2014年11月2日日曜日

「あなたが掘り出された岩穴に目を注げ」

2014年11月2日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 51章1節~3節

    ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。

アブラハムの信仰
 そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(イザヤ51:1)。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。そのこと遡って行きますと、その大本に至ります。切り出されてきた元の岩に至るのです。

 では、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」とは何なのか。聖書はこう続けます。「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(同2節)。

 アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。そこに目を向ける時、「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」が見えてくる。それはどのような物語でしょうか。「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という言葉をもって、主はその物語を思い起こさせます。

 それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早いと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人を選ばれました。見込みのない人を選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性が潰えていくように、約束の実現を先延ばしにされました。

 なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人によって実現されることではなく、神によって実現されることを待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムにそのことを求められたのです。どうしてか。神はただもう一つの民族を創ろうとしていたのではないからです。そうではなく、信仰の民を創ろうとしていたのです。信仰の民の祖先とするために、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。

 そして、アブラハムは信仰をもって神に応えたのです。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰をパウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。

 これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずなのです。

荒れ野をエデンの園とする
 さて、このように主の言葉を語っていたのは、今から約2500年前の預言者でした。聞いていたのはエルサレムの人々です。彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と主が語られたのは、そう語らざるを得ない理由があったからです。それは続く言葉からわかります。

 「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。

 エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。

 しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、周りはこの再建を快く思わない人々に囲まれており、激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられませんでした。彼らは希望を失っていきました。

 荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いは私たちの内にも根強く存在するのでしょう。実際、どんなに一生懸命耕しても、種を蒔いても、何一つ生えてこない、まさに不毛の地としか思えない現実が確かにありますから。皆さんにとって荒れ野とは何ですか。毎日の生活ですか。夫婦の関係ですか。問題を起こす子供たちですか。社会における人間関係ですか。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が確かにあります。

 しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。荒れ野がエデンの園になるとするならば、その前に変わらなくてはならないものがあるのです。それは荒れ野を見ている人自身の心です。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の思いです。だから主はまず「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。

 そこで主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖が受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰を再認識しなくてはなりませんでした。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。

 いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。

 なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。いわば神はキリストにおいて「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。

 そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。

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