2014年10月19日日曜日

「神が目から涙をことごとくぬぐってくださる」

2014年10月19日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 7章9節~17節


 今日は礼拝においてヨハネの黙示録が読まれました。そこに描かれていたのは天において神を礼拝する大群衆の姿でした。それはヨハネの見た幻です。ある意味では極めて特殊な個人的な神秘体験です。しかし、このような幻の記されている書物が聖書の中に置かれており、今日に至るまで読み継がれてきたのは、それがヨハネ個人のことに留まらず、代々の教会に深く関わることが書かれているからでしょう。そのようなヨハネの黙示録とはいったい何なのか。まずそこに目を向けたいと思います。

礼拝で朗読されるための手紙
 ヨハネの黙示録の1章まで遡りますと、この書は次のような言葉から始まります。「イエス・キリストの黙示」。「黙示」とは「啓示」とも訳せます。神様が覆いを取り除いて明らかにしてくださったことです。それがこの書物には書かれているのです。これは全体の表題とも言えます。そして、序文に当たる部分が3節まで続きます。

 このように「黙示」とか「啓示」という表題がついている。ある意味で聖書の中で独特な書物です。しかし、この序文の部分を伏せて4節から読んでみてください。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」(4‐5節)。これは当時の一般的な手紙の書き方です。実際、パウロの手紙などと書き方がよく似ています。

 差し出し人はヨハネです。ヨハネはパトモス島にいます(9節)。エーゲ海に浮かぶ小さな島、流刑地となっていた島です。ヨハネは信仰のゆえに流刑となっているのです。当然のことながらそこに教会はありません。パウロの手紙などですと、彼と一緒にいる人について「~からよろしく」という言葉が出て来るのですが、この黙示録には出てきません。一緒に礼拝を捧げる信仰者の交わりはそこにありません。その意味で彼は孤独です。

 そのような孤独の中から彼は手紙を書くのです。アジア州にある七つの教会に宛てて。ただ安否を問うためではありません。3節にこう書かれていました。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)。つまりこれは朗読されるための手紙なのです。どこにおいてですか。礼拝においてです。私たちが今しているようにです。これは共に集まって礼拝する時に朗読されるための手紙なのです。

 礼拝のための手紙であるとはどういうことでしょう。この手紙が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃、ドミティアヌス帝の治世であると言われます。それは皇帝礼拝が強要された時代であり、皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられた時代です。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。そのような中でキリスト者はなおも集まって礼拝をしたのです。

 それはある意味では命がけのことでした。集まることは危険なことでしたから。信仰を公にせず、隠れて個人でキリストを信じる者として、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はありません。しかし、彼らはそうしなかった。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。これは、そのような人々に宛てて書かれた手紙です。そのような場所で朗読された手紙です。そのような手紙がここにおいて朗読される時、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なことか。本当に命をかけても惜しくないほどの恵みであると思っているでしょうか。

 そのような手紙に、大群衆の姿が描かれていたのです。それが今日読まれた聖書箇所です。そこには、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆がいたのです。白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持って神と小羊の前にいて、大声でこう叫んでいるのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)。

 そのように神とキリストを礼拝し、誉め讃えているのは誰なのでしょう。その幻を見ているヨハネが質問されます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは言います。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」そこで答えが与えられます。(14節)「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

殉教者が大声で誉め讃えている神
 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」と語られていました。新改訳聖書では「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳)と訳されています。この方がむしろ直訳に近いのです。

 「大きな患難から抜け出て来た者たち」。どうして神はヨハネに「患難から抜け出て来た者たち」の姿を見せたのでしょうか。しかも、彼らが大声で神とキリストを誉め讃えて礼拝している姿を見せたのです。なぜでしょうか。どうして、ヨハネはそのような天の描写を手紙として書き送ったのでしょうか。それは、この手紙が苦難の中にありながらも、集まって礼拝していた人々に宛てられた手紙であることを考えるとよく分かります。

 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」とあの大群衆は叫んでいました。そうです、救いは神とキリストのものであり、そこから救いは来るのです。そう私たちもまた信じているのでしょう。そうです。この手紙を受け取った人々もまた、そう信じている人々です。しかし、そのような彼らに現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々もいたのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにある。

 そうです。患難の中にあって、信じることが困難になるのです。しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見える人々が、なんと大声で神を誉め讃えている姿を見せたのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」と。

 そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に一番近いところにいるのです。神の助けがなく守りもないように見える中で殺されてしまった彼らは、神から遠ざけられた人々なのか。とんでもない!彼らは神に一番近くに招かれていた人々なのです。そして、こう書かれている。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 その行き着くところは命の水の泉だったのです。渇き求めていた本当の命はそこにあったのです。そして、神は目から涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」と書かれています。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられたということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。その全てが、流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

 さて、繰り返しますが、これは主の日に礼拝を捧げている人々に宛てられた手紙です。礼拝の中で朗読されるようにと書かれた手紙です。そこにおいて語られているのは、「生きている間は苦しいけれど、死んだら楽になりますよ。天国の喜びがあるのですから、今は苦しみがあっても耐えましょう」という次元の話ではないのです。そこで礼拝している神はどのような神なのか、そこで礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか、ということなのです。

 ヨハネの見た幻の大群衆、「大きな患難から抜け出た者たち」についてはこう語られていました。「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。小羊とは十字架にかけられたキリストです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しです。彼らの衣は殉教したから白くなったのではありません。死んだから白くなったのではありません。キリストによって白くせられたのです。

 ならば天の礼拝であろうが、地上の礼拝であろうが同じなのです。地上において私たちが礼拝している神はどのような神なのか。地上において私たちが礼拝しているキリストはどのようなキリストなのか。神はヨハネにはっきりと見せてくださったのです。それは、無残に殺された殉教者たちが天において大声で誉め讃えている神なのだ、ということを。苦難から抜け出た者たちとして、涙をことごとくぬぐわれる者として、大声で誉め讃えている小羊キリストなのだ、ということを。その同じ神を、その同じキリストを、地上においても礼拝しているのです。

 この地上の生活において、神の愛と真実は、しばしば見えなくなります。それは迫害の時代ならずともそうなのでしょう。しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽は無くならないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。

 ならば大切なことは何か。この地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのか。あえて信じることです。目に映るところがどうであれ、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。信仰に踏みとどまることなのです。疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。信仰によって生きるためです。

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