2014年10月12日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

2014年10月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節


キリストの苦しみ
 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。「苦しむことを喜びとする」。通常、私たちはそのようなことは言いません。むしろ苦しみは喜びを失わせます。

 しかし、「苦しむことを喜びとする」と言い得る時が全くないわけではありません。それはその苦しみが愛する者のための苦しみである時です。自分の苦しみが意味のないものではなく、無駄になってしまうものではなく、愛する者のためになる苦しみである時、苦しむことは喜びをも伴います。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」いう言葉から、コロサイの教会を愛してやまないパウロの思いが伝わってまいります。

 しかし、パウロが「苦しむことを喜びとする」と言っているのは、ただ彼らを愛しているからだけではありません。さらにパウロはこう続けるのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。さらに言うならば、自分の苦しみをキリストの苦しみの一部として見ていたということでしょう。キリストの苦しみの欠けている部分を満たしているのですから。

 いずれにせよ、パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。その欠けている部分をパウロは満たしているだけだというのです。パウロはコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために喜んで苦しみをも耐え忍んでいたのでしょう。しかし、彼がそうする以前に、キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。「キリストの苦しみ」と聞くならば、すぐに思い浮かぶのは十字架です。私たちの罪のために負ってくださったキリストの苦しみです。罪の贖いのための苦しみです。しかし、罪の贖いの苦しみならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがありません。

 罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。キリストは独りですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受けられたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリストは独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは何であったのか。それは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。

 しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。自分の苦しみが先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先に労苦しておられる。キリストが苦しんでおられるのです。キリストがコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の一部に過ぎないのだと分かっていたのです。だから彼は言うのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。

あなたがたの内におられるキリスト
 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは代々にわたって隠されていたけれど、今や神によって明らかにされたのです。そして、全ての人に宣べ伝えられねばならないのです。

 ではその「奥義」とは何なのか。いや、この問いかけは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。このキリストを通して、神に敵対するこの世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の赦しが現わされました。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」とパウロは言うのです。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。今日はお読みしませんでしたが、14節にこう書かれています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。キリストのおられるところに罪の赦しがある。ゆえに、そこには神と人との和解があります。神と人との間に平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。キリストが「あなたがたの内におられるキリスト」となられるための愛であり、そして苦しみです。

 実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。キリストに対して固く戸を閉ざしていた私たちがいます。今もそこにしばしば舞い戻ってしまうような私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリストになろうとしてくださいました。そこにまた「キリストの苦しみ」がありました。私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのでしょう。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのでしょう。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

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