日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章25節~36節
今日からアドベント(待降節)に入ります。教会の暦におきましてはアドベントから新年が始まります。この「アドベント」という呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来します。「キリストの到来」です。アドベントは、今から約二千年前にキリストがこの世界に到来したことを思うだけでなく、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られることを思う期間でもあります。そのようにアドベントは一年の初めに置かれていますが、内容的には「始まり」よりむしろ「終わり」に思いを向ける期間でもあると言えます。
身を起こして頭を上げなさい
ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのは後者でしょう。
今日の聖書箇所においてイエス様もまた「終わり」について語っておられますが、その言葉の多くは破局としての「終わり」を連想させるものです。今日の朗読箇所の直前にはエルサレムの滅亡が予告されています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)。そして、この予告は約40年後に実現することとなります。エルサレムの滅亡はユダヤ人にとってまさに破局です。
そして、今日の箇所に入って、イエス様はユダヤ人だけでなく他の諸国民にとっても破局としか思えないことを語り始めるのです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(26節)。
古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわば、世の信頼できる秩序はもはや何も残っていないということです。そこで人は「なすすべを知らず」、不安と恐れを抱きます。主は明らかに破局としての終わりについて語っているように見えます。
しかし、イエス様はさらにこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。
解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。要するに人間が普通考えるような仕方では来ない。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で来られるということです。
だから、この世界が無力感と不安と恐れに包まれる時、同じように不安と恐れに支配されてはならないのです。その時こそ、あなたがたが身を起こし、頭を上げるべき時だ、と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。
わたしの言葉は決して滅びない
そこでイエス様はさらに重ねて、たとえを用いて語られます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。
これも普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。そして、「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」ならば、どういう言葉が続くのが自然でしょう。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、自然に連想できることですから。しかし、イエス様はそうは言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。
「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味でしょう。主を信じるならば、この世と同じように考えてはならないのです。新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から、破局としての終わりではなく完成としての終わり、「神の国」を思うべきなのです。そこで明らかに求められているのは、主とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。
「天地は滅びるが」と主は言われます。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが」と言われるのです。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。
このように、主を信じる者は、最終的にたとえ天地が滅び行くとしても、すべてが過ぎゆくようなことがあっても、近づいているのは破局ではなく、神の国なのだと信じることが求められているのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される主に信頼することが求められているのです。
心が鈍くならないように
さて、主が語っておられるのは「終わり」についての話です。しかし、「終わり」についての話は、ただ「終わり」にのみ関わるのではありません。「終わり」をどう見るかが現在の生き方を方向付けるからです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、ここでイエス様が語っておられることは、今、私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。
実際、私たちが日々直面しているのは、エルサレムが滅亡するような出来事ではありません。現在この世界が直面しているのは、天体が揺り動かされるような事態ではありません。もっとずっと小さなことでしょう。しかし、そのような終末的事態ではなくとも、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくとき、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくとき、人は何を考えるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方であるとき、いったい人は何を考えるのでしょう。無力感と不安と恐れに満たされる時、人は何を考えるのでしょう。そこで人が考えるのは破局としての終わりではないでしょうか。最終的に希望などない、と。
しかし、私たちが信じている主は「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。そうです、私たちはこの主とその御言葉に信頼して生きるのです。目に映るところによって、神がなさろうとしていることを判断してはならないのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。最終的に人の子が「雲に乗って」来られると語られているようにです。
そのように、私たちはどのような時にも、目に映るところがどうであれ、主のみ言葉に信頼し、希望をもって生きる。主が「終わり」について語っておられるのは、今、私たちがそのように生きるためです。ですから、主はさらにこう言われるのです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(34‐36節)。
生き生きとした希望を失う時、破局としての終わりしか考えられなくなるとき、醒めた心をもって生きられなくなります。本当の意味で現実的に生きられなくなります。「心が鈍く」なってしまいます。自分で自分の心をあえて鈍くしてしまうこともあるでしょう。「放縦や深酒で」と書かれているのはそのような場合です。あるいは望まずとも心が鈍くなってしまうこともあるでしょう。「生活の煩いで」とはそのような場合です。煩いの種となっていることしか考えられなくなるのです。そのように主がなさることに希望をもって目が向けられなくなる。心が鈍くなってしまいます。
だから私たちはそうならないためにも、私たちが信じている主がどのような方であるかを思い起こさねばならないのです。終わりについて主が語られたことを思い起こさねばならないのです。その意味において、アドベントという季節が与えられていることは幸いなことです。
最終的な救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来られるのです。私たちが信じているのは「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる御方です。そのことを忘れて、希望を失って心が鈍くなったまま、終わりの時を迎えるようなことがあってはなりません。最終的に人の子が到来する時に、希望をもって待ち望んでいた者として、人の子の前に立つ者でありたいと思います。