2014年11月16日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

2014年11月16日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章1節~15節


 モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。エジプトから逃れミディアンに住み着いてから既に四十年もの歳月が流れていました。そこで妻も娶りました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それはイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。追い使う者のゆえの叫びを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分の為し得ることなど何もない、と。実際、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。苦しみ同胞を見捨てて、四十年前、エジプトからミディアンへ。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が出会われた次第を伝えています。主はモーセに呼びかけられたのです。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る』」(7‐8節)。

 神様が御自身を現されたなら、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。それはモーセが知る必要のないことだったからです。モーセが知るべきことは別なことだったのです。

 主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これがモーセの知らされたことでした。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知ってくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 わたしたちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、キリストによって、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も目を留めてくれないかのように見えたとしても、誰の耳に届かないかのように見えたとしても、誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地…へ彼らを導き上る」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなことできるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。杖で土の塵を打つこと。すべて主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。主は単独で事をなされない。モーセと共に行動されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神の御前に祈ります。声を上げます。聞いて下さる神に、苦境を訴えます。必要を訴えます。神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。降りたもう神が、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。そうです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎないではないですか。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。大切なことは、ただ神が召してくださることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。主は言われます。「行きなさい」と。そして、言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

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