2014年12月21日日曜日

「神にできないことはない」

2014年12月21日 クリスマス礼拝 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章26節~38節


主があなたと共におられる
 今年のクリスマス礼拝で読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に住むひとりの娘の前に現れて、こう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。マリアは戸惑ったと書かれています。それはそうでしょう。天使がいきなり現れて戸惑わない人はいません。しかし、聖書には「マリアは天使を見て戸惑った」とは書かれていないのです。「マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。戸惑いの元はマリアの聞いた言葉にありました。

 「戸惑い」と書かれていますが、他の翻訳では「ひどく胸騒ぎがして」となっています。「おめでとう、恵まれた方」。これは聞いて胸騒ぎがするような言葉でしょうか。それ自体は、喜ばしい何かを期待させるような言葉に思えます。では、「主があなたと共におられる」。これについてはどうでしょうか。これもまた喜ばしい言葉に思えます。

 ところが、マリアはこれを聞いて胸騒ぎを覚えたのです。戸惑ったのです。「主があなたと共におられる」。もし主が、私たちの困った時に助けてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。もし主が、私たちの悲しみや苦しみの時に慰め励ましてくださるというだけの神様なら、「主があなたと共におられる」という言葉は単純に喜ばしい言葉でしょう。しかし、マリアには分かっていたのです。「主があなたと共におられる」とは単にそのような意味ではないことを知っていたのです。

 「主があなたと共におられる」。そう言われる時、その「主」なる神様には行おうとしておられることがある。実現しようとしておられることがあるのです。そのような「主」が「あなたと共におられる」と言われる時、主は何かを実現するために「あなた」という存在を用いようとしておられるのです。

 聖書の中にこんな場面があります。今から三千年以上も前、かつてイスラエルの民がエジプトにおける奴隷であった時、その奴隷の民を解放するために神様が選ばれたのはモーセという人物でした。彼はその時、ミディアン地方に住む羊飼いでした。いつものように羊を飼っていると、そこで不思議な光景を目にします。柴が燃えている。そして、その柴は燃え尽きない。不思議に思って近づくと、その柴の間から声がありました。「モーセよ、モーセよ」。そして、主はこう言われたのでです。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト3:9‐10)。

 「今、行きなさい」と言われても困るでしょう。かつてはどうであれ、今は一介の羊飼いに過ぎないのですから。ですからモーセは言うのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

 しかし、そこで主はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同3:12)。モーセが自分の実力で人々を解放するのではないのです。そうではなくて、神がなさるのです。神がモーセを用いてなさるのです。「わたしはあなたと共にいる」とはそういうことです。そして、実際、神はモーセを用いてイスラエルの民の解放を成し遂げられたのです。

 そうです。マリアには分かっているのです。主なる神がどのような御方であるか分かっているのです。神は人と共にいて、人を用いられる神様だということを。人を用いて事を始め、事を進め、事を成し遂げられる御方だということを。だから「主があなたと共におられる」という言葉を聞いた時に、胸騒ぎがしたのです。主が何かをなそうとしておられる。その主が共におられる。主がわたしを用いようとしておられる。それはある意味ではとても不安なことでもあるのでしょう。

神にできないことはない
 そして、実際、天使が持ってきた話はマリアの想像を遙かに超えたものでした。ガブリエルはこう言ったのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30‐33節)。

 「あなたは身ごもって男の子を産む」。それはマリアにとって驚くべき告知です。もしそれがヨセフと結婚する前に身ごもるという話であるならばなおさらです。ユダヤ人社会においては絶対に認められないことですから。

 しかし、マリアにとって恐るべきことであったのは、むしろその子が何者であるかということでした。「いと高き方の子」「父ダビデの王座」「その支配は終わることがない」。それら全ての言葉は、生まれくる子供がイスラエルの待ち望んできたメシアであることを示していました。つまり天使は、「ついに待ち望んできた救い主が到来するのだ。そして、救い主の到来のために母として用いられるのが他ならぬあなたなのだ」と言っているのです。「おめでとう、恵まれた方!」と。

 これは羊飼いのモーセがイスラエルの解放者として選ばれたどころの話ではないでしょう。「あり得ない!」マリアがそう思っても無理はありません。イスラエルにおけるメシア待望というのは、にわかに湧き起こってきたものではないのです。それこそ何百年にわたって人々が待ち望んできたことなのです。それがマリアから産まれる子供として実現するというのです。マリアは神の子の母となるのです。

 もちろん、マリアも敬虔なユダヤ人の一人ならば、同じように救い主の到来を待ち望んできたことでしょう。神の救いが実現することを切に望んできたことでしょう。しかし、ただ神の救いを待ち望むことと、そこに自分が用いられるということは、まったく別な話です。かつてモーセは言いました。「わたしは何者でしょう!」ならばマリアはなおさらそう言いたかったはずです。「なぜわたしが?なんら特別ところのないとりえもないわたしがなぜ?」

 実際、聖書はマリアについて何の特別なことを伝えてはいません。ごく当たり前のどこにでもいるような娘だったということでしょう。マリアとしては自分がいかにその資格がないかを言い並べたかったに違いありません。そもそも、身ごもって男の子を産むと言われても、まだ結婚すらしていないのです。彼女は言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。

 しかし、神様からすれば、人間の側から見て資格があろうがなかろうが、人間の目から見て可能であろうが不可能であろうが、そんなことはどうでもよいのです。神様が事を行うために神様が用いるのですから。

 それゆえにガブリエルはこのように答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。生まれる子が聖なる者、神の子と呼ばれるとするならば、それはマリアがどのような人物であるかによるのではないのです。当たり前のことですが、マリアの胎に宿る子は、マリアの資質を受け継いで救い主となるわけではないのです。それは聖霊によるのです。神の霊が降り、神の力によって実現することなのです。

 そして、実際に人間の可能性によってではなく、ただ神の力によって実現した出来事を伝えます。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」そして、こう言ったのです。「神にできないことは何一つない」。

 これが単に一般的な意味における神の全能について語っているのではないことは、話の流れから明らかでしょう。「神にできないことは何一つない」。それは、人間の側の可能性によらず、人間の側の限界にかかわらず、神はどんな人をも用いることがおできになる、ということです。

 私たちは往々にして「何ができるか」「何ができないか」「何を持っているか」「何を持っていないか」「強いか」「弱いか」――そんなことをお互い気にしながら、お互い比較しながら生きているものです。けれども、神の御前において本当に重要なのはそのようなことではないのです。人間にできなかろうと、「神にできないことは何一つない」のですから。神はどんな人をも用いてどんなことをも成し遂げることがでおできになるのです。

 大事なことは別にあります。それはマリアがここでしていることです。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。「神にできないことは何一つない」という言葉を聞いて、マリアはその神の御手に自分自身を差し出したのです。どう考えても自分がふさわしいとは思えない。実際、自分がどのように用いられ、どのようなプロセスを経て、主の約束の言葉が成就するのかも分からない。しかし、それでもなお、今あるがままの自分自身を主に差し出したのです。

 今日、お二人の方々が洗礼をお受けになります。お二人にはぜひ覚えておいていただきたい。あなたがたは何か特別な人間になる必要はありません。どうぞ今あるがままの自分自身を主に差し出してください。主は救いのご計画の中でお二人を用いてくださいます。どうぞ天使の言葉を心に留めてください。「神にできないことは何一つない」。

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