおいてなお、人は心から「うれしい」と言うことができるのです。心の底からのうれし涙を流すことができるのです。それは終着点に向かっている人の涙ではありませんでした。主は生きておられます。だからH姉も生きている。この世における終着点は新たな出発点となりました。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。今年もこの言葉を聞きながら、世界中の教会と共に主の御復活を祝いしています。イエス様は復活されて、今も生きておられると、共に信仰を言い表して礼拝を捧げています。主がよみがえられた朝、それは「週の初めの日」でありました。週の初めの日、日曜日。それゆえに私たちはこれまでと同じようにこれからも日曜日に主に礼拝をささげます。そのようにして復活され、生きておられる主、そして私たちを生かしてくださる主につながって生きていくのです。主は復活されました。イースター、おめでとうございます!

2015年3月29日日曜日

「誘惑に陥らないように祈りなさい」

2015年3月29日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 22章39節~53節


御心のままに
 イエス様は弟子たちとの最後の晩餐を終えると、オリーブ山へと向かわれました。こう書かれています。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」(39‐40節)。

 主は「いつものように」そこに向かわれました。「いつもの場所に」向かわれました。それが危険なことであることは分かっていたはずです。ユダが既に祭司長たちのもとに向かっていたのは分かっていましたから。ユダは祭司長たちと共に武装した人々を手引きして「いつもの場所に」連れてくることでしょう。イエス様が「いつものように」「いつもの場所に」向かうということは、「群衆に邪魔されないところでどうぞわたしを捕まえてください」と言っているようなものです。主は覚悟の上で、あえてそこに向かわれたのでした。

 イエス様は時が来たことを悟っておられたのです。天の父によって定められた時。捕らえられ、裁かれる時。十字架にかけられる時。――父から受けた杯を飲み干すべき時。主は時が来たことを悟って、「いつものように」「いつもの場所に」向かわれたのです。そして、そこで祈られたのです。いつものように。次のように書かれています。「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(41‐42節)。

 主は祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。しかも、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と書かれています。聖書に記されているのはただ一度だけ口にされた祈りではありません。繰り返し、繰り返し、いよいよ切に祈られたのでしょう、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。

 その姿はある意味ではとても奇異に映ります。イエス様はこれまでに繰り返し御自分の受難を弟子たちに予告してこられたのですから。しかも、最後の食事において杯を手にして主はこう言われたのです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)。十字架にかけられることを既に泰然と受け止めておられるように見えるではありませんか。それなのに、この期に及んで「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は切々と願い求めておられるのです。

 その姿は話の流れにそぐわない。確かにそうとも言えます。しかし、この度ここを改めて読んで思いました。私たちの罪のために十字架にかかられるとは、こういうことなのだ、と。私たちの罪を代わりに背負い、十字架において私たちの罪を贖うとはこういうことなのだ、と。

 私たちはやはり、自分の罪の重さを本当の意味では知らないのだと思います。私たちがどれほど神に背いて生きてきたかを本当の意味では知らない。本来ならどれほど恐るべき裁きを受けなくてはならなかったかを私たちは知らないのです。私たちの罪が赦されるとするならば、どれほど大きな苦しみをイエス様に代わりに負わせることになるのかを知らないのです。

 そうです。私たちは知らないけれど、イエス様には分かっていたのです。あの杯が何であるかを。その真実が見えていたのはイエス様だけなのです。私たちはむしろ、父から受けた杯を手にして苦しみもだえるお姿に、私たちが主に担っていただいた罪の重さ、その恐ろしさを見るべきなのです。

 そのように「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と主は祈られました。しかし、主はさらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。主が「いつものように」「いつもの場所に」おいて祈ったのは、自分の願いを聞き入れてもらうためではありませんでした。主は自分の願いではなく父の御心に従いたいのです。救い主として御自分を世に遣わされた父の御心に従いたいのです。だからこその祈りです。父の御心に従うことができるように、主は御父に向き続けたのです。

 父に向き続け、苦しみもだえながら祈られるイエス様に、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし、沈黙はしばしば言葉以上に雄弁に語ります。沈黙こそがイエス様に与えられた答えでした。イエス様は父の答えを得たのです。――わかりました。あなたの御心なのですね。――イエス様の心は定まりました。イエス様は祈り終わって立ち上がりました。イエス様は弟子たちのところに戻られます。

 眠り込んでいた弟子たちに語りかけておられると、ユダに手引きされた群衆が現れました。ユダはイエスに接吻しようと近づきます。主は言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。事の成り行きを見てとった弟子の一人が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その右の耳を切り落としました。しかし、主は彼を制して言います。「やめなさい。もうそれでよい」。そして、その耳を癒されました。イエス様が地上で行われた最後の癒しの奇跡でした。こうしてイエス様は捕らえられてゆきました。天の父の御心に従うために。

祈っていなさい
 さて、私たちはオリーブ山において祈られるイエス様の姿に目を向けてきました。しかし、今日の聖書箇所はイエス様の祈りの姿だけを伝えているのではありません。ちょうどイエス様の祈りを挟み込むようにして、弟子たちへの言葉が記されているのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。

 オリーブ山におけるイエス様の祈りの姿は、弟子たちに対する「祈りなさい」という言葉と共に伝えられてきました。弟子たちは眠りこけていた自分たちの姿と共に、このイエス様の言葉を伝えてきたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

 「誘惑」とは何でしょう。そう言えば、最後の晩餐の席においてイエス様がペトロに対してこんなことを言っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31‐32節)。

 サタンによってふるいにかけられる。それは具体的にはイエス様が捕らえられてしまうということです。しかし、それだけではありません。シモン・ペトロは三度イエス様を知らないと言ってしまう。そんな自分の弱さと醜さに向き合って大泣きすることになるのです。それは他の弟子たちも同じで、皆イエス様を見捨てて逃げ出すことになるのです。彼らが抱いてきた希望も、弟子としての自負も誇りもその一切が打ち砕かれてしまうのです。

 弟子たちは間もなく大きな試練を経験することになります。彼らは深い悲しみ知ることになります。深い絶望を味わうことになります。イエス様は分かっているのです。その悲しみも絶望も「誘惑」にもなるのだと。悲しみの中で、サタンはふるいにかけてくるのです。だからこそイエス様はペトロのためにも祈ったのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。その主がオリーブ山で言われたのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。それはイエス様が捕らえられる時だけのためではありません。人を神から引き離す誘惑は常にあるのです。

 「誘惑に陥らないように祈りなさい」。主はそう言われて、「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた」と書かれています。「石を投げて届くほど」の距離とはどのくらいでしょう。よく分かりませんが、少なくとも遙か彼方でないことは間違いありません。主の祈る姿が遠くに見えるところ。激しく叫び祈るイエス様の声が聞こえるところ。そこで、イエス様と共に彼らもまた祈るのです。イエス様の御苦しみを思いつつ、彼らもまた「誘惑に陥らないように祈る」ことが求められているのです。

 しかし、実際には彼らは眠ってしまいました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)と書かれています。先にも申しましたように、弟子たちはイエス様の祈りの姿だけを伝えたのではなくて、眠り込んでいた自分たちの姿を一緒に伝えたのです。そのようなことが、あの時だけでなく常にあり得るからでしょう。

 「悲しみの果てに眠り込んでいた」と書かれていますように、試練の中にあって、悲しみの中にあって、まさに誘惑に陥らないために祈らなくてはならない時に、実際には祈ることをやめてしまうことはあるのです。眠り込んでしまったらイエス様の姿も声も聞こえないように、霊的に眠り込んでしまったならば、もはや私たちを救う父の御心に従うために苦しみもだえて祈られたイエス様の御姿を思うこともありません。

 あの弟子たちだけではありません。いつの世の信仰者の経験でもあるのでしょう。私たちも例外ではありません。しかし、眠っている弟子たちのところにイエス様は戻ってこられ、そしてもう一度言ってくださいました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。イエス様が起こしてくださいます。ならばそこから祈り始めたらよいのでしょう。

 ここにいる私たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」という言葉が伝えられています。眠っていたらイエス様が起こして私たちに語ってくださいます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。その御言葉がオリーブ山におけるイエス様の祈りの姿、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたイエス様の祈りと共に伝えられています。この御言葉を受け止めて、受難週の歩みを進めてまいりましょう。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。

2015年3月1日日曜日

「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

2015年3月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~26節


サタンとその支配
 「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」(14節)。このような言葉から今日の福音書朗読は始まりました。

 ここに書かれているのは、口の利けない人がしゃべれるようになったという話です。その人は口が利けないという苦しみから解放されました。口が利けなくなったという災いが取り除かれました。しかし、聖書はこれを単に苦しみと災いの除去として語っているのではなく、殊更に悪霊の追放として伝えています。イエス様も明らかに悪霊の追い出しを意識して事を行っているのです。

 この出来事を目撃したある人々は言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。するとイエス様は、こう言われました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18節)。

 イエス様はここでベルゼブルを「サタン」と言い換えています。イエス様はしばしば「サタン」に言及しています。ここではサタンについて語るだけでなく、「その国」について語っています。「その国」というのは正確には「その王国」という言葉です。イエス様はサタンとその王国を見ていたのです。

 「サタン」とはもともと「敵対者」を意味する言葉です。誰に敵対しているのか。神に対してです。イエス様はその人を苦しみから解放されました。しかし、イエス様が目を向けていたのは苦しみや災いそのものではありませんでした。そうではなくて、この世界に神に敵対する力が働いていることを見ていたのです。神に敵対する王国を見ていたのです。神に敵対する勢力が人間を支配しているのを見ておられたのです。

 サタンは神の敵です。神が愛そのものである御方なら、サタンとは愛に対立する力です。神が人間との交わりを望んでおられるならば、サタンとはその交わりを引き裂き破壊する力です。神が人と人とが愛し合って共に生きることを望んでおられるならば、サタンとは人と人との間に憎しみと敵意を置き、関係を引き裂き交わりを破壊する力です。神が人間を尊い存在として創造し、そのような尊い存在として生きることを望んでおられるなら、サタンとは人間に自らの価値を見失わせ、自分自身を粗末にさせ、自分自身を破壊させる力です。

 サタンは古代の迷信ではありません。サタンは目に見えませんが、サタンの支配は目に見えます。本当は愛し合って共に生きたいのに、そこにこそ命の喜びがあることが分かっているのに、実際にはなぜか傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている人間の姿。自らの尊厳を投げ捨て、自分を傷つけ、痛めつけ、粗末にし、自らを踏みにじるようなことをしている人間の姿。人間が無知だからですか。愚かだからですか。少々賢くなればいいだけの話ですか。いいえ、そうではありません。愛なる神の御心に敵対する力が支配しているのです。そのようなサタンの支配する世界に私たちは生きているのです。

神の国は来ているのだ
 しかし、そのようにサタンの支配する世界のただ中において、イエス様はもう一つの王国について語られます。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。今日の福音書朗読が伝えている悪霊の追放、福音書において繰り返し語られている悪霊の追放という行為は、まさに神の国が来ていることのしるしに他ならないということです。

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。それは何を意味するのでしょう。イエス様はこんな譬えを語られました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。

 もうお分かりでしょう。この喩えにおいて「強い人」とはサタンです。人間を捕らえているサタンの力です。人間はそのままではそこから逃れることができません。強い人サタンが武装しているからです。しかし、もっと強い人が来られました。それはキリストです。もっと強い人が来て、武装しているサタンに打ち勝ってくださる。イエス様は御自分について語っておられるのです。

 そうです。既に来ているのです。サタンが猛威を振るっているこの世に、神の国が入り込んで来ているのです。イエス様がこの世に来られたとはそういうことです。イエス様は単に良い教えを携えて来られたのではありません。イエス様は単に良い模範を携えて来られたのではありません。そうではなくて、イエス様は「神の国」を携えてこられたのです。私たちに神の国を与えるためです。私たちが神の国に生きるためです。

 イエス様の宣教は神の国を与えるためでした。イエス様が十字架にかかられ罪を贖ってくださったのも神の国を与えるためでした。イエス様が復活されたのも神の国を与えるためでした。神の国を与えるために、キリストは天に上げられ、神の国を与えるために聖霊を注いでくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、主は私たちに教会を与えてくださいました。洗礼を与えてくださいました。聖餐のパンと杯を与えてくださいました。私たちがこの世において神の国を経験するために、信仰生活を与えてくださいました。

 私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです。神に背を向けて生きてきた人が、神の方に向き直るのです。神と共に生き始めるのです。互いに憎みあい敵対しあっていた人々が、そのサタンの力から解放されて、再び愛し合う関係と交わりへと回復されるのです。自分自身を粗末にし、踏みにじり、その人生を泥だらけにしてきた人が、そのサタンの力から解放されて、神の像として創造された自分の尊さに目覚めるのです。そして、尊厳をもって、尊いものとして、自分自身の人生も他の人生をも尊んで生き始めるのです。そうです、神の国は来ているのです。神の国における生活は既に始まっているのです。

空き家にしてはなりません
 しかし、私たちはまた、信仰生活において経験するのは、神の国のごく一部分でしかないことを知っています。「私たちはこの世において神の国を味わい始めるのです」と申しました。そうです、これはまだ始まりに過ぎません。神の国は来ています。しかし、サタンの支配がこの世から消え去ったわけではありません。私たちはまだ戦場にいるのです。戦闘は続いているのです。最終的な勝利、完全な救いについては、私たちは未来に待ち望んでいるのです。そのように信仰生活というものは、既に与えられているものと未来に約束されているものとの間にあるのです。

 そのような私たちの生活に関わることとして、イエス様はなお一つの短い話をなさいました。こんな話です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(24‐26節)。

 ここにはキリストによって与えられる信仰生活が《何でないか》がはっきりと現れています。この話の背景となっているのは、律法に従った清さと正しさが求められていたユダヤ人社会です。

 宗教的な生活という意味では、既に彼らの身近なところにファリサイ派の人々が実戦していた生活がありました。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちは既にいたのです。

 しかし、イエス様が与えようとしているのは、そのような生活ではないのです。ただ清さだけが求められるところには、別の汚れたものが満ちてしまうことをご存じだったのです。

 ルカによる福音書にだけ出て来るこんな話があります。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(18:10-13)。

 ファリサイ派の人が言っていることに偽りはなかったでしょう。言っているとおりに生活していたのだと思います。しかし、きれいにしたその家に別のものが満ちているではありませんか。掃除して飾り付けた空き家には、さらに悪いものが入ってくるのです。

 ですから空き家にしてはならないのです。信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくることではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることなのです。私たちの心に、そして私たちの生活に恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家をつくることなのです。

2015年2月22日日曜日

「人はパンだけで生きるものではない」

2015年2月22日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 4章1節~13節


 今日の聖書箇所は、イエス様が悪魔から誘惑を受けられたという話です。このような「悪魔」が出て来る話にリアリティを感じられないという人はいるかもしれません。しかし、「誘惑」の話を身近なことと考えられない人はいないでしょう。罪への誘惑を受けたことのない人はいないはずですから。今日は「誘惑」について聖書の語ることに耳を傾けたいと思います。

理に適った善いアドバイス?
 今日の箇所は「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)というところから始まります。悪魔から誘惑を受けられたのは、そのような御方だったということです。

 「誘惑を受けたことのない人はいないはず」と申しました。今、誘惑を受けている人、誘惑と格闘している人もいることでしょう。そのこと自体を恥ずべきことと考える必要はありません。キリストでさえ誘惑を受けられたのです。

 また、「誘惑を受けるのは信仰が弱いからだ」と考える必要もありません。聖霊に満ちていたイエス様は誘惑を受けられたのです。神から愛されていないから悪魔から誘惑されるのだと考える必要もありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22節)と言われた方が誘惑を受けたのです。むしろ神の子として愛されているゆえに神の子として悪魔から誘惑されたのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは言いました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。キリストは誘惑を受けられましたが罪を犯すことはありませんでした。

 今日の箇所では特に三つの誘惑について語られています。今日は特に最初の誘惑に注目しましょう。悪魔が言った言葉はこうでした。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)。

 これが語られたのは、荒れ野での期間も四十日となるときでした。その間、何も食べなかったと書かれています。イエス様は空腹を覚えられた。そこで悪魔が語りかけたのが先の言葉です。

 空腹を覚えておられるイエス様に対するとても親切なアドバイスです。悪魔が私たちを憎んでいたとしても、必ずしも災いや苦しみを持ってくるわけではありません。むしろ親切なアドバイスをもってやってくるのです。「こうすれば苦しみから逃れられますよ」と。

 もっともキリストに対して悪魔がただ個人的な苦しみから解放されるためのアドバイスをもってきたとは思えません。救い主であることを知っているのですから。個人的な飢えを解消するためならば、石をパンにしなくても、町に戻ってパンを買って食べたらよいのです。しかし、世の中の飢えた人すべての問題を解決しようとするならば、多くの石をパンにするというのは実に魅力的なアイデアです。

 さて、ここに至ってもう一つのことが見えてきます。「この石にパンになるように命じたらどうだ」という言葉は、イエス様に対してだからこそ誘惑になるのです。私にとっては誘惑になりません。石をパンにする誘惑を受けたことは未だかつて一度もありません。できないからです。できない人にとっては誘惑にならないのです。

 悪魔の誘惑はできることについて受けるのです。私たちはしばしば自分の弱さについて誘惑を受けるのではなく、自分の強さについて誘惑を受けるのです。力にせよ、立場にせよ、モノにせよ、持っていないものについて誘惑を受けるのではなく、持っているものについて誘惑を受けるのです。悪魔は「それを用いなさい」というアドバイスを持ってくるのです。

 そこで「悪いことのために用いなさい」というならば、悪魔らしいので誘惑だとすぐにわかります。「自分の立場を利用して公金を横領しなさい」というのなら、悪魔らしいのですぐにわかります。しかし、悪魔は必ずしも悪いことのために用いよとは言いません。「この石にパンになるように命じたらどうだ」。そうすればイエス様自身の飢えを満たすことができるばかりでなく、多くの人の飢えを満たすことができるのです。それは善いことではありませんか。

 このように、「この石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の言葉は、その能力を持っているイエス様に対して語られるならば、極めて理に適った勧めでありますし、しかも善なる目的に向かった非常に良いアドバイスに見えるのです。そうです、やっかいなことに悪魔の誘惑は必ずしも悪には見えないのです。

人はパンだけで生きるものではない
 だからこそ、イエス様がなぜこの言葉を退けられたのかを知ることが重要になるのです。続きをお読みします。「イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4節)。「書いてある」というのは「聖書に書いてある」という意味です。イエス様が引用しているのは申命記8章3節の言葉です。

 「人はパンだけで生きるものではない」。それをここにいる私かあるいは他の誰かが無前提で語ったら、「それはパンを持っている人の言い草だよ」と言われるかもしれません。あるいは「それは現実から遊離した精神主義だ」と言われるかもしれません。しかし、聖書を引用してこれを語っているのはイエス様なのです。イエス様の言葉として聞かなくてはならないのです。

 これは私たちと同じように体を持つ人間として、飢えることがどういうことかを知っている方の言葉です。これは飢えている人々の間に生きられた方の言葉です。そして、その飢えを現実的に満たす力を持っている方の言葉です。 先週朗読された聖書箇所にもありましたけれど、男だけを数えても五千人にのぼる大群衆にイエス様がパンを与えられたという話が四つの福音書すべてに書かれているのです。

 そのことはまた、そのような物語を伝えてきた教会が、現実的に人間の必要が満たされることを決して小さなこととは考えなかったことを意味します。パンは必要なのです。実際、イエス様も「パンは必要ない」とは言っていないのです。イエス様はパンを与えてくださったのです。

 しかし、そのイエス様が申命記を引用して言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」と。そこには悪魔の誘惑があることを知っていたからです。「人はパンだけでも生きられる」と思ってしまう誘惑があるからなのです。「パンさえあれば」と思ってしまう誘惑がある。あるいは「パンさえ与えることができたなら」と思ってしまう誘惑があるからなのです。

 実際、私たちは人間の様々な具体的なニーズさえ満たされればよいと思ってしまうものです。飢えている時にはパンのことしか考えられないように、何かを必死に求めているときには、その求めが満たされることしか考えられなくなります。具体的な欠乏のために苦しんでいる人を見たら、その求めを満たすことの重要性しか考えられなくなります。しかし、イエス様は言われたのです。「人はパンだけで生きるものではない」。そう言って、悪魔の誘惑を退けられたのです。

 では「パンだけで生きるものではない」ならば、何が必要なのでしょう。イエス様が引用した申命記のもとの言葉はこうなっています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

 イエス様が思い起こしていたのは、かつて荒れ野において同じように飢えていたイスラエルの人々のことでした。イスラエルが荒れ野を旅していた時のことです。そのとき、神は「マナ」という食べ物を与えてくださいました。それはただ彼らの飢えを満たすためではありませんでした。そうではなくて、彼らが「マナ」を与えてくださった神と共に生きるためだったのです。神に信頼し、神に従って生きるようになるためだったのです。主の口から出るすべての言葉によって生きるためだったのです。

 目に見える人間のニーズが満たされることは大事です。しかし、目に見える人間のニーズの満たしのことしか考えられなくなるところには誘惑があります。悪魔は私たちに石をパンに変えろとは言いません。できませんから。しかし、できることについて「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」と勧めてくるかもしれません。

 しかし、そこで必要の満たしのことしか考えられなくなったら、誘惑に陥っていないか省みる必要があります。いつの間にか神とその御言葉から引き離されているかもしれないからです。レントに入りました。私たちにまず与えられているのは、「人はパンだけで生きるものではない」という主の言葉です。

2015年2月15日日曜日

「五つのパンと二匹の魚」

2015年2月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 9章10節~17節


主が迎えられるなら
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。そうイエス様は弟子たちに言われました。「彼ら」とは集まっていた大群衆です。男だけでも五千人はいたと言います。女性と子どもを合わせたら一万人を越えていたことでしょう。

 なぜそのような大群衆がそこにいたのか。イエス様がベトサイダにいることが知れてしまったからです。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」と書かれています。しかし、それだけではありません。なぜそこに大群衆がいたのか。イエス様が彼らを「迎え」たからです。「イエスはこの人々を迎え」と書かれている。11節に使われているのは「喜んで迎える」という意味の言葉です。

 弟子たちからすれば想定外のことでした。予定では彼らとイエス様だけで静かに過ごすはずでしたから。イエス様はどうして「予定がある」って言って断ってくれなかったのでしょう。「弟子たちも宣教旅行の後で疲れているのだから」とどうして言ってくれなかったのでしょう。

 ともあれイエス様はそうなさいませんでした。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。もちろんスケジュールはイエス様がお決めになるのです。仕方ありません。イエス様がお働きを終えたら、ともかく群衆を早々に解散させたらよいと弟子たちは考えていたのでしょう。

 次第に日も傾きかけてきました。十二人の弟子たちはそばに来てイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。

 ユダヤ人の社会では旅人をもてなすことが美徳と考えられていました。あの大群衆も個々人については旅人ですから、それぞれ散り散りに村々に行くならば、彼らを迎え入れてくれる家もあるでしょう。食事を出してくれる家もあるでしょう。なければお金を出して宿を取り、食べ物を買うまでのことです。

 ところがイエス様は弟子たちにこう言われたのです。「《あなたがたが》彼らに食べ物を与えなさい」。「彼ら」とはイエス様が迎えた人々です。そうです、イエス様が迎えたのです。しかし、今度は弟子たちがこの大群衆を迎えなくてはならなくなりました。「あなたがたが食べるものを整えて、彼らを迎えてもてなしなさい」と主は言われるのです。そうです。イエス様が彼らを迎えたのなら、弟子たちもまた彼らを迎えることになるのです。

 私たちはしばしば喜びをもって、どんな人をも受け入れてくださるイエス様について語ります。「イエス様は全ての人を愛しておられます」「イエス様は全ての人を招いておられるのですよ」と口にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の言葉を嬉しく受け止めます。しかし、私たちもまた考えなくてはなりません。イエス様が招かれるのなら、私たちもまた招き迎えることになるのです。

 来週、私たちは教会総会を行います。そこにおいて来年度の計画案も審議されます。今年度の年度主題は「伝えよう!神の愛!」でした。来年度掲げようとしている年度主題は「共に捧げる礼拝への招き」です。この礼拝への「招き」という言葉は「招かれること」と「招くこと」の両者を意味します。共に捧げる礼拝に招かれていることについて考える。それが一つ。そして、もう一つは、共に捧げる礼拝に招くことについて考える、ということです。

 そこで問題は、礼拝に招く主体は誰かということです。第一に、それは主御自身である。主が礼拝へと招いて迎えられる。それは間違いないでしょう。しかし、主が招いて迎えられるならば、それはまた私たちが礼拝へと招いて迎えるということでもあるのです。群衆を喜んで迎えられたイエス様が言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。

天からの恵みを分かち合う
 さて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた弟子たちは、すぐさま「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)と答えました。もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するに「無理です」ということです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。

 しかし、彼らが持っているもので足りないことなど、イエス様は重々ご承知なのです。その上で彼らを人々に向かわせられたのです。

 そう言えば似たような場面がありました。十二人が村々へと遣わされた時のことです。遣わすに当たり、主はこう言われたのです。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(3節)。こんなことをすれば人々に何かを差し出したくても出すものがありません。「わたしたちには何もありません」と言わざるを得ない。しかし、そんなことは重々承知の上でイエス様は遣わされたのです。なぜか。彼らがそこで宣教の旅において手渡すのは、単に自分が持っているものではないからです。

 イエス様は五つのパンと二匹の魚を手にして途方に暮れている弟子たちにこう命じられました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)。弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。

 いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされたとするならば、それは弟子たちの持っていたものによってではなかった、ということです。

 弟子たちは群衆を満たすだけのものは持っていませんでした。しかし、それを弟子たちはイエス様に差し出した。イエス様がそれを受け取られた。そして、イエス様が祝福し、裂いて弟子たちに渡してくださった。弟子たちはそれを汗水流して人々のもとに運んだのです。そうです、それがキリストの意味した、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」ということだったのです。

 では、そこで弟子たちがキリストから受け、群衆に手渡したものはいったい何だったのでしょうか。群衆が受けたものはいったい何だったのでしょうか。パンと魚。食べる物。確かにそうです。しかし、群衆がただパンと魚を食べて満腹したというだけならば、本質的には私たちがバイキングに行って受けるものと変わりません。そんなことを伝えるためにこの物語が四つの福音書に記されているのではないのです。

 彼らは単にパンと魚によって満たされたのではありません。そうではなくて、天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのです。そのパンが弟子たちの懐からではなく天から与えられていることは明らかだったからです。彼らの多くは、かつてイスラエルが荒れ野において「マナ」と呼ばれる天からのパンによって養われたことを思い起こしたことでしょう。あるいは詩編において「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と歌われていることを思い起こしたことでしょう。そして、メシアの王国が到来する時に、そこで祝宴が行われるという人々が抱き続けてきた希望を思い起こしたことでしょう。群衆が味わっていたのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのです。

これはわたしの体である
 考えてみれば、それは本来、集まっていた群衆と全く無縁のものではなかったはずです。というのもイエス様がそこで口にした賛美の祈りの言葉は、恐らくユダヤ人なら誰でも知っている祈りの言葉であったに違いないからです。食事において捧げられる讃美の祈りがある。それは本来食事というものが、天から与えられて分かち合われるものであることを意味します。それは神と人との交わり、人と人との交わりを指し示しているものであるはずなのです。

 そのように食事というものが本来持っているはずの喜びが、ここで改めてリアルに手渡されることになりました。天の恵みを共に分かち合う喜びがとてつもなく豊かに手渡されることになりました。なぜでしょうか。その食卓の主として賛美の祈りを捧げてパンを手渡しているのが、他ならぬイエス・キリストだからです。神と人とが共に住み、人と人とが共に住む神の国をもたらすために、私たちの救いのためにこの世に来られたメシアだからなのです。

 この福音書を読んでいきますと、この場面と同じように、食卓の主人として祈りを捧げるキリストの姿に行き当たります。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。

 そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれたのです。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡してくださいました。私たちが罪を赦された者として、神と共に生き、人と共に生きるようになるためです。あのガリラヤの草の上で人々が味わい知ったことが、本当の意味で実現するためでした。

 そのようにキリストは神に感謝して御自分の体を裂いて私たちに手渡してくださいました。しかし、それはただ私たち自身が満たされるためではありません。主が迎えられる人々がいるのです。主は言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主が迎えられる人々を、主の命を差し出して私たちもまた迎えるのです。彼らと共に主の命を分かち合い、天からの恵みを分かち合い、喜びに満たされるようになるために。

2015年2月8日日曜日

「あなたの罪は赦された」

2015年2月8日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章12節~26節


人よ、あなたの罪は赦された
 「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」(15節)と書かれていました。そんなある日の出来事が17節以下に記されています。

 その日も大勢の人々がイエス様のおられる家に詰めかけていたようです。マルコによる福音書には「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(マルコ2:2)と書かれています。多くは病気の癒しを求めてやってきた人々なのでしょう。そして、確かに病気の癒しの話が書かれている箇所です。しかし、この日の出来事が伝えられる時に、まず登場してくるのは病人ではないのです。ファリサイ派の人々と律法の教師たちなのです。

 「この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」(17節)と書かれています。彼らもまたうわさを聞きつけてやってきたのです。「イエスが教えておられると」と書かれていますように、その教えを調べるためです。律法にかなった正しい教えなのか、その言葉を聞いて判断するためです。彼らは宗教的な指導者たちですから、群衆を集めている男を律法的な観点から監視するためであったと言えるでしょう。

 そのような人々がまず登場してくる。そして、この先を読むと分かるのですが、彼らはあらゆる場面に登場してきて、その関わりが最後まで続くのです。物語全体を貫いているとも言えます。実際、今日の箇所で彼らはイエス様について「神を冒涜するこの男」と判断しているわけですが、その判断が最後まで貫かれることになるのです。罪状としては神を冒涜したというかどによってイエス様は処刑されることになるのです。

 さて、そのようにファリサイ派の人々もいるところに中風を患っている人が床に乗せられたまま運ばれてきました。しかし、先にも触れましたように、戸口の辺りまですきまもないほどですから、群衆に阻まれてイエス様の近くにお連れすることができません。

 そこで病人を連れてきた男たちは彼を屋根の上にかつぎあげます。多くの日本の家屋のような斜めの屋根ではありません。だいたいは平らであって、屋根に上がるための階段も家の外にあるので不可能ではありません。しかし、それでも人間ひとりを屋根に上げるのは大変な労力でしょう。しかも、それだけではありません。彼らは他人の家の屋根を破壊し始めたのです。瓦をはがし、大きな穴をあけ、イエス様の前に中風の人を床ごとつり降ろしたのです。驚くべき熱意です。このような友人を持った人はなんと幸いなことでしょう。イエス様のもとに連れていってあげたい一心で、人の家まで壊すのですから。

 しかし、そうまでしてつり降ろした病気の人に対して、イエス様が言われた言葉は「病気を癒してあげよう」ではありませんでした。イエス様は開口一番、その人に向かってこう宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)。

 もちろん中風であることは苦しいことでしょう。体が動かないことは辛いことでしょう。病気であったなら、治りたいことでしょう。しかし、イエス様には分かっているのです。病気を癒して欲しいという求めよりも、もっと深いところにある根源的な求めが何であるか。魂が最も深いところで切望しているのは何であるのか。それは罪の赦しだったのです。彼に最も必要だったのは罪の赦しだったのです。それゆえに主は彼に宣言されたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」。

 これは私たちすべての人に関わっていることであると言えるでしょう。病気の癒しが必要なのは病気の人です。ですから体が元気な人ならば、私には病気の癒しは必要ないと言えるかもしれません。しかし、神によって罪を赦していただく必要のない人はいないのです。聖書ははっきりと語っています。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)と。

 しかし、罪の問題は体の健康の問題とは明らかに異なります。中風であったなら、病は自覚できるでしょうし、他の人の目にも明らかです。ですから、そこから病の癒しを求めるということも起こってくるでしょう。しかし、人間の罪は、神の目には明らかであったとしても、人間の目に隠されていることの方が多いのです。他の人々の目に隠されているだけでなく、自分の目にも隠されている。自分自身の罪を自覚できないことの方がはるかに多いのです。それゆえにまた、罪の赦しを求める魂の根源的な切望も自覚できないことの方がはるかに多いのです。

 実際、イエス様が「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言した時、そこに何が起こったのか。「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか』」(21節)と書かれているのです。

 「いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というこの言葉は、自分は罪人であると思っている人の言葉でしょうか。罪の赦しを切望している人の言葉でしょうか。そうではないでしょう。神のみが罪を赦すことができるということは分かっています。罪の赦しについて教理的には知っています。罪の赦しに関わる祭儀として律法が何を定めているかも知っているのでしょう。しかし、それはあくまでも他人事です。罪の赦しについて語っていますが、神に裁かれるべき罪人として罪の赦しを切望しているわけではないのです。

どちらが易しいか
 ですから、イエス様は彼らにこう問わざるを得なかったのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(23節)。もちろんイエス様が言っているのは、ただ口で言うことの易しさの話しではありません。口で言うだけなら両方易しい。誰でもできます。しかし、実質を持つ宣言としてはどちらが易しいか、となると答えは単純ではありません。

 恐らく私たちが考えるならば、「起きて歩け」と言う方が難しいのでしょう。実際にその宣言をもって癒して歩かせるのは難しい。奇跡が起こらなくては無理です。私にはできません。それに比べたら「あなたの罪は赦された」と宣言するのは簡単そうです。

 しかし、ここで重要なのは、本当はどうなのかということなのです。イエス様から見るならばどうなのか。イエス様にとってどちらが易しいのか。罪の赦しを与えることと病気の癒しを与えることと、どちらが易しいのでしょう。

 イエス様は中風の人に言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行ったのです。そのように、イエス様にとっては病気を癒すことは決して難しいことではないのです。罪の赦しを与えることよりも遙かに易しいことだったと言えるのです。

 なぜ病気の癒しを与えることの方が易しいのでしょう。病気の癒しを熱心に求める人は少なくないからです。人は病気を癒してくださる恵み深い神は熱心に求めるのです。そして、癒しを差し出されるならば、大喜びで、感謝をもって受け取るのです。いや究極的には、本人に受け取る意志がなくても、癒しは強制的に与えることもできます。そして、病気が癒されれば体は健やかになります。

 しかし、罪の赦しについてはそういかないのです。罪の赦しの本質は交わりの回復です。神との交わりの回復なのです。そして、神との交わりの回復ということは、神がいかに恵み深く臨んだとしても、一方通行では成り立たないのです。交わりとはそういうものでしょう。「あなたの罪は赦された」という言葉だけでは意味をもたない。ここで問題となっているのは実質的に意味を持つ宣言として、どちらが易しいかということですから。

 「あなたの罪は赦された」という宣言が真に意味を持つのは、その人が罪を赦された人として立ち上がり、感謝して神と共に歩いて行くときなのです。そのためには、人間の側の罪の自覚と悔い改めがどうしても必要なのです。 ですから、イエス様にとっては、自分は正しい人間であると思い込んでいるファリサイ派の人々や律法学者こそ、最も難しい存在だったのです。彼らと関わるより、おびただしい数の病人に関わって癒す方が、はるかに容易なことだったのです。

 イエス様には、癒すことのできない病気はありませんでした。追い出すことのできない悪霊もいませんでした。しかし、イエス様であっても、罪を認めさせることのできない罪人は数多くいたのです。人間の頑迷さは、イエス様の宣教の働きの前に、最後まで強固に立ちはだかっていたのです。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。イエス様にとっては、「起きて歩け」と言う方がはるかに易しいことでした。

 しかし、イエス様には分かっていたのです。その容易ならざることのためにこそ御自分来られたということ。人に罪の赦しを与え、人が神との交わりに生きるようになるためにこそ主は来られたということ。そのためにこそ、神の権威が与えられていたこと。そのためにこそ、命を捧げなくてはならないこと。十字架へと向かわなくてはならないこと。自ら苦しみ抜いて十字架の上で死ななくてはならないことを主はご存じだったのです。

 それゆえに、主は御自分のなそうとしていることを示すしるしとして、この中風の人を癒されたのでした。イエス様が言っておられるように、罪を赦す権威が与えられていることを示すためにです。すなわち、憐れみ深い神がイエス様を通して罪の赦しを与えようとしていることを示すためにです。その他の場面においてなされている癒しの奇跡もまた、そのことを指し示すしるしとして意味が与えられているのです。

 そのようなキリストが、今も生きて働いておられるのです。私たちの根源的な必要がどこにあるかを教え、示し、悔い改めへと導いてくださる。そして、今も罪の赦しを宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦された」と。教会はそのようなキリストの体なのです。罪の赦しを宣言し、神との交わりを回復させるために、今も働いておられるキリストの体なのです。





2015年2月1日日曜日

「実を結ぶ神の言葉」

2015年2月1日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章4節~15節


聞く耳のある者は聞きなさい
 今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」(4‐8節)。

 「大声で言われた」とありますが、そこで用いられているのは「呼びかける」という言葉です。イエス様は「呼びかけて言われた」。さらに言うならば、これは「呼びかけ続けていた」という意味合いの表現です。ある時に一回だけこのたとえ話を話して、そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのではないのです。そうではなくて、イエス様は繰り返し呼びかけ続けておられた。つまりここに描かれているのは一つの典型的な場面なのです。イエス様はこのように町々村々で繰り返し呼びかけ続けてこられたということなのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 そのようなイエス様のお働きを、イエス様御自身は「種蒔き」として見ておられました。蒔かれる種、それは「神の言葉」だと説明されています(11節)。イエス様は「神の言葉」という種を人々に蒔きながら、繰り返し呼びかけておられたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 「種」――それは小さいものです。砂粒にも似ています。しかし、種と砂粒とは異なります。種の内には命があります。それゆえに種の内には豊かな実りの可能性があります。百倍の実りを生み出す可能性が秘められているのです。

 しかし、それはあくまでも可能性に留まります。実りは種だけによって決まらないからです。実りはその種を受け入れる土地によって異なるのです。すなわち、神の言葉が語られても、聞き方によって結果が異なるのです。それゆえに、イエス様は呼びかけ続けられるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。そう語られるのは、様々な聞き方があるからです。

四種類の土地
 イエス様は宣べ伝えられた御言葉の様々な「聞き方」について、これを四種類の土地によって表現されました。第一は「道端」です。

 道端に落ちた種はどうなるか。「人に踏みつけられ」と書かれています。神の言葉が、そのように聞く人によって踏みつけられることがあります。受け入れられることなく拒絶され、卑しめられることがあるのです。こうして踏みつけられた種は空の鳥に食べられてしまいます。

 このことについて、イエス様はこのように説明していました。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。

 それは実際、イエス様の宣教において常に起こっていたことでした。集まった大勢の群衆の中にはいつでもファリサイ派の人たちや律法学者たちがいたのです。疑いと敵意とをもって聞いている人たちがいたのです。彼らにも同じ言葉が語られていたのです。しかし、同じ言葉が語られていても、拒絶された神の言葉は実を結ぶことはありませんでした。

 そして第二は「石地」です。石地に落ちた種はどうなるのでしょう。その種は踏みつけられることはありません。しっかりと芽を出します。しかし、やがて枯れてしまうのです。イエス様は次のように説明しています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。

 芽は人に見えるところにあります。根っこは人の目から隠れたところにあります。神の言葉によって生きる信仰生活において、大事な部分は人の目につかないところにあるようです。ちょうど根が大地に深く入っていってそこから水と養分を吸収するように、人の目からは隠れたところにおいて、御言葉によって神御自身にしっかりとつながっているかどうかが重要なのです。人の目につくところにおいては同じように見えても、その違いは試練において現れてくるのです。

 次に語られているのは「茨の地」です。茨の中に落ちた種はどうなるのでしょう。茨が押しかぶさってくるので伸びることができません。イエス様は次のように説明しています。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。

 「茨」とは、一方において「思い煩い」だと言われています。思い煩いが生じるのは不足や困窮の場合です。もう一方において「茨」とは「富や快楽」だと語られています。富や快楽が問題となるのは、満ち足りている場合です。困窮していようが、満ち足りていようが、そこには成長を妨げるものがあるのです。そこには神の言葉が与えられ、救いが芽を出しているという、とてつもなく大きなことが起こっているのです。しかし、その大きなことが起こっているという事実を大切にしないで、思い煩いや富や快楽のことばかり考えていれば、成長はストップしてしまう。それが茨の中に落ちた種に起こることです。

 そして、イエス様は最後に「良い土地」について語られました。良い土地に落ちた種はどうなるのでしょう。豊かに実るのです。百倍の実を結ぶのです。神の言葉の内には確かに豊かな実りをもたらす命があることが現れてくるのです。イエス様は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。

 「立派な善い心」と言われているのは、御言葉を信じて受け入れる心です。しかし、大事なのはそれだけではありません。「よく守り、忍耐して」と語られています。種が芽を出し、成長し、実を結ぶまでには時間がかかるのです。その間には先にも触れたような「試練」を経なくてはならないかもしれません。だからこそ、ここばかりではなく聖書には繰り返し「忍耐」について語られているのです。神とその御言葉を信じ続けるのです。信仰に留まるのです。そのようにして豊かな実を結ぶのが「良い土地」です。

惜しみなく蒔かれる主
 さて、イエス様がそのように四種類の土地について語られ、そのたとえがイエス様の解説と共に伝えられてきた一つの目的は、これを聞く私たちが自らを省みるためであると言えるでしょう。私たちはどのような土地であるのか。道端であるのか、石地であるのか、茨が生い茂った土地なのか、それとも良い土地なのか。この聖書箇所を読む度に私たちは考えざるを得ないのでしょう。そして、それは大切なことです。

 しかし、今日心に留めたいのはもう一つのことです。それは道端にも種が蒔かれているということです。このたとえ話においては、良い土地にだけではなく、石地にも茨の地にも種が蒔かれているのです。

 それは種の蒔き方が私たちの知っている蒔き方と違うからです。今日の観点からすれば、かなりいい加減な蒔き方です。先に耕して畝を作ってから種を蒔くわけではありません。種をつかんで畑の上に適当にばらまくのです。そうやって種を蒔いてから少し耕します。すると種が土で覆われます。適当にばらまきますから、道の上にも落ちることがある。石の上に落ちることもある。茨の残っている所にも落ちることもあるのです。

 そのような極めて大雑把な種蒔きを、イエス様はたとえに用いられたのです。イエス様は御自分がなさっていることを、そのような種蒔きにたとえられたのです。実際、イエス様のなさっていたことは、まさにその通りのことでした。良い土地だけを選んで、そこだけに種を蒔いていたのではないのです。道端にも惜しみなく種を蒔いていたのです。明らかに敵意むき出しの人々にも種を蒔いていたのです。大喜びで自分についてくるけれど、やがては離れ去っていく人々にも、惜しみなく種を蒔いていたのです。もしかしたら思い煩いや富の惑わしによってふさがれて成長しないかもしれないところにも、惜しみなく種を蒔いていたのです。

 そのようなイエス様の働きは、後の時代においても変わることはありませんでした。キリストは御自分の体である教会を用いて、御言葉の種を蒔き続けてきました。迫害する者にも、無関心な人々にも、石地であろうが茨の伸びてくる場所であろうが、キリストは御言葉の種を蒔き続けてきたのです。そして、イエス様は呼びかけ続けておられた。「聞く耳のある者は聞きなさい」。今も呼びかけ続けておられるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

 皆さん、そのようなイエス様の種蒔きだからこそ、私たちのところにも種が落ちたのでしょう。だから今もなお私たちに御言葉の種が蒔き続けられているのでしょう。

 ここに語られている四種類の土地。それらは互いに離れた別な場所ではありません。イエス様が話しておられるのは一つの畑の話です。「道端」というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。「石地」もまた同じ畑の中にあります。石を一生懸命に取り除くのですが、それでもなお石が残ってしまったところです。「茨の中」も同じです。茨を一生懸命除くのですが、茨は深いところに根を張っているので、いくらでも生えてくるのです。

 すべては同じ一つの畑です。ならば、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る畑の一部なのです。どれも百倍の実りをもたらす土地となり得る畑の一部なのです。そのような、私たちとして、今、私たちはここにいるのです。キリストは実りを信じて、御言葉の種を蒔き続けていてくださいます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と今も呼びかけ続けていてくださいます。応えるのは私たちです。

2015年1月18日日曜日

「扉が閉ざされる時」

2015年1月18日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 16章6節~15節


二度の計画変更
 今日の聖書箇所において何よりも注目に値しますのは、パウロが計画を二度も変更せざるを得なかったということです。一度目については次のように書かれています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(6節)。

 パウロたちは、「アジア州」すなわち小アジア西部の地域に行って御言葉を宣べ伝えるつもりでいたようです。まずはその首都であるエフェソに向かおうと思っていたのでしょう。その計画自体は間違いであったようには思われません。というのもアジア州、特にエフェソは、後に福音宣教の一大中心地となっていくことになるからです。そこにパウロはいち早く注目していたということです。

 一世紀の終わり近くに書かれた書物に「ヨハネの黙示録」があります。その書物はまずアジア州にある七つの教会に宛てたキリストの言葉から始まるのです。パトモスに抑留されていたヨハネは次のように命じられたと書かれています。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(11節)。これはその頃のキリスト教会全体にとって、アジア州の諸教会がどれほど大きな意味を持っていたかを示していると言えるでしょう。

 そのような可能性に満ちた地域に目を留めて、そこで御言葉を伝えようと計画していたのがパウロでした。しかし、その彼らの計画は頓挫してしまったのです。聖書にはそのことについて「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」としか書かれてはおりません。

 それが具体的に何を意味するのかは分かりませんが、それにしても「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とはまことに不思議な言葉です。悪を行うことを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。利己的な企てを「聖霊から禁じられた」というのなら分かります。しかし、どう考えても悪ではないこと、神のために行おうとしていること、常識的に考えても正しいと思えることについて神からストップをかけられるというのは理解しがたいことです。実際にパウロたちにも理解できなかったのでしょう。だから「聖霊から禁じられた」としか書かれていないのです。神の霊は禁じる理由を説明してはくれませんでした。

 ともあれ、ストップをかけられたのでアジア州で御言葉を語るという当初の計画を変更して、彼らはフリギア・ガラテヤ地方を通って行きました。どこに向かってか。彼らが向かっていたのはビティニア州でした。

 その計画もまた、それ自体は間違っていたとは思われません。そこにはユダヤ人が多く住む居留区があったのです。まずユダヤ人の会堂に行ってユダヤ人たちに語りかける。既に聖書を知っている人たちに語りかける。それがパウロの伝道のスタイルでした。そこから考えても、次に向かったのがビティニア州であったことは極めて理に適ったことであると言えるでしょう。実際、後の時代にビティニア州には教会ができることになるのです。後にペトロの手紙が回覧された時、その宛先の一つとなっていたのはビティニアの教会だったのです(1ペトロ1:1)。

 そのようにパウロは当初の計画を変更してビティニア州に向かったのでした。しかし、今回はそこに入ることすらできなかったのです。聖書にはただ「イエスの霊がそれを許さなかった」としか書かれていません。そこでイエスの霊は理由を説明してはくれませんでした。

 このように一度ならず二度までも神によって扉が閉ざされることとなりました。悪だからではありません。動機が不純であったり利己的であったからでもありません。私たち人間の側からは、その時どうして神が禁じられるのか、許されないのか、扉を閉ざされるのか、分からない。そのようなことは、確かにあるのです。

 しかしここを読む限り、御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたことについてパウロたちが気に病んでいる様子は全く見られません。イエスの霊が許さなかったことについてこだわっているようにも見られません。明らかに彼らにとっての関心事は別なところにあるのです。すなわち、神がどこに進ませようとしているかということ、それだけなのです。

 そのような彼らを、神は確かに導いてくださいました。次のように書かれています。「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(9‐10節)。このように、神はアジア州ではなく、まず彼らをマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

 確かに、パウロがアジア州で御言葉を語ろうとしたこと自体は間違いではありませんでした。やがて後の日にパウロはアジア州で御言葉を語ることになるのです。そこにはやがて多くの教会ができるのです。パウロがビティニアに行こうとしたことも間違いではありませんでした。やがて神はそこに教会を建てられるのです。しかし、神には神の順序があるのです。天地創造物語に見るように、神は御自身が定められた順序に従って事を進められる神なのです。そして、神の順序はしばしば人間が考える順序とは異なるのです。それゆえに時としてストップをかけることさえも大事なプロセスとなるのです。そのようなプロセスを通して、神は彼らをまずマケドニアへと向かわせようとしておられたのです。

出会うべく備えられていた人々
 彼らはトロアスから船出して、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行きました。「ローマの植民都市」と書かれていますように、そこはローマの退役軍人が多く入植している町でした。住民のほとんどはローマ人とマケドニア人で占められていてユダヤ人はほとんどいなかったようです。それはフィリピにユダヤ人の会堂がなかったことからも分かります。そこにあったのは川岸にある「祈りの場所」だけでした。

 そのように極端にユダヤ人の少ない町がパウロの伝道計画のトップに挙げられることは通常ならばまず考えられないことでしょう。フィリピに来たのはあくまでも幻を見せられたからであって、それ以外の理由はありませんでした。 しかし、そのようなフィリピにこそ、パウロが出会うべき人が備えられていたのです。それは「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(14節)でした。

 パウロたちが安息日に町の門を出て川岸の祈りの場所に行った時、たまたまそこにいたのがリディアでした。紫布で有名なのはティアティラ市の方ですから、フィリピに家があるにしても常にフィリピにいた人ではないでしょう。またパウロがフィリピにいたのも数日間ですから、次の安息日にはいないのです。

 そのようにたまたまその安息日に祈り場にいた彼女はパウロの語る言葉を聞くことになりました。そして、主が彼女の心を開かれました。彼女はキリストを信じ、彼女も家族の者も洗礼を受けました。彼らはフィリピにおける最初のキリスト者となりました。そして、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってパウロたちを招待したのです。「無理に承知させた」(15節)と書かれています。そうです、彼女は強いて彼らを泊まらせたのです。

 しかし、それは決定的な意味を持つ出来事となりました。結局そのことにより、彼女の家はフィリピにおける伝道の拠点となったのです。この後、パウロたちは投獄されるという事件が続くのですが、この章の最後にはこう書かれています。「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した」(40節)。既にそこに兄弟たち、すなわちキリスト者たちが集まっていることがわかります。

 そして、この集まりこそが後にフィリピの信徒への手紙が宛てられる教会となるのです。その手紙を読むと、フィリピの教会は経済的にパウロの伝道を支えていた教会であることが分かります。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 当初予定していたアジア州については、後の日に腰を落ち着けて伝道することになるのでしょう。しかし、その前に神はパウロの働きのために、このようなフィリピの教会を備えてくださっていたのです。確かに神には神の順番があるのです。

 そして、さらにもう一人、神が備えておられた人について語ることができるでしょう。それはルカによる福音書とこの使徒言行録を書き記した医者のルカです。今日は6節からお読みしましたが、そこでは「さて、彼らは…」と書き始められています。しかし、10節からは「パウロがこの幻を見たとき、《わたしたちは》すぐに…」となっているのです。トロアスに下ったところからルカが加わっているということです。そこにルカとの出会いがあったのです。

 なぜトロアスに下ったのか。アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたからでした。ビティニア州に入ろうとしたけれど、イエスの霊がそれを許さなかったからでした。扉が閉ざされたから。しかし、扉が閉ざされた時、別の扉が開いていて、そこを進んだところに出会うべき人々が備えられていたのです。

 「聖霊から禁じられた」「イエスの霊がそれを許さなかった」と書かれていますが、具体的にはパウロが病気になったのではないかと想像する人もいます。それは十分あり得ることでした。パウロ自身、「わたしの身に一つのとげが与えられました」(2コリント12:7)と手紙の中で書いていますから。そこに医者ルカとの出会いがあったのかもしれません。

 いずれにせよ、計画通りにいかないことがあったからこそ、ルカとの出会いもあった。パウロとルカとの出会いがなかったらルカによる福音書も使徒言行録もこの世に存在していなかったかもしれません。そのことを考えますと、改めて神の計画の奥深さを思わされます。

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